洋の東西を見つめた洋画家・須田国太郎の世界
―旅・幽玄、そして真理へ―
「生誕130年 没後60年を越えて 須田国太郎の芸術――三つのまなざし」が、世田谷美術館にて2024年7月13日(土)より開催

※展示の作品は全て須田国太郎作
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京都に生まれた須田国太郎(1891-1961)は、「東西の絵画の綜合」というテーマを掲げ、日本の精神文化に根差した日本独自の油彩画を探求した。京都帝国大学(現・京都大学)および大学院で、美学・美術史を学ぶと、1919年、28歳の時にスペインに留学。帰国後は美術工芸史の講師を長年務め、研究者として生きる一方、油彩画を精力的に制作し、絵画の「理」論と「実践」の両輪で功績を残した。その画風は、何層にも塗り重ねられ重厚で、独特の奥行きを持ち、日本の近代絵画史において偉大な足跡を残した。
2021年は須田国太郎の生誕130年、没後60年にあたり、その記念となる展覧会「須田国太郎の芸術 三つのまなざし」が2024年7月13日、世田谷美術館で始まった。
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- 「生誕130年 没後60年を越えて 須田国太郎の芸術――三つのまなざし」
開催美術館:世田谷美術館
開催期間:2024年7月13日(土)〜9月8日(日)
初期作品から絶筆まで

須田は、10代の頃から友人の遠藤新七郎と同人雑誌を作り、芸術評論やスケッチを載せるなど、後の「理論と実践の両立」を予感させる少年であった。後に丸善で手にした書籍で見たゴッホの作品に衝撃を受け、西洋と東洋の絵画の発展の違いに関心を抱き、大学で美学・美術史を研究する。この頃すでに独学で油彩画を描くようになったが、絵画技法の探求のための留学を考えるようになる。そのためまず関西美術院でデッサンを学び、1919年、28歳の時にスペインに留学する。

須田は、グレコに対し「私がかこうとすることを先にまちうけていてくれるような感じがいつもした」と後に述懐している。
本展では、大学に在籍中に独学で描いた自画像や風景画、留学中に制作した模写などが展示されている。それらの作品からは、若かりし須田が自らの画風を確立するまでの研鑽の日々がうかがえる。須田の関心はまずヴェネチア派美術にはじまり、技法の研究、ゴヤなどの人物像へと移っていった。

留学後、須田は京都や奈良の古建築を題材に描くようになった。電柱の奥に見える京都・法観寺の五重塔は、須田が電車の中から見た光景。電柱の垂直と、塔の屋根の水平の対比が面白い。
約4年の留学を経て帰国すると、経済的な理由から和歌山で講師として働き始める。画家としての転機は1932年、41歳の時に開催した資生堂ギャラリーでの初めての個展だった。当時無名であったため個展の結果は芳しくなかったが、これを機に留学中に知り合った画家・里見勝蔵や川口軌外に推され、「独立美術協会」に加入。画家としての足掛かりを掴むと、同協会を中心に意欲的に制作に臨んだ。

画面手前は晩年期の代表作である《犬》(1950年、東京国立近代美術館)
晩年期の作品では、絶筆となった《めろんと西瓜》や、水墨による屏風作品など、貴重な作品も展示されている。

須田は1957年、66歳の時に肝硬変で入院する。亡くなるまでの4年間、闘病中も特製の画架を作って制作を続けた。その頃に描かれた《偶感》は、抽象画のようだが、よく見ると画面中央の左側に猛禽類のような鳥、右側に豹や虎のような動物らしきものが描かれている。厚く塗られた画面は、尽きることのない須田の探求心を物語っている。
旅人・須田が見つめた西洋と日本
そんな須田の絵画世界を、本展では「まなざし」をテーマに、「旅」「幽玄(=能)」「真理」の3つの切り口で紹介する。「旅」と「能」は、須田の人生において重要な要素であった。そして「真理」では、研究者の一面も持つ須田の功績に焦点を当て、理論と実践の両輪で追求した芸術世界の結実に迫る。

強い日差しを受けた赤褐色の大地と、逆光でシルエットとなった人と馬のコントラストが印象深い。特定の場所を描いていないが、須田は「中央亜細亜の曠野とも思しきところ」と述べており、旅で出会った光景が、画家に様々なイメージを与えたことが分かる。
まず「旅でのまなざし」の章では、須田が留学中に撮影した写真の数々と共に、各国の風景、遺跡、あるいは日本の風景を描いた作品が紹介されている。須田は留学の際にスペインを拠点にフランス、イタリア、ドイツ、ポルトガル、イギリスなど欧州各地を旅した。日本から船で渡欧する際に立ち寄った場所も含めると、ミャンマー、インドなどのアジア圏からエジプトまで15ヶ国以上、訪問した町は170を超える。スペインの町や遺跡などを描いた油彩画は、重層的でザラついた質感で、日差しの強さ、温度、土埃さえも感じさせる。

本作は、木枠から外されロール状に巻かれた状態で、画家の自宅に残されていた。修復を経て、本展で初公開となる。
須田は、2台のカメラで各地の風景を写真に収めた。時には訪れた場所に関するメモも残っており、旅人・須田が各地の風景を見た実感が今に伝わる。



手前の《八幡平》(1954年 京都市美術館)は、須田が描いた山の作品の中でも一際明るい作品。八幡平は、秋田県と岩手県の県境に位置する高原台地。
帰国後は日本各地に写生旅行をしており、本展では特に四国、長野、奈良などの風景を描いた作品が展示されている。留学中から、須田は風景画の中でも特に山岳風景を多く描いている。須田の制作のテーマでもある「光と色彩の関係」、もの本来の色(画家の言葉を借りれば「動かざる色」)を捉える上で、壮大な山並みは、光の移ろい、それに伴う色彩の変化を追求するのに適した画題だったのだろう。
生涯通して魅せられた「幽玄」の世界
続く「幽玄へのまなざし」の章では、須田が能や狂言の舞台を描いた油彩・水彩画をはじめ、貴重なデッサン画も約50点展示されている。


須田は19歳の頃に能楽シテ方の金剛流の謡の稽古を始め、晩年に入院するまで続けた。それほどまでに能に精通していた須田だが、能を描いた油彩画は《野宮》と《小原行幸》の2点のみ、その他、水彩画や日本画で描いている。しかし2000年に、舞台上の役者の動きを写生した多くのデッサン画が遺族から大阪大学に寄贈された。その数は6000点を越える膨大な数で、須田にとって能・狂言が非常に大きなテーマであったことが改めて浮かび上がった。


「幽玄」という言葉に象徴される能の世界。油彩画や水彩画では、舞台に満ちる趣さえも描き表している。一方のデッサンでは、演者が静止している時の姿は細かく描かれ、動いている時は単純な線に省略されている。それに一連の動作の変化だけでなく、そのスピード感さえも感じられる。須田はデッサンをする際、かならず脇正面に座ったという。須田はその理由について、シテ方の動きの奥行き、そして動きの激しさを感じ取るのは正面よりも脇正面の方がよいからだと語っている。極限まで動きをそぎ落とした動きの中に、役の複雑な感情の変化や精神性を感じ取る能の世界は、須田の絵画制作の姿勢と通じる部分があるだろう。
理論と実践の探求で迫る「真理」
学者としていくつもの著書・論文を残すと同時に、意欲的に油彩画を描き続けた須田は、日本の絵画史においても稀有な存在だ。本展の最後を締め括る「真理へのまなざし」の章では、理論と実践の両輪で追求した芸術世界、その結実とも言える代表作《犬》や《鵜》など、「黒の絵画」と呼ばれる堅牢で、深い精神世界へといざなうような作品群を展観する。

山口県・青海島通村の風景を題材にした作品。前景(鵜の群れ)の黒と、背景(家の壁)の白のコントラストが心地よく、「黒の絵画」の中でも朗らかな印象を与える作品。

「グリコのおもちゃ」コレクターとしてのまなざし
最後に、これまで紹介した3つの「まなざし」とは別に、須田の隠れた「まなざし」を紹介しよう。それはお菓子の「グリコ」に付属する「おもちゃ」コレクターとしての眼だ。


高度成長期の日本の生活を象徴する、いわゆる“三種の神器”や、ナショナルやSONYなど企業とタイアップしたおもちゃもある。
きっかけは、須田の息子である寛氏が幼少期に食が細くなった際に買い与えたことだそうで、おもちゃは『自分のだ』と言って譲らなかったという。須田はおもちゃの発想や造形に非常に関心を寄せていた。改めて、そのラインナップを見れば、「世界一周」シリーズでは、ロンドンの衛兵やフランスの航空機など、須田の旅行熱を刺激するものや、乗り物、家具・家電など、当時の日本の生活品をそのまま縮小したようなものまで、バリエーションに富む。力強く厳粛な雰囲気の作品が多い須田のイメージとは異なり、これらの「おもちゃ」を愛でるように眺めていたであろう微笑ましい「まなざし」が想像される。晩年の入院中の際には、見舞いに来た教え子たちがグリコを持って来てくれると喜んでいたという。
画面の中で黒色、あるいは影・陰が強烈な印象をもたらし、時には厳しく見える須田の作品だが、見れば見るだけ刻々と印象が異なってくる。世界を旅し、幽玄に惹かれ、真理を追い求めた須田国太郎、その「まなざし」が捉えた芸術世界をぜひじっくりと見つめてほしい。
- 美術館・展覧会情報サイト アートアジェンダ 美術館情報
- 世田谷美術館|Setagaya Art Museum
157-0075 東京都世田谷区砧公園1-2
開館時間:10:00〜18:00
休館日:月曜日、8月13日(火)は休館。※ただし、8月12日(月・振休)は開館