渋谷のシンボル・忠犬ハチ公像を作った
安藤照の東京初の回顧展
「黙然たる反骨 安藤照 ―没後・戦後80年 忠犬ハチ公像をつくった彫刻家―」が渋谷区立松濤美術館にて開催中

中央:安藤照《忠犬ハチ公》制作年不詳 谷内眞理子氏蔵
右:安藤照《日本犬ハチ公像》 1933年 個人蔵(鹿児島市立美術館寄託)
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東京・渋谷のシンボルともいえる渋谷駅前の「忠犬ハチ公像」。実は現在の像は2代目で、今はもう見ることができない初代・忠犬ハチ公像がかつてあった。その幻の初代忠犬ハチ公像を制作した彫刻家・安藤照(あんどうてる)の展覧会「黙然たる反骨 安藤照 ―没後・戦後80年 忠犬ハチ公像をつくった彫刻家―」が、渋谷区立松濤美術館で開幕した。
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- 「黙然たる反骨 安藤照 ―没後・戦後80年 忠犬ハチ公像をつくった彫刻家―」
開催美術館:渋谷区立松濤美術館
開催期間:2025年6月21日(土)〜8月17日(日)
戦争が奪った安藤照の人生と忠犬ハチ公像

安藤照(1892〜1945)
鹿児島市出身の彫刻家。1917年に東京美術学校(現・東京藝術大学)へ入学し、在学中の1921年に帝国美術院展(帝展)で彫刻家デビュー。翌年には帝展特選、1926年には帝国美術院賞を受賞。その後1927年に帝展彫刻部審査員、1929年には仲間と「塊人社」を結成。代表作は1934年制作の初代《忠犬ハチ公像》(渋谷駅前)、1937年の《西郷隆盛像》(鹿児島市)など。素朴で静謐な作風で高い評価を得る。1945年5月、山の手空襲によりアトリエが被災、安藤自身も戦災死。享年54。
渋谷駅前に立つ忠犬ハチ公像は知っていても、そのハチ公像に「初代」がいたこと、その制作者である安藤照という彫刻家を知っているという人は多くはないだろう。
それも仕方がないことで、1934(昭和9)年に完成した初代・忠犬ハチ公像は、第二次世界大戦の戦況が悪化する1944(昭和19)年、金属類回収令により接収、溶解されてしまったのだ。そして、その作者である安藤照も、1945(昭和20)年5月25日に起きた空襲(山の手空襲)の犠牲になった。この時、渋谷の自宅兼アトリエにあった多くの作品も、安藤の命と共に失われた。
戦後、忠犬ハチ公像が溶解されたことを惜しんだ人々の尽力で、安藤の長男・士(たけし)が、初代を模して2代目を制作した。これが今私たちが知る“忠犬ハチ公”なのだ。ハチ公像が復活した一方で、その命と大半の作品を戦争で奪われた安藤照の存在は、その後急激に忘れ去られてしまった。
本展では、安藤の没後80年という節目に開かれる、東京では初の回顧展となる。生前は若手彫刻家たちのリーダー的存在であったにもかかわらず、長く忘れ去られてきた安藤照の作品とその生涯に迫る。
幻の初代・忠犬ハチ公像の面影を追う

右(中央奥):安藤照《日本犬ハチ公像》 1933年 個人蔵(鹿児島市立美術館寄託)
安藤が手掛けた初代の《忠犬ハチ公像》は、前述の通り、今はもう実物を見ることができないが、本展では、奇跡的に戦禍を逃れた3つの忠犬ハチ公像によってその姿を知ることができる。
メイン画像(一番上)の写真の3点の作品の内、中央の石膏によるハチ公像(画像上、手前に同じ)が、安藤自身の手によって作られた小型の《忠犬ハチ公像》だ。当時、銅像設立の際に募金を募り、その返礼品として小型の銅像が贈られることがあり、この石膏像もその返礼品用の模型として作られたと考えられている。そして本作を元にして作られたテラコッタによるハチ公像がメイン画像(一番上の写真)左側の像だ。安藤はこの出来栄えに納得せず、テラコッタの像が寄付者に贈られることはなかったが、制作したいくつかの作品は破棄されずに残された。展示されているハチ公たちは、空襲の被害からも奇跡的に免れた貴重な作品だ。
写真右側(メイン画像一番右、および写真上中央奥)の伏せるハチ公像は、大正天皇の妃である貞明皇后がハチ公を見たいと望んでいることを聞いた安藤が依頼を受けて制作した皇室への献上品だ。「本物のハチ公が見たい」という要望に応えるため、狛犬をモデルにした姿ではなく、実際の様子に近い姿で表されている。
運命の師と友に出会った学生時代

右:朝倉文夫《つるされた猫》1909年 東京藝術大学蔵
展覧会は、安藤が東京美術学校(現・東京藝術大学)の在学中に制作した《男首》(自刻像か)から始まる。そしてその隣には、その頃に東京美術学校の教授として着任し、安藤を指導した師・朝倉文夫の作品が並ぶ。当時すでに彫刻界を牽引する存在であった朝倉の作風である自然主義的写実(あるがままの姿を忠実に再現することを目指す表現様式)の影響が《男首》にも認められる。

右:三國慶一《明けがたの海》 1916年 個人蔵

堀江が習作として制作したものを、安藤がその完成度を惜しみ、彫刻家・松田直之と共に無断で石膏取りをし、堀江を説得して帝国美術院第2回美術展覧会に出品した作品。本作は見事に初入選し、特選となった。安藤と堀江、松田の親交の深さと、安藤の慧眼を物語る一作。
学生時代の運命の出会いは師の朝倉だけではない。その後生涯にわたる友であり、切磋琢磨する彫刻家仲間となる堀江尚志や、清水三重三などとの出会いも大きい。当時は彫刻界で高村光雲など戦前の大御所のほか、その次の世代として朝倉文夫、高村光太郎ら、そして安藤たちの世代と、次々と実力を備えた者達が台頭してくる時代であった。本展では、そうした同時代の彫刻家たちの作品も紹介されている。

安藤は東京美術学校に1917年から22年まで在学し、卒業後、彫刻家として独立。やがて作風は朝倉の目指す自然主義的写実に留まることなく、古代エジプト、古代ギリシャ・ローマ時代の彫刻作品、あるいは仏像などの古美術の造形を大いに参考にし、自身の表現を探求していく。
師から決別して立ち上げた「塊人社」での活動

安藤の兎は“塊”という言葉がぴったりだが、その中でも顔や耳、前足など兎の特徴を捉え、見れば見るほど愛くるしい。それぞれの作家の表現の違いを楽しみたい。

そうして確立した安藤の作風を一言で言うならば、「塊(かたまり)感」と、本展を企画した学芸員・野城今日子氏は語る。細部の細かな表現にこだわらず、彫刻としてのボリューム感、1つの塊としての存在感を感じさせる表現は、素朴でもあり、質実剛健な力強さも感じさせる。
また、安藤の活動の中でも特に重要な位置を占めるのが、1929(昭和4)年に設立した「塊人社(かいじんしゃ)」での活動だ。1928年、帝国美術院における覇権争いで、自身の派閥が劣勢となった状況に立腹した朝倉が、自身と門下生の作品を出品しないことを決断した。さらに朝倉が会員を辞任するという一連の事態に関連して、当時同会の審査員でもあった安藤も責任を負い、辞任した。その一件を機に、安藤は仲間たちと共に師・朝倉と決別、彼らと共に立ち上げたのが「塊人社」であった。

東京美術学校入学前に、石彫を得意とした武石弘三郎に学んでいた安藤は、いくつか石彫も制作している。
展覧会の後半は、安藤をはじめ「塊人社」のメンバーの作品が集結する。野城氏曰く、一見すると何となく全体の雰囲気が似ていると感じるのは、安藤の作風の影響が強かったことの現れだという。「塊人社」で、時に安藤は社員である他の作家たちの指導も行っており、グループのリーダーであった安藤の作風は、他のメンバーにも大きな影響を与えたことがうかがえる。

「黙然たる反骨」――戦時下でも貫いた精神とは
さて、ここで本展の副題「黙然たる反骨」に注目したい。安藤の量感のある静謐な作風は、「黙然」という言葉とは繋がるが、「反骨」の精神があるようには見えないかもしれない。しかし、実はこうした作品を制作すること自体が、当時においては「反骨」とも言えるのであった。
安藤が中堅作家として活躍していたこの時代は、日中戦争から第二次世界大戦という、まさに日本が悲惨な結末へと歩みを進めている最中であった。彫刻界においても、戦意高揚のための作品作りが求められるほか、さらに戦況が悪化すると軍用機の製造のため金属が接収されるようになった時代だ。

馬専門の彫刻家として知られる伊藤は、積極的に戦争を主題とする作品を手掛けた。細部まで写実的な造形と劇的な構図は、国威発揚を促すには実に効果的であっただろう。
安藤は、そうした中でも自身の作風を曲げることなく、自身の信じる純然たる美を追求し、制作を続けていた。1935年に雑誌『美術』の中で語った「ただ黙々と仕事をして居ります」という安藤の言葉は、濁流に飲み込まれまいとする彫刻家としての矜持であっただろう。
しかし「塊人社」も国家総動員体制により戦争への協力を余儀なくされる。太平洋戦争が勃発すると、1944年には「塊人社」は戦闘機の部品のための石膏型を制作することになった。また冒頭でも述べた通り、渋谷の街のシンボルとなった忠犬ハチ公像も接収、溶解された。

そしてついに、1945年5月25日、山の手空襲によって安藤はその犠牲となる。本展にも展示されている、安藤の後輩で、「塊人社」のメンバーであった小室達(とおる)の日記には、安藤の最期を聞いた日のことが綴られている。そこには、長女、女中、叔母らと共に防空壕の中で蒸し焼きになったという壮絶な最後の様子が記されている。
2025年は戦後80年の節目の年。本展は8月17日まで開催されているが、今この時期に、この渋谷の地で、安藤照という一人の彫刻家の人生と、わずかに残された作品を知ることの意義は大きいだろう。