まるで美術館のようなしつらえ、
創業者の蒐集した逸品が出迎える萩の宿 常茂恵
アート&旅 | HOTEL SELECTION VOL.03
構成・文 小林春日
美術館めぐりが好きな人の中には、旅先でも、美術館や博物館を1日2~3軒はしごして周ることをいとわないという人も多いようだ。せわしない日常から離れた余暇には、浴びるように芸術に触れるような人生の謳歌の仕方も魅力的だ。自分の心も体もリセットしながら、新しいエネルギーを取り込む大切な時間になるだろう。
特に旅をしながら、アート三昧で過ごすときには、宿泊先にもこだわりたい。今回訪れたのは、山口県萩市の萩城城下町にある、萩の宿 常茂恵(はぎのやど ともえ)。館内のしつらえは、まるで美術館のようなこの宿は、逸品ものの陶芸作品や日本画、偉人の書や掛け軸が随所に飾られている。客室は純和風数寄屋造りで、回廊から眺める手入れの行き届いた落ち着きある石庭の景観は見事だ。さらにすべての客室からも四季折々の日本庭園の眺めが楽しめるという。
迎賓館のような趣のこの旅館は、山口県萩市の実業家であった厚東常吉に、郷土の名士らから「萩には中央からの客人をもてなす宿泊施設がない」と相談があったことをきっかけに、大正14年11月3日に創業した。その後、建物の老朽化に伴い、平成元年に同じ市内で約2700坪の敷地面積を持つ現在の地(山口県萩市土原)へと移転した。
山口県萩市の市街地は、「三角州」と呼ばれる日本海と阿武川の支流である2つの川に囲まれた地域にある。この地域には今から約400年前、毛利輝元が1604年に築城した萩城の跡地があり、かつては萩城を眺めていたであろう指月山(しづきやま)がいまも円錐形の山容を見せている。萩城を中心に形成された城下町は、世界遺産にも登録されている「明治日本の産業革命遺産」を構成するの萩エリアの遺産群の一つでもあり、現在も江戸時代の風情を色濃く残す。萩の宿 常茂恵は、創業時も移転後もこの三角州内に建てられている。
創業者の厚東常吉は、幕末に活躍した思想家・教育者、吉田松陰の偉業を後世に残すべく、萩市に松陰神社の御社殿造営の中心的な役割を果たした。松陰が開いた私塾である松下村塾(しょうかそんじゅく)は、伊藤博文、高杉晋作、山縣有朋らの偉人を多く輩出している。現在も、三角州には、高杉晋作や山県有朋の生誕地や銅像、萩藩の学校であった明倫館の跡地に建てられた明倫学舎、毛利氏の萩における屋敷であった旧厚狭毛利家萩屋敷長屋などが建ち並び、幕末の歴史の胎動に思いを馳せずにはいられない。
萩の宿 常茂恵の女将である、厚東啓子さんによると、
「吉田松陰の志に学ぶ経営者の方も当館には多くお見えになられます。また、萩は教育者にとっても聖地みたいなところですので、教育関連の方も多くいらっしゃいます。」
吉田松陰の後世に渡る影響力や、萩の宿 常茂恵の創業者である厚東氏が、松陰の偉業を残そうと松陰神社造営のために果たした役割の大きさが感じられる。
そういった、江戸時代から幕末にかけての歴史の面影を残す街に建つ、萩の宿 常茂恵の館内に再び目を向けたい。
ロビーの一角には、美術品を展示した展示室がある。現在は、開館のきっかけとなった郷土の名士の一人、近代日本画家の巨匠 松林桂月(1876-1963)の作品が掛かっている。(展示室では、日本画や書などの作品が月ごとに掛け替えられるという。)
館内には、萩焼の作家 三輪和彦(第十三代三輪休雪)のオブジェ作品が飾られている。そして、この旅館の受付に掲げられた館名「常茂恵」の揮毫は、萩焼で初めて人間国宝に認定された、三輪和彦の叔父にあたる、第十代三輪休雪によるものだというから驚きだ。
三輪休雪(みわきゅうせつ)とは、1663年(寛文3年)に初代 休雪が萩毛利藩に召し抱えられて御用窯となった、三輪窯当主の名跡である。三輪休和(みわきゅうわ 1895-1981)の代に人間国宝となり、第十代三輪休雪を襲名している。
伊藤博文、山縣有朋、桂太郎、犬養毅といった名士たちが揮毫した書や、萩出身で日本南画界の重鎮、松林桂月の作品など、館内に掛けられている書やお軸や日本画などは、宿を創業した厚東常吉が蒐集したものである。
移転前の建物には、昭和天皇が泊まられた貴賓室がある。移転後の館内にも再現され、その居室には日本画家 松林桂月の書やお軸が当時のままに掛けられている。
館内のロビーや回廊におかれた家具も目を引く逸品だ。当館を設計した建築家のセレクトによって、木工家具作家として世界的に著名なジョージ・ナカシマの椅子やテーブルが館内のスペースに惜しげもなく並んでいる。素材はウォルナットで脚部は希少な木の中心部が用いられている。椅子は、コノイドチェアと呼ばれるジョージ・ナカシマの代表作で、座面はお尻がするりとおさまるようにゆるやかなカーブが施されており、座り心地の良い名作椅子である。
館内や各居室には、スウェーデン出身で、萩市南明寺の麓に窯を構えるペアソン・ベアティル氏の、花や草木を描いた萩焼の陶板が飾られている。ロイヤルコペンハーゲン社で絵付けの仕事に携わっていたペアソン・ベアティル氏は、研修旅行のために来日した際に訪れた萩で、素朴な土の味をいかした萩焼に魅せられ陶芸家になることを決意したという。昭和天皇がお泊りになった貴賓室には、昭和天皇が好まれていたイワシャジンという花を描いた作品をこの貴賓室のために制作したという。
部屋食を基本としたお食事は、魚料理では、春は萩市の見島沖から直送される極上の甘鯛や、夏は萩沖で水揚げされるオコゼ、秋から冬にかけては、戻り鰹やアンコウ、そして萩名物ふぐなど萩近海のものが、そして肉料理では、三種のブランド肉(長萩和牛、むつみ豚、長州赤鳥)などが提供される。また、萩は、日本酒の銘酒の産地でもあり、懐石料理を萩の地酒とともにいただくひとときは至福である。
そして、焼き物で有名な産地ならではのおもてなしとして、お料理に使われる器にも注目したい。2006年(平成18年)まで萩の宿 常茂恵の社長を務め、現在の新館の開館を手掛けた厚東昌佑氏がかつて、あちこちの窯元を周っては買い集めてきた器や鉢がさりげなく存在感を放つ。川喜田半泥子の第一のお弟子さんであった坪島圡平の廣永陶苑(三重県津市)の作品、高橋楽斎の信楽焼、佐々木八十二の瑞光窯の織部焼、福森雅武の伊賀焼の土鍋などが、お料理を一層引き立て、目にも楽しませてくれる。
最近では、女将が親しくしているという萩焼作家 内村幹雄の手掛ける、萩焼の伝統を踏まえつつ、あまり主張しすぎない、のどかな日常に視点をおいた、ぬくもりある器も仲間入りしている。陶芸や器好きの方々も、国内のみならず、ヨーロッパなどの海外から、セラミックツアーなどで萩を訪れた際に、この宿を訪れる方々も多いという。
「萩というところは、癒される街なのではないかと思うんです。こんな小さな街なのにすぐそばには立派な美術館( 山口県立萩美術館・浦上記念館 )もありますし、作家も多くいらっしゃいますし、香月泰男美術館 も近くにあります。山口県立美術館 も遠くはないですしね。海もあるし、食も堪能できますし、“癒しが売り”(笑)の街なのではないかなと思っているんです。」
そうお話しされる、女将の厚東啓子さんからは、美術館名がいくつも飛び出してくる。女将自身もよく美術館巡りをされるという旅館だからこそ、アート好きには居心地が良いのかもしれない。山口を訪れる際には、美術館巡りとともに、萩の宿 常茂恵で癒しのひとときを過ごしてみてはいかがだろうか。
- アートアジェンダ ホテルセレクション
- 萩の宿 常茂恵
〒758-0025 山口県萩市土原(ひじわら)608-53
TEL 0838-22-0150 FAX 0838-22-0152