日本人としての油絵に挑み、新たな地平を開いた
小出楢重の画業の軌跡を辿る
「小出楢重 新しき油絵」展が、府中市美術館にて2026年3月1日(日) まで開催

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外来の表現である油絵を、いかに日本人として描くかという課題に真正面から取り組み、その地平を開いた画家 小出楢重(以下楢重)の展覧会「小出楢重 新しき油絵」が、府中市美術館で開催されている。
本展は、関東と関西にある二つの美術館による共同開催である。大阪に生まれ、大阪を拠点に活動した楢重の作品の多くが関西に所蔵されていることから、大阪中之島美術館が企画しており、さらに楢重が32歳のときに初入選した二科展を活躍の場としていた画家らの作品を多く収集してきた府中市美術館に巡回するという形で、この貴重な展覧会の機会が実現した。
- 美術館・展覧会情報サイト アートアジェンダ 展覧会情報
- 「小出楢重 新しき油絵」
開催美術館:府中市美術館
開催期間:2025年12月20日(土)〜2026年3月1日(日)

展覧会では、初期から43歳でその生涯を閉じるまでの作品を展示し、日本画、挿絵、装丁、随筆、ガラス絵など、その多彩な創作の軌跡を辿ることができる。
楢重の代名詞とも言える裸婦画の数々

本展はまるで楢重の人生をなぞるようにして、時代を追って構成されている。その中でも見所は、この展覧会のクライマックスに位置する晩年の傑作、裸婦画が一堂に会する展示である。楢重といえば「裸婦画」と評されるほど、そのオリジナリティは見る者の心を強く捉える。
大阪出身の楢重らしさが光る人情味溢れるタッチ、そこに西洋絵画がもたらした空間感覚と、絵画としての自律した完成を示す肉体のデフォルメが、誰にも真似できない一枚を生み出している。

楢重が活躍した1920年代は、西洋の伝統的な手法である油絵を、日本人がいかに描くかが模索された重要な時代である。その礎を築いた楢重のひとつの到達点とも言えるこれらの裸婦像の誕生に至るまで、作家がどのように試行錯誤を重ねてきたのか、順を追って見ていきたい。
大阪で育んだ美意識と、油絵への情熱

楢重は1887年、大阪中心の島之内で、軟膏「天水香」を看板商品とする薬屋の三男として生まれた。島之内は商業の中心地であり、また花街や芝居小屋、見世物小屋に囲まれた地域であった。このような「庶民文化」や「下手もの」に囲まれた環境こそが、楢重独自の美意識を育んでいった。
さらにこの美意識を絵画へと昇華させる契機を与えたのが、父・楢治郎の存在だ。彼は四条派の画家・渡辺祥益に日本画を学んでおり、やがて楢重も手ほどきを受けはじめる。
こうした経験も影響してか、1907年に受験した東京美術学校(現・東京藝術大学)では、西洋画科ではなく日本画科に入学を許可された。しかし油絵を描くことへの情熱は冷めることはなく、木炭デッサンの練習を重ね、2年後に西洋画科に転科した。
卒業後は大阪に戻り、今度は奈良に移って風景画の制作に取り組むが、文部省美術展覧会(文展)では落選が続き、不遇の時代を過ごすこととなる。
契機は楢重が30歳となった1917年頃に訪れる。結婚、長男の誕生、新しいアトリエの確保と私生活に明るい変化が重なった。新しいモチーフを手にした楢重は、次第に風景画から離れ、そして代表作となる《Nの家族》が誕生した。
出世作《Nの家族》の誕生

《Nの家族》は、楢重自身と妻、子どもの3人を描いた肖像画である。手前にはセザンヌを彷彿とさせる静物とホルバインの画集、背景には円形の自画像などが飾られ、要素だけを見れば雑多にも思えるが、緻密な構成と北方ルネサンス絵画を思わせる抑制の効いた色調の画面から、西洋絵画の伝統を自らの血肉にしようとする楢重の強い挑戦心が感じられる。
《Nの家族》は大正8年の第6回二科展に出品され、有望な新人に贈られる樗牛賞を受賞した。二十代を費やした長年の試行錯誤の末に、ようやく画家として公式の場で確かな評価を得ることとなった。

展示会場では、《Nの家族》の前身作となる《芸術家の家族》が並べて展示されている。人物3人の配置などは《Nの家族》とほぼ同一である一方、周囲に配される物に違いが見られ、楢重の顔が《Nの家族》ではより細く戯画的に表現されるなど、作家の試行錯誤が窺い知れる。
パリでの失望、そして生活の変化

背景に欧州から持ち帰ったラッパなどが置かれている
1921年、楢重は実家を売却した資金をもとに欧州へと旅立つ。パリ、ベルリン、南仏カーニュなどに5ヶ月ほど滞在したが、古典絵画にも、同時代に活躍したエコール・ド・パリの画家たちの活動にも、あまり感動は得られなかったという。
「フランスには油絵はどっさりあるが芸術はないといってもよさそうだ」と楢重自身が語っている通り、パリで出会った様々な絵画は必ずしも楢重の琴線に触れるものではなかったようだ。しかし、この旅で油絵そのものに対する理解を深めると同時に、日本において油絵をいかに発展させるべきかという、新たな視点を携えて帰国することになる。
西洋の伝統が生活と深く結びついていると発見した楢重は、帰国後、自らの生活を西洋風へと改め、欧州で購入したフランス人形やラッパ、黒い帽子などをモチーフとして絵画に取り入れていった。さらに厚塗りを特徴とする以前の作風から、絵の具を薄く溶いて重ねる描き方へ変更し、色彩は彩度を上げ、より明るいものへと変化していった。
そしてこの時期から、生涯を通しての重要な主題となる裸婦画にも本格的に取り組み始めた。
洋館での裸婦画の制作、そして絶筆へ

当時暮らしていた日本家屋で洋風の絵画の制作に限界を感じていた楢重は、1926年に大阪から芦屋の洋館へと移り住み、翌年には友人で建築家の笹川慎一の設計によるアトリエを新設する。そして生涯の幕を閉じる1931年まで、ここで裸婦画に取り組むこととなった。

楢重の裸婦画には、ポーズこそ多様であるものの、終始一貫したルールが見られる。まず日本人モデルを起用すること、そして《Nの家族》に見られるような群像ではなく人物は常に一人で描かれること、さらにモデルは画面中央に据えられ、画面いっぱいに描かれることなどだ。加えて、モデルの表情はほとんど描かれない。顔を横に背けた裸婦たちは個人の物語性を内包したシーンを退け、ただフォルムとして画面に存在している。

晩年の裸婦画と同じ頃に描かれた静物画
最初は立像の模索から始まった裸婦画はやがて座像へと移行し、そして最終的に寝台や布、影などが緻密に構成されたセットの前で横たわる裸婦像へと変化を見せていく。こうして晩年の3年間に次々と傑作が生み出された。
重要な画家でありながら、楢重の回顧展が開催されるのは約四半世紀ぶりだ。初期の日本画から重要文化財《Nの家族》、そして円熟期の傑作である裸婦画に至るまで、日本の油絵の礎を築いた画家である楢重の画業を一望できる貴重な機会である。ぜひ府中市美術館に足を運び、その世界に触れてみてほしい。