星、月、鳥、女…
20世紀を代表する巨匠・ミロが見た夢とは
「ミロ展」が東京都美術館にて、2025年7月6日(日)まで開催

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1893年、スペインのカタルーニャ州に生まれたジュアン・ミロ(1893-1983)。1920年代にシュルレアリスムの画家として、同じくスペイン出身のピカソと共に20世紀を代表する巨匠の1人だ。ミロは、太陽や月、星、人物などのモチーフを、鮮やかな色彩と単純化した線描で表し、詩的で夢のような世界を作り上げた。時に「子供の落書きのよう」と表現されるミロの芸術世界はどのようにして生まれ、どのように発展していったのか。
東京都美術館で開幕した「ミロ展」は、没後40年以上を迎えたミロの大回顧展となる。バルセロナのジュアン・ミロ財団の協力のもと、選りすぐりの約100点が上野の地に集結し、約70年にわたるミロの画業を振り返る。
- 美術館・展覧会情報サイト アートアジェンダ 展覧会情報
- ミロ展
開催美術館:東京都美術館
開催期間:2025年3月1日(土)〜7月6日(日)
ピカソが生涯手元に置いたミロの初期作品も展示
ミロは幼少期から画家になることに憧れ、美術学校で学ぶが、「手堅い職についてほしい」という父親の意向で、一時は薬局の会計係として働く。しかし意に沿わぬ仕事は長くは続かず、翌年は画家になることを決意する。

本展では、若きミロが様々な絵画様式を試み、模索している頃の貴重な作品が展示されている。当時、家族の別荘があったモンロッチで過ごしていたミロは、その田園風景を印象派の筆触分割や、強烈な色彩が特徴のフォーヴィスムなど、様々な技法で描いた。

そんなミロにとって、最初の“オリジナル”といえる表現が細密描写だ。《ヤシの木のある家》では、単純化された耕地の描写に対して、そこに生える植物が細かく描きこまれている。
ミロは1920年に初めてパリを訪れ、ピカソに出会い親交を深めた。本展の冒頭を飾る《自画像》と《スペインの踊り子の肖像》の2点は、ピカソが生涯手元に置いた作品だ。2つの作品からはピカソとミロの結びつき、そして若き日のミロが画家として自立していこうと奮起する気概が感じられる。


ピカソは自分よりも一回りほども年下のミロを精神的に支えた。その交流は、スペイン内戦や第二次世界大戦で互いに受難の時を過ごすことになっても、生涯途切れることはなかった。
《絵画-詩》―既存の芸術を壊し、ミロの芸術が開花

パリに移ったミロは、都市の近代性と前衛芸術に圧倒され、一本の線も引くことができないほどの衝撃を受けた。ミロはパリとモンロッチを行き来する生活を送るようになり、パリで最新の芸術に触れ、モンロッチで詩情豊かな感性を育んだ。

そうした中、既存の芸術概念を打破しようとする思いが募る。シュルレアリスムと結びつき、1925~27年に作られた「夢の絵画」と呼ばれる100点以上の作品では、単純化され、記号的になったモチーフや線が描かれるようになった。それはやがて言葉と共に描かれるようになり、《絵画-詩》というシリーズへと展開する。またミロは、芸術の商品化、アーティストへの過度の注目に対する反発から、絵画に異質な素材を取り入れるなど、既存の芸術概念からの脱却を試みた。

1936年にスペイン内戦が勃発すると、ミロの作品は陰鬱さを帯びてくる。カンヴァスの代わりにメゾナイト(茶色の木質繊維版)に絵具や砂を用いて描いた《絵画》シリーズは、そうした荒涼としたミロの心情が反映されている。

《星座》―戦禍の中で願い続けた希望の光

さて、本展の最大の注目作品が〈星座〉シリーズだ。1939年、第二次世界大戦が勃発する1ヶ月前にミロはフランスのノルマンディー地方に移住する。それは物理的にも精神的にも、現実世界の悲惨な現状から逃避したいという思いからだった。そうして、紙にグワッシュ、油彩、パステルなどを用いて、〈星座〉をテーマにした23枚の作品を制作した。


1940年 水彩、グワッシュ/厚い水彩用網目紙 フィラデルフィア美術館
本展では、全23点のうち3点が展示されている。深夜、明け方、月が出始めた頃…さまざまな色に染まる夜空に、女性、鳥、月、星、怪物のような生き物たちが、自由に、軽やかに画面の中にちりばめられている。それはまさに、夜空に瞬く星を線でつないで表された星座のようだ。
「子供の落書きのよう」とたとえられるミロの絵画世界の奥に、戦争という人類未曽有の悲劇からの逃避、平和への思いがあったことを知ると、絵の中の者たちの姿がまた違って見えてきはしないだろうか。
空を見上げ星々を見る時、様々な心情をそこに投影するだろう。地上で起こる悲劇の中で、ミロは紙という“空”に、どんな思いを投影したのか、どんな世界を夢見たか、その心に触れるような思いがする。
故郷・カタルーニャへの思い
誌的で内省的な世界を描くミロであったが、自らの芸術世界に閉じこもっていたわけではない。芸術の役割が、個人の内面の発露に留まらず、社会に対して声を上げることであり、その声は沈黙する(沈黙せざるを得ない)人々を助けるものである、という考えを持つミロは、精力的に政治的、社会的な活動にかかわる制作も行った。

本展では、そうした意外にも思えるミロの一面を示す作品も展示されている。写真の《スペインを救え》は、スペイン内戦中、共和国側支援の資金調達のための切手のデザインとして描かれた。結局この切手が発行されることはなかったが、ミロの故郷への思い、政治的関心を直接的に示している。


右:《マーグ財団の夕べ 》1966年 リトグラフ ジュアン・ミロ財団、バルセロナ
また、画業の後半期にあたる1960~70年代には、リトグラフによるポスターも手掛けるようになるが、これらの事業では、ミロの故郷であるカタルーニャの文化や言語を守ろうとする思いが表れている。
憧憬の地・日本とミロの結びつき
実はミロは若い頃から日本の文化や芸術に憧れを抱いており、それは様々な形で作品にも影響を与えている。また、ミロは生前に2度だけ日本を訪れており、本展ではミロにとって憧れの地であった日本との関係を示す作品も展示されている。

この《焼けた森のなかの人物たちによる構成》は、1932年に開催された「巴里・東京新興美術展覧会」が開催された時に出品された作品で、日本で初めて公開されたミロ作品だ。そしてこの作品が展示された場所こそ、東京府美術館、すなわち現在の東京都美術館なのだ。

右の《太陽の前の人物》は、画僧・仙厓義梵の《〇△□》(円・三角・四角で宇宙を表現した作品)と関連すると指摘されている。
ミロは、日本の書や詩の簡潔な表現に感銘を受け、浮世絵をいくつか所蔵し、時には自作に浮世絵を貼るなど、日本の芸術様式、思想を自身の芸術に取り入れてきた。展示されている、抽象絵画のような円や線だけで構成された作品からは、遠く離れた日本の地に根付く美意識とミロの内面世界が響き合っていることが感じられる。
さらに進化するミロの姿
1956年、スペインのマジョルカ島にアトリエを構えると、ミロは大画面の作品を手掛けるようになる。また1960年代には、新世代のアメリカ人アーティストらの影響を受け、アクションペインティングのような、身体の動きがそのまま画面に反映されたような作品も作るようになった。
展覧会の後半は、そうした画業の後半期から晩年にかけて、さらに自由になるミロ芸術を紹介する。

1960年代後半より、ブロンズ彫刻や、身の周りの素材を絵具で塗り組み合わせるオブジェの制作も精力的に行った。テーブルの脚や椅子などがミロによって、本来の機能から離れ、新しい命が吹き込まれる。

たとえば、1973年に制作された《焼かれたカンヴァス2》では、カンヴァスに絵具を垂らしたり、たたきつけるようにして描いていく。そしてそれに留まらず、ナイフでカンヴァスを切り裂き、最後に火をつける。そうしてできた造形に対し、ミロは「完成したとき、それが表も裏も両方で生きていることに気づいた」と語っている。
カンヴァスという平面空間の中に自由な世界を描いたミロが、80歳を迎える時にカンヴァスという物質そのものを素材としてカンヴァスを打ち破り、その物質性から新たな美を誕生させた。芸術に対する飽くなき探求心、挑戦し続ける姿勢は「巨匠」となっても消えるどころか、ますます強くなっていることがうかがえる。

1983年12月25日。アトリエがあるマジョルカ島でミロはその生涯を終える。夜空に星が輝き続けるように、その肉体はこの世から失われてしまっても、ミロが残した芸術は燦然と輝き続け、観る者の心を時に躍らせ、時に掻き立て、そして時に安らぎを与えるだろう。本展では、そんな消えることのないミロ芸術の輝きを、ぜひとも目に焼き付けたい。
※作者はすべてジュアン・ミロ(写真は展覧会内覧会にて撮影)
※参考文献:展覧会図録