わずか5年で時代を虜にした早逝の画家・ビアズリー。
傑作『サロメ』をはじめ約220点が丸の内に集結
「異端の奇才――ビアズリー」展が、三菱一号館美術館にて2025年5月11日(日)まで開催

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オーブリー・ビアズリー(1872-1898)。その名は常に2つの名前と共に語られてきた。「オスカー・ワイルド」、そして「サロメ」。英国の詩人・劇作家・小説家であるオスカー・ワイルド(1854-1900)による戯曲『サロメ』英訳版の挿絵として描かれたビアズリーの耽美的・悪魔的なサロメは、当時の人々にとっても、そして現代の私たちにとっても「ビアズリー=サロメ=ワイルド」という3者を強烈に結びつけて離さない。
三菱一号館美術館で開幕した「異端の奇才――ビアズリー」展は、世界有数のビアズリーコレクションを有するヴィクトリア・アンド・アルバート博物館(V&A)の全面協力により実現した、画家の大回顧展となる。同館コレクション150点を中心に、画業の初期から晩年まで約220点(そのうち直筆約50点)を展示し、ビアズリーの芸術世界を余すところなく展観する。
- 美術館・展覧会情報サイト アートアジェンダ 展覧会情報
- 「異端の奇才――ビアズリー」
開催美術館:三菱一号館美術館
開催期間:2025年2月15日(土)〜5月11日(日)
異端の奇才・ビアズリーは、いかに誕生したか

1894年頃、ヴィクトリア・アンド・アルバート博物館
Photo : Victoria and Albert Museum, London
オーブリー・ビアズリー(1872-1898)
イギリス・ブライトン生まれ。7歳の時に肺結核と診断される。幼少期から絵や音楽の才能に長け、読書が好きだったが、父親に代わって生計をたてるため16歳でロンドンに移ると、測量事務所や保険会社の事務などの仕事に就き、絵は独学で学んだ。1891年、18歳の時に画家のエドワード=バーン・ジョーンズと出会い、彼の勧めで画家になると決意。22歳の時に手掛けたワイルドの戯曲『サロメ』英訳版の挿絵で、時代の寵児となった。しかし、1895年にワイルドが同性愛の科で投獄されると、その影響で仕事を失う。3年後の1898年、肺結核により25歳で他界。
画家としてビアズリーが表舞台に立ったのは、20歳から亡くなるまでのわずか5年。その中でビアズリーは、約1000点もの作品を残している。本展では、ビアズリーが幼少期の時に愛読していた絵本や、傾倒していた15世紀イタリアの画家アンドレア・マンテーニャ、画家として影響を受けたバーン・ジョーンズ、画風の影響を受けたウォルター・クレインなどの作品などを紹介し、早熟の天才・ビアズリーが誕生する源泉を探る。

(右)アンドレア・マンテーニャ《海神の闘い――浅浮彫の右半図》 1481年以前
いずれも、エングレーヴィング ヴィクトリア・アンド・アルバート博物館

Photo: Victoria and Albert Museum, London
ビアズリーの画業の初期における傑作は紛れもなく《アーサー王は、唸る怪獣に出会う》だろう。トマス・マロニー編『アーサー王の死』の挿絵を手掛けることとなったビアズリーは、その第1巻の口絵として、泉のほとりで休息するアーサー王を描いた。アーサー王の周囲を取り巻く植物や鳥などは装飾的で、クモの糸が画面全体に張り巡らされたような細い線が、混沌とした世界を一層引き立てている。
片側にモチーフを寄せるドラマティックな構図、細く流麗な線など、後の『サロメ』につながるビアズリーの特徴がすでに見て取れる。一方で、輪郭線に沿うように表された点描など緻密な描き込みは、初期のビアズリーならではの魅力だ。
傑作『サロメ』の世界に浸る

画面右の表紙絵は、女性器に見えるとの理由で初版では採用されなかった。
本展では、メインの展示室でビアズリーの傑作『サロメ』の挿絵13点のほか、初版では不採用となった表紙案1点、挿絵3点を含める17点が展示されている。

サロメは、新約聖書に登場する女性。叔父であり義父であるヘロデ王の望みで、サロメは美しい踊りを披露する。その褒美として投獄されていた洗礼者ヨハネの首を求めた。本来聖書に書かれているサロメは、母親である王妃にそそのかされたためにヨハネの首を報酬として要求したに過ぎなかったが、ワイルドはこれをサロメがヨハネに恋焦がれていたという設定に仕立てた。これにより、恋する男の首を求めるファム・ファタルとしてのサロメが誕生した。

ビアズリーの挿絵は、黒と白、美と醜、大胆な余白と華麗な装飾(粗と密)、周囲を囲う直線と流れ落ちるような流麗な曲線美、あらゆる対比が効果的に用いられている。それにより、スッキリとして洗練された画面であると同時に、妖しく濃密な、頽廃美溢れる『サロメ』の世界が画面の中に充満している。
『サロメ』に潜むジャポニスム
『サロメ』が展示されている部屋の中央では、当時のイギリスで流行したアングロ=ジャパニーズ様式の家具や、ジャポニスムの影響を受けた、日本の文様があしらわれた陶磁器などが展示されている。というのも、ビアズリーの『サロメ』の魅惑的な小道具として登場する家具や調度品には、多分にジャポニスムの影響が見て取れるというのだ。


「サロメの化粧Ⅰ」「サロメの化粧Ⅱ」に登場する家具・調度品は、シャープで洗練された画面の中でエキゾチックな香りを漂わせ、サロメの妖しい魅力をさらに引き立てている。当時ヨーロッパで大流行したジャポニスムだが、ビアズリーの芸術世界におけるイマジネーションの泉の1つであったのだ。

その他、21歳で手掛け、ビアズリーの名が知られるきっかけになった芸術雑誌『ステューディオ』や、『サロメ』での成功を機に、美術編集を任されるようになった文芸雑誌『イエロー・ブック』など、「サロメ」前後のビアズリーの代表的な作品も展示され、わずか25年の生涯の中でも、その洗練された芸術世界がもっとも高い完成度で形になった「黄金期」の作品が集結している。

効果的に色彩が用いられており、白黒の挿絵の世界とは異なる魅力が溢れている。
ワイルドが望んだサロメ像
一度見たら目に焼き付いてしまう蠱惑的なビアズリーのサロメ。ゆえにビアズリーとワイルドの蜜月を想像してしまうが、実は両者の良好な関係はわずか1年ほどだったという。ワイルドはビアズリーの挿絵をむしろ好ましく思っておらず、後に「たちの悪い落書き」と一蹴したこともあった。その理由には、『サロメ』の登場人物の顔に(醜悪な形で)ワイルドの顔を描いたこと、当時ビアズリーに注目が集まっていたこと、そもそもビアズリーの画風が好みでなかったことなどが挙げられている。

(右)ギュスターヴ・モロー《サロメの舞踏》 1876年頃 水彩、インク/紙 メナード美術館【展示期間:~3/16】
それでは、ワイルドはどのようなサロメを望んでいたのか。本展では、ギュスターヴ・モローやチャールズ・リケッツなど、ワイルドが好んだ画家が描いたサロメも紹介している。モローやリケッツの神話の女神のような崇高さをまとったサロメをみれば、翻ってビアズリーのサロメの独自性が一層際立ってくる。

チャールズ・リケッツは、ワイルドの死後、『サロメ』の舞台装置ならびに衣装デザインも手掛けた。
また、本展では20世紀に実際に上演された『サロメ』に関する資料も展示されており、観衆を魅了した“サロメ”の姿も見ることができる。
画家ビアズリーの姿を求めて

本展では画家ビアズリーの姿を求めて、彼が住んでいた場所から見つかったレターオープナーと書き物机を展示している。ビアズリーはオレンジ色の壁紙に、昼間もカーテンを閉め切り、蠟燭の灯りだけで描いていたという。古びた机を前に、1人孤独に机に向かい、ひたすらペンを動かしていた青年に思いを馳せる。

晩年のビアズリーの画風はさらに変化する。ドレスのレースなどに点描を多用することで、画面に濃淡をつけ、人物以外の背景などの描き込みも、初期の頃よりもさらに細かくなる。ついつい『サロメ』をビアズリー作品の頂点とみなしてしまいがちだが、ビアズリー自身は、「黄金期」の画風にこだわるつもりはなく、新たな境地を切り開かんと模索し続けていたのだ。

しかし、肺結核が悪化し、ビアズリーは25歳でその生涯を終える。病はビアズリーから命を奪い、世界からビアズリーを奪ってしまった。もし彼が少しでも長く生きていたら、その画風はどのように変化していったのか。詮無いことと分かっていても、そう思わずにはいられない。

三菱一号館美術館は、1894年に英国人建築家ジョサイア・コンドルによって「三菱一号館」として設計され、19世紀後半の英国で流行したクイーン・アン様式が採用されている。ビアズリーの生きた時代の建築様式を用いた同館ほど、本展に相応しい場所はないだろう。三菱一号館美術館というとっておきの舞台で繰り広げられるビアズリーの芸術世界を存分にお楽しみいただきたい。