『画家ボナール ピエールとマルト』が全国公開
ナビ派を代表する人気画家夫婦の謎めいた生涯
画家ピエール・ボナールと生涯の伴侶マルト。1893年パリでの出会いから晩年までの波乱に満ちた二人の
半生を描いた『画家ボナール ピエールとマルト』がフランスで大ヒット、横浜では観客賞を受賞
文・構成 長野辰次
ヒマワリを描き続けたゴッホ、踊り子を描き続けたドガ、睡蓮を描き続けたモネ……。有名画家たちは、それぞれ代表的なモチーフを持っていた。浴槽に佇む裸婦を生涯にわたって描き続けたのは、フランスの画家ピエール・ボナール(1867年~1947年)だ。
ピエール・ボナールは「ポスト印象派」となる「ナビ派」の中心的な画家として知られている。妻であるマルトをモデルに描き続け、2000点に及ぶ作品のうち、三分の一はマルトを題材にしたものだ。豊かな色彩と被写体との親密さを感じさせる画風から、「幸福の画家」とも呼ばれている。
だが、人気画家と暮らす妻の立場から振り返ると、はたしてそれは本当に幸福な夫婦生活だったのだろうか? 創作を生業とするパートナーとの共同生活は、ひと筋縄で済むものではなかったのではないのか? マルタン・プロヴォ監督によるフランス映画『画家ボナール ピエールとマルト』(原題『Bonnard, Pierre et Marthe』)は、そんな夫婦間の謎に迫っている。
ボナールの代表作である《男と女》《浴槽の裸婦》《花咲くアーモンドの木》といった名画が誕生した経緯を追いながら、創作を第一に考える芸術家と、その創作活動を支えるパートナーとの関係性を、エモーショナルに描き出している。本国フランスでは2024年1月に公開され週間興収1位を記録し、3月に開催された「横浜フランス映画祭2024」では観客賞を受賞した話題作だ。
社交的なピエールと気難しい性格のマルト
パリが最も華やかなだった19世紀末、ピエール(ヴァンサン・マケーニュ)とマルト(セシル・ドゥ・フランス)が出会ったところから映画は始まる。当時、ピエールは26歳。若い画家仲間たちとヘブライ語で「預言」を意味する「ナビ派」と称する、新しい絵画運動を進める気鋭の芸術家だった。そんなピエールが街で見つけたのが、造花工場で働くマルトだ。「絵のモデルになってほしい」とピエールから声を掛け、アトリエで親密な時間を過ごすことに。若い2人が恋に堕ちるのはすぐだった。
ブルジョア階級のピエールと労働者階級のマルトは、暮らす世界がまったく違った。文化サロンを主宰する美人ピアニストのミシア・セール(アヌーク・グランベール)らとの交流を楽しむピエールに対し、マルトは秘密主義で気難しい性格。だが、そんなマルトに、ピエールはぞっこんだった。ベッド上や浴室で無防備な姿を見せるマルトをモデルに、ピエールは次々と新作を発表する。ピエールにとって、マルトは手放すことができないミューズとなっていく。
社交界を嫌い、喘息持ちでもあったマルトのために、ピエールはパリを離れ、ノルマンディー地方のヴェルノン近郊にある別荘をアトリエにして暮らす。別荘近くにはセーヌ川が流れる、自然豊かな森の中での生活だった。ピエールとマルト、それに2匹の子犬がいるだけの世界。他人の視線を気にすることなく、ピエールとマルトは全裸で森を駆け、川での水遊びを心ゆくまで楽しむ。自由と愛に満ちた生活から、ボナールの名画の数々が生まれたことが分かる。
ピエールとマルトが暮らす別荘は「マ・ルロット(私の家馬車)」と呼ばれ、近所で暮らしていたクロード・モネ(アンドレ・マルコン)と妻のアリスが舟を漕いで遊びにくる。みんなそろっての食事会のはずが、珍しい睡蓮を見つけたモネはスケッチに夢中になってしまう。美しく、贅沢な時間が流れていく。印象派、ナビ派の時代を愛する絵画ファンにとっては、夢のようなシーンがスクリーン上で再現されている。
ボナール作品に陰影を与えた、もうひとりのミューズ
美術史のテキストでは、ピエールは妻・マルトと生涯を添い遂げた「幸福の画家」として紹介されることが多い。だが本作を撮ったプロヴォ監督は、ピエールのもう1人のミューズとなった実在の女性ルネ・モンシャティを登場させることで、ボナール作品が深遠さを増したことを掘り下げている。
別荘での隠遁生活では食べていくことができず、中年期に入ったピエールは、パリに出て、美術学校の生徒たちを指導するようになる。そこで知り合ったのが、金髪の生徒 ルネ(ステイシー・マーティン)だった。若さと芸術に対する好奇心が旺盛なルネをモデルに、ピエールは絵を描くようになる。ピエールの創作意欲を掻き立てる新しいミューズの誕生だった。
ピエールとルネの関係を、芸術家にありがちなものと冷静に受け止めようとするマルトだったが、ルネを招いての「マ・ルロット」の生活は緊張感が漂うものとなる。ルネから「私は消えそうな火を燃やすために放り込まれた薪のようなものね」と自虐的に問われ、ピエールはうまく反論できない。ピエールとルネとのやりとりから、ボナール作品で描かれた女性たちの顔がはっきりとしない理由も浮かび上がってくる。
この三角関係の勝利者となったのはマルトだった。結局、ピエールはマルトのもとへと帰っていく。ピエールはマルトと正式に入籍する。このとき、ピエールは58歳だった。また、マルトの本名が「マリア・ブルザン」だと知る。マルトは偽名であり、天涯孤独だと語っていた身の上も事実とは異なっていた。平然と嘘をつき、ピエールを社交界から引き離したエゴイスティックなマルトだが、それでもピエールは彼女を生涯の伴侶に選んだ。
マルトの親族から依頼を受けた伝記映画の名匠
マルタン・プロヴォ監督は、「素朴派」の女性画家セラフィーヌ・ルイの生涯を描いた『セラフィーヌの庭』(2008年)で、セザール賞7部門を受賞するなど、女性を主人公にした伝記映画を得意としている。プロヴォ監督は幼い頃に、母親からボナールのポスター画をプレゼントされ、部屋にずっと貼っていたという。そんなプロヴォ監督は、マルトの姪の娘から「大叔母についての映画を撮ってほしい」と頼まれ、本作の企画が始まった。
ピエールとマルトの不思議な夫婦関係を、プロヴォ監督は以下のように語っている。
「ピエールの近しい親戚の間では、ピエールはマルトの囚われの身で、マルトの死に至るまで故意に世界から切り離されたと考えられていました。しかしピエールの死後、多くの人が、実際は逆でマルトが望んでピエールの犠牲者となっていたと主張しました」
プロヴォ監督は、画壇ともジェンダー論者とも異なる立場で、人間関係の機微を描く劇映画の監督として、ピエールとマルトという夫婦関係から一連のボナール作品が生まれたと捉えたようだ。プロヴォ監督はこのようにも述べている。
「いずれにしろ、私はマルトを単なるミューズという役割に矮小化するのは間違いだと思えました。それは彼女を天才捕食者に捕獲された無力な犠牲者に貶め、まだ根本的に残っている家父長制的な視線によって、著名芸術家の協力者の長いリストに彼女を付け加えるだけのことです」
南仏のル・カネで過ごした芸術家夫婦の晩年
病弱だったマルトだが、精神的には決してやわな女性ではなかった。ピエールのいない「マ・ルロット」で創作に打ち込むことになる。マルトは見よう見まねで絵を描き、「マルト・ソランジュ」という筆名で50点ほどの作品を残した。一度きりだが、パリで個展も開いている。
劇中で紹介されるマルトの作品は、どれもシンプルな絵柄で、身近な題材を描いたものばかりだ。ピエールの作品を、より純化させたようにも感じさせる。愛情、尊敬、嫉み、怒り、悲しみ……。さまざまな感情を具材にして、マルトは独自の作品を描き上げた。
セドリック・クラピッシュ監督の『スパニッシュ・アパートメント』三部作(02年~13年)などで知られるセシル・ドゥ・フランス、コメディ映画『セラヴィ!』(17年)ほか多くの作品に出演する演技派ヴァンサン・マケーニュが、ふたつの世界大戦を挟む、半世紀に及ぶ夫婦生活を見事に演じてみせている。
ルネ役を演じたステイシー・マーティンは、ラース・フォン・トリアー監督の『ニンフォマニアック』(13年)でシャルロット・ゲンズブール扮する主人公の若き日を演じて注目を浴び、その後も『グッバイ・ゴダール!』(17年)などの話題作に次々と出演している。フランス映画界の実力派俳優たちの共演によって、本作は繊細かつ複雑な味わいのドラマに仕上がった。
映画の終盤は、ピエールとマルトが南仏のル・カネに移り住んだ晩年期を描いている。マルトは相変わらず浴室で過ごすことを好んでいる。マルトが佇む浴槽に、南仏の明るい自然光が注ぎ込む。一方、ピエールは最後の作品となる《花咲くアーモンドの木》の作画に取り掛かる。
幸福の画家と呼ばれたピエールとその妻・マルトの生涯は、本当に幸せだったのか。その答えは、人によってそれぞれ違うはずだ。だが、この映画を観た後では、ボナール作品の印象が大きく変わることは確かだろう。
- 映画『画家ボナール ピエールとマルト』
9月20日(金)よりシネスイッチ銀座、UPLINK吉祥寺ほか全国順次公開
監督 マルタン・プロヴォ / 音楽 マイケル・ガラッソ
出演 セシル・ドゥ・フランス、ヴァンサン・マケーニュ、ステイシー・マーティン、アヌーク、グランベール、アンドレ・マルコン
配給 オンリー・ハーツ
(C)2023-Les Films du Kiosque-France 3 Cinema-Umedia-Volapuk
『画家ボナール ピエールとマルト』公式サイト http://bpm.onlyhearts.co.jp/
長野辰次
福岡県出身のフリーライター。「キネマ旬報」「映画秘宝」に寄稿するなど、映画やアニメーション関連の取材や執筆が多い。テレビや映画の裏方スタッフ141人を取材した『バックステージヒーローズ』、ネットメディアに連載された映画評を抜粋した電子書籍『パンドラ映画館 コドクによく効く薬』などの著書がある。