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新発見も含めた60通の「信長の手紙」を全点公開―
浮かび上がる戦国武将の“リアル”な姿

永青文庫にて、令和6年度秋季展「信長の手紙」が12月1日(日)まで開催

展覧会レポート

新発見となった書状2件
(左)「細川藤孝自筆書状」 的場甚左衛門・岡□宛  天正2年〈1574〉ヵ8月8日 永青文庫蔵【通期】
(右)「織田信長書状」 細川藤孝宛 元亀3年〈1572〉8月15日 永青文庫蔵【通期】
新発見となった書状2件
(左)「細川藤孝自筆書状」 的場甚左衛門・岡□宛  天正2年〈1574〉ヵ8月8日 永青文庫蔵【通期】
(右)「織田信長書状」 細川藤孝宛 元亀3年〈1572〉8月15日 永青文庫蔵【通期】

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戦国時代の武将・細川藤孝(幽斎)を初代とし、江戸時代には肥後熊本を治めた細川家。現在まで続く細川家の伝来品を収蔵する永青文庫には、これまで織田信長の手紙59通が伝わっており、いずれも重要文化財に指定されていた。

しかし2022年、熊本大学永青文庫研究センターとの調査により、新たに1通の手紙が発見された。これにより同館所蔵の信長の手紙は60通となった。約800通残っているといわれる織田信長の書状のうち、60通を有する永青文庫は、質・量ともに随一のコレクションとなる。

この度、永青文庫で開幕した「信長の手紙 ―珠玉の60通大公開―」展では、展示替えをしながら60通の手紙を全て展示する。ここからは、新たな信長像、そして激動の時代の渦中にいた武将たちのリアルな姿が浮かび上がってくる。

美術館・展覧会情報サイト アートアジェンダ 展覧会情報
令和6年度秋季展 熊本大学永青文庫研究センター設立15周年記念 信長の手紙
開催美術館:永青文庫
開催期間:2024年10月5日(土)〜12月1日(日)

永青文庫に信長の手紙60通が残った理由

なぜ、永青文庫に60通もの信長の手紙が伝わったのか。そのカギとなるのが細川家の当主たちだ。

(右)「細川幽斎(藤孝)像」 江戸時代(17世紀) [絵]伝 田代等有筆 [和歌]細川幽斎筆 永青文庫蔵【通期】
(中央)「細川忠興像」 江戸時代(17世紀) 永青文庫蔵【通期】
(左)「細川忠利像」 寛永18年〈1641〉 [絵]矢野三郎兵衛吉重筆 [賛]沢庵宗彭筆 永青文庫蔵【通期】
(右)「細川幽斎(藤孝)像」 江戸時代(17世紀) [絵]伝 田代等有筆 [和歌]細川幽斎筆 永青文庫蔵【通期】
(中央)「細川忠興像」 江戸時代(17世紀) 永青文庫蔵【通期】
(左)「細川忠利像」 寛永18年〈1641〉 [絵]矢野三郎兵衛吉重筆 [賛]沢庵宗彭筆 永青文庫蔵【通期】

まず初代当主・細川藤孝だが、手紙の宛先の多くが藤孝宛てである。手紙の内容は、感状(戦功を称える書状)や、日々の贈答などの礼状、戦況報告などさまざまである。中には2代当主の細川忠興宛ての手紙もあり、現存する唯一の信長直筆の手紙は忠興に宛てたものだ。藤孝、忠興が信長から信頼を得ていたことが、手紙が多く伝わる一番の理由だろう。

しかし、こうした手紙が現在まで細川家に伝わったのには、3代当主・細川忠利の功績が大きい。忠利は、初代・藤孝の功績を証明しようとする熱い思いから、一旦は細川孝之(藤孝と正妻・麝香の末子)に渡った信長の書状を、自身の手元に戻るように尽力し、父である忠興を通じて回収に成功したのだ。

新発見の手紙―室町幕府滅亡前の生々しい実情

「織田信長書状」細川藤孝宛 元亀3年〈1572〉8月15日 永青文庫蔵【通期】
「織田信長書状」細川藤孝宛 元亀3年〈1572〉8月15日 永青文庫蔵【通期】

今回新発見となったのは、元亀3(1572)年、つまり室町幕府滅亡の1年前に信長が藤孝に宛てた書状だ。同館所蔵の手紙の中でも最も古い年代になる。信長は足利義昭を擁立し、義昭は室町幕府15代将軍となったが、わずか5年で両者の協力関係は崩壊し、対立していく。手紙ではその要因が義昭側の側近たちにあり、その中でも藤孝ひとりだけは信長との関係を維持していたことがうかがえる。

この新発見の1通はもちろん、一向一揆の制圧、長篠合戦など、織田信長の政治を語る上で必ず登場するこれらの事項に関する手紙が紹介されている。攻撃的なイメージもある信長だが、これらの手紙からは、周囲の武将たちとの細やかなコミュニケーションを取っていることが分かる。

唯一の“信長直筆”の手紙

さて、これまで説明なく「信長の手紙」と記してきたが、当時は右筆(書記官)が筆をとるのが原則であった。その中で唯一の「信長直筆」の手紙が永青文庫に残っている。

重要文化財「織田信長自筆感状」 細川忠興宛 天正5年〈1577〉10月2日 永青文庫蔵【通期】
信長の側近・堀秀政の添状に、信長自ら筆をとったと明記されているため、この書状が信長直筆と断定できる。
重要文化財「織田信長自筆感状」 細川忠興宛 天正5年〈1577〉10月2日 永青文庫蔵【通期】
信長の側近・堀秀政の添状に、信長自ら筆をとったと明記されているため、この書状が信長直筆と断定できる。

手紙は、信長が当時15歳だった忠興へ宛てた感状だ。松永久秀追討のための追討軍に参加し、松永方の片岡城に一番乗りし軍功をあげた。45歳の信長の筆跡は、堂々たる書きっぷりで、天下を治めようとする者の風格を感じさせる。

手紙から浮かび上がる日本史

永青文庫が所蔵する貴重な手紙は、信長だけに留まらない。本展では、明智光秀、豊臣秀吉ら、戦国時代を語るに不可欠な重要人物たちの手紙も併せて展示されている。

重要文化財「明智光秀覚条々」 細川藤孝・忠興宛 明智光秀筆  天正10年〈1592〉6月9日【通期】
重要文化財「明智光秀覚条々」 細川藤孝・忠興宛 明智光秀筆  天正10年〈1592〉6月9日【通期】

明智光秀の書状は、「本能寺の変」からわずか7日後、天正10年6月9日に書かれたもので、藤孝・忠興に対し、自身に味方してくれたら丹後のほかに摂津か若狭の支配権を譲ることを申し出ており、また信長を討ったのは忠興などを取り立てるためだと訴えている。当時、光秀と藤孝は行動を共にし、忠興も光秀の娘・玉(ガラシャ)を妻にし、公私で密接な関係にあった。しかし、藤孝・忠興父子はこの手紙を受け取った時は既に秀吉側についていたため、この申し出に応えなかった。細川家が味方しなかったことは、光秀側にとっては大きな痛手となったはずで、この4日後に光秀は秀吉に敗れる。

(上)「杉若藤七書状写(『綿考輯録』巻9)」松井康之宛 天正10年〈1582〉6月8日 熊本大学附属図書館寄託【展示期間:10/5~11/8】
(下)「羽柴秀吉書状」細川忠興宛 天正10年〈1582〉7月11日 熊本大学附属図書館寄託【展示期間:10/5~11/8】
(上)「杉若藤七書状写(『綿考輯録』巻9)」松井康之宛 天正10年〈1582〉6月8日 熊本大学附属図書館寄託【展示期間:10/5~11/8】
(下)「羽柴秀吉書状」細川忠興宛 天正10年〈1582〉7月11日 熊本大学附属図書館寄託【展示期間:10/5~11/8】

一方で、秀吉と細川家が通じていたことを示す資料も残っている。「杉若藤七書状写」は、秀吉の家臣・杉若藤七が、藤孝の家臣・松井康之に宛てた手紙の写しで、そこには「細川家に謀反の疑いがないことを秀吉も理解しており、何かあれば何でも伝えてほしい」という旨が記されている。この手紙が書かれたのが6月8日、つまり上記の光秀の書状が書かれる前日だ。

戦国時代の最大の事件とも言える「本能寺の変」。その主要人物である信長、光秀、秀吉の三者が細川家を信頼していたことがうかがえる。時代を揺るがしたこの事件の渦中にいた武将たちの生々しい姿が立ち現れてくるようだ。

永青文庫の『源氏物語』を味わう

さて今年は、大河ドラマ『光る君へ』の放送もあり、『源氏物語』にまつわる展示も多く開催されている。本展のラストは、永青文庫コレクションによる『源氏物語』の世界で締め括られる。

熊本県指定重要文化財「源氏物語」 安土桃山~江戸時代(16~17世紀) 細川幽斎筆 4冊 熊本大学附属図書館寄託 【通期】
熊本県指定重要文化財「源氏物語」 安土桃山~江戸時代(16~17世紀) 細川幽斎筆 4冊 熊本大学附属図書館寄託 【通期】
「合貝」 江戸時代(19世紀)4組 熊本県立美術館寄託【通期】
「合貝」 江戸時代(19世紀)4組 熊本県立美術館寄託【通期】

藤孝(幽斎)の直筆と伝わる『源氏物語』は、『若菜上』のみ山崎宗鑑が補筆するものの、54帖全て揃って保存されている。各帖の冒頭には概要が記され、本文の行間には随所に書き込みも見られる。物語の成立から約500年経ったこの頃には、『源氏物語』が学ぶべき古典として浸透していたことをうかがわせる。同時に、和歌にも秀でており、文武を兼ね備えた藤孝のもう1つの姿を思わせる。

激動の時代だった戦国時代において、「手紙」はその身の運命を左右する重要な物であっただろう。本展では、時代を動かしてきた「手紙」、その1文字1文字が歴史となっていくことを感じてもらいたい。

美術館・展覧会情報サイト アートアジェンダ 美術館情報
永青文庫|EISEI BUNKO MUSEUM
112-0015 東京都文京区目白台1-1-1
開館時間:10:00〜16:30(最終入館時間 16:00)
会期中休館日:月曜日、11月5日 ※ただし11月4日は開館

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