写真を愛し、写真家に愛された芸術家
。映像時代に生きた画家 藤田嗣治の知られざる魅力に迫る
「藤田嗣治 絵画と写真」が、東京ステーションギャラリーにて2025年7月5日より開催

木村伊兵衛《パリ、藤田嗣治》(1954年・1984年頃の再プリント)横浜美術館蔵
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文 中島文子
「美しき乳白色の下地」とパリの画壇で称賛され、一躍時代の寵児となった藤田だが、長く波乱に満ちた人生で、その思考や行動はヴェールにつつまれている感もある。藤田が数千点に及ぶ写真を残していたという事実についても、はじめて知るという人の方が多いのではないだろうか。
本展覧会では、日本とフランスに現存する、藤田自身が撮影した写真の中から珠玉のスナップショットを厳選。絵画と写真の関係性を具体的に検証するほか、藤田が被写体となった写真も多数紹介している。撮る側・撮られる側としてどのように写真を活用したのか、激動の時代を生きた画家、藤田の「眼の軌跡」を追う貴重な機会となっている。

- 美術館・展覧会情報サイト アートアジェンダ 展覧会情報
- 「藤田嗣治 絵画と写真」
開催美術館:東京ステーションギャラリー
開催期間:2025年7月5日(土)〜8月31日(日)
周縁に注がれたまなざし
生涯、複数のカメラを所有していた藤田だが、写真への関心は社会の影響によるところが大きかったのだろう。藤田が少年時代を過ごした明治20〜30年代は、1839年にジャック・マンデ・ダゲールが写真術を発明してから半世紀が経った頃。間もなく日本でも新聞の写真掲載が始まり、アマチュア写真家も増えた。絵の勉強のために1913年に渡仏した藤田だが、芸術の都パリで表現メディアとしての写真に触れ、どんな可能性を見ていたのだろうか。
プロローグ「眼の時代」では、マン・レイらシュルレアリスム運動に身を投じた作家たちの写真を展示する。写真や映像を駆使した先鋭的な芸術表現が、藤田の写真観になんらかの影響を与えたことが示唆される。

少なくともシュルレアリストたちが高く評価していたウジューヌ・アジェの写真に藤田も強く惹かれていたようである。実際にアジェから写真を購入したことを記す書簡もあり、藤田は「前衛芸術の作品として非常に興味深い」と評している(『ルソー、フジタ、写真家アジェのパリ 8頁』より)。暗い色彩でひっそりとした城門の景色を描いた《街はずれの門》(1918年)と消えゆくパリの景色を記録したアジェの写真を見比べてみてほしい。多くの人々が見逃してしまう周縁の風景に注がれる彼らのまなざしが交差しているようにも感じられる。

「見られたい自分」のイメージを拡散
第1章「絵画と写真につくられた画家」では、被写体としての藤田に焦点を当てる。ドラ・カルムス、ベレニス・アボット、ボリス・リプニツキ、土門拳らが撮ったポートレート写真のほか、自画像も紹介される。

藤田といえば、おかっぱ頭、ちょび髭、丸メガネ、奇抜なファッションで知られているが、このようなイメージが定着しているのは本人の自己演出によるところが大きい。実際に藤田が残した自画像を見ると、絵の中にさまざまな仕掛けを施しながら「見られたい自分」を巧みに表出していることがわかる。こうした藤田の行動について、若山満大学芸員は「(フランスにおいて)藤田が移民であったことと深く関係する」と指摘する。フランスに根を持っていない画家が、どうにか社会的な基盤をつくり、広く認知されようとした。このような点で、複製し拡散することが容易な写真は強力なツールとなったに違いない。

シャーマン・コレクション(河村泳静氏所蔵/伊達市教育委員会寄託
セルフブランディングともいえる今日的なメディア戦略を実践していた藤田だが、時期によって自己演出の仕方が異なる点にも注目したい。フランスでは東洋と西洋を融合するエキゾチックな画家のイメージを誇張したのに対し、日本に帰国後、古風な日本人らしさをことさら強くアピールする姿も残している。移り変わるイメージの数々に、時代に翻弄されながらも特別な画家であろうとした藤田の努力が透けて見える。

写真を素材に構成された絵画
1930年代の中南米旅行を筆頭に、中国や東南アジア、日本の地方各地を旅した藤田は、膨大な量のスナップ写真を残している。第2章「写真がつくる絵画」では、参考資料として写真が使われた可能性を探りながら、藤田の絵画制作の裏側に迫る。
藤田がどのように写真を活用したのかを示すパネル展示をみると、写真に映る人々の表情や衣服、髪型、ポーズなど、異なる要素をコラージュのように組み合わせ、絵を構成していたことがわかる。《リオの人々(下絵)》(1932年)、《ボリビアの農夫》(1933年)を鑑賞しながら、絵の登場人物たちをいくつかの写真の中に発見するのも楽しい。記録の断片をつなぎ合わせながら、色と形を巧妙に組み立てて、計画的に絵画を制作していたことが想像できる。

北京で見たモンゴル相撲を題材に描いた《北平の力士》(1935年)も絵画と部分的に一致する写真が散見される。藤田は写真を参照しながら、旅先の空気感をも再現しようとしていたのかもしれない。

カラー写真に表れる、画家の美的感性
第3章「画家がつくる写真」では、メゾン=アトリエ・フジタ(フランス、エソンヌ県)が所蔵するネガフィルムと東京藝術大学が所蔵するポジフィルムから厳選し、藤田の感性が鋭く反映された写真を紹介している。特に注目したいのは、色彩表現の美しさが際立つカラー写真だ。

1930年代から1940年代にかけて中南米や中国、日本各地を巡っていた頃は、愛機ライカを携えてモノクロ写真を撮っていた藤田だが、1950年代に入るとカラー写真に着手するようになる。カラーフィルムの普及が進む最中、モノクロの世界に浸っていた写真家たちが色を使った写真表現に苦慮していた時代だ。ヨーロッパの風景を彩り豊かに切り取った藤田のカラー写真は、本人は作品と捉えていなかったものの、写真界から思わぬ称賛を受ける。パリを訪れた写真家 木村伊兵衛によってその価値を見出され、写真雑誌『アサヒカメラ』にも掲載された。
ところで、藤田は撮影した状態がそのまま映るポジフィルムを使っていたこともあり、よくカラースライドで写真を確認していた。今回は紙焼きの写真も展示されているが、スライド映写機を設置し藤田が撮影した写真を投影している。藤田の行動を追体験するような感覚で鑑賞してみるのも趣深いだろう。

写真と絵画でたどる、自己のルーツ
戦後、戦争責任を問われた藤田は、余生をパリで過ごすことに決める。エピローグ「眼の記憶/眼の追憶」では、晩年の藤田を紹介している。GHQの民生官だったフランク・シャーマンの写真は日本を経つ前のリラックスした表情をとらえ、阿部徹雄、清川泰次がパリで撮影した写真からは、アトリエで穏やかな時間を過ごす様子がうかがえる。

そして、最後の部屋では、《家族の肖像》(1954年)を取り上げる。この絵は、正面に描かれる藤田と背景に置かれた父の嗣章、妻の君代の肖像画で構成されている。画中画の形式で組み込まれた2つの肖像画は、肖像写真をもとに描かれており、ここでも写真が重要な役割を担っている。
若山満大学芸員は、「同じ絵に似姿が描き込まれることで編集された家族アルバムのような機能を果たす」と語り、写真の可能性について次のように言及した。
「藤田は自分という存在がどういう人間との関係性の中で成り立っているのかを確認するかのように、家族や近親者の姿を写真と絵画というかたちでアウトプットしていった。晩年の藤田は自分自身が何者であるかをもう一度振り返るために、絵画と写真を使っていたといえるのではないか」

本展覧会では、藤田の絵画と写真との関わりについて、いくつかの可能性が提示されているが、写真から得られる情報が膨大なだけに、人によってさまざまな見方ができるだろう。それほど藤田の芸術は奥行き深く、私たちの想像力を限りなく刺激する。新しい藤田像を発見するような気持ちで、鑑賞を楽しんでみてはいかがだろうか。
