「指で思索する彫刻家」の作品に出合う
。東松山市・高坂彫刻プロムナード
高村光太郎やロマン・ロランなど、幅広い交友関係から辿る彫刻家 高田博厚の軌跡
高田博厚(たかたひろあつ 1900〜1987)という彫刻家をご存じだろうか。世界が二度の世界大戦に突き進む激動の時代に生まれ、1931年から約27年にわたりフランスに滞在し、晩年は日本で教鞭を執りながら彫刻を制作し続けた。彫刻、絵画などの芸術の才に優れ、音楽の造詣も深く、記者、作家としても活動するなど文才にも秀でていた。高村光太郎、棟方志功、ロマン・ロラン、アラン、ジョルジュ・ルオーなど、名だたる偉人と交流を重ね、数多くの彫刻を残している。そんな彫刻家の作品が集められた街がある。埼玉県東松山市だ。
高田博厚(1900〜1987)
石川県七尾市に生まれる。1918年に画家を志し、上京。高村光太郎、岸田劉生との交流を経て、彫刻の道に進むことを決意。大調和展、国画会展などで作品を発表する。1931年に渡仏し、多くの知識人、芸術家と交流を深める。記者としても活動し、戦時下、在欧日本人向けに刊行した新聞『日仏通信』は大きな反響を得る。戦後もフランスに留まり、彫刻家、記者として活動を継続。10年にわたりカンヌ国際映画祭の日本代表も務めた。1957年、洋画家・野見山暁治にアトリエを譲り、帰国。東京芸術大学で講師を務め、九州産業大学芸術学部の創設に寄与するなど美術教育に力を注ぎつつ、晩年も精力的に制作を続けた。
著書に『分水嶺』(岩波現代文庫)、『フランスから』(講談社文芸文庫)、『ルオー』(レグルス文庫 森有正と共著)、『私の音楽ノート』(音楽の友社)
高村光太郎が繋いだ縁から埼玉県東松山市に生まれた、
高田博厚の彫刻プロムナード
高田博厚の人生をたどると、実に数多くの縁に導かれながら歩みを進めた人であったことがわかる。なぜ高田の彫刻が埼玉県東松山市に集中しているのか。それは、この彫刻家と東松山市出身のある人物との間に結ばれた縁に起因する。
高田博厚は1900年、石川県七尾市に生まれ福井県福井市で育った。幼少期から読書を好み、文学、美術、哲学に傾倒する早熟な青年だった。高校卒業後に画家を志して上京し、知人を介して彫刻家で作家の高村光太郎に出会う。高田の自画像を観た高村光太郎は、友人であった岸田劉生を紹介した。しかし、岸田劉生のアトリエで描きかけだった《麗子像》を目にした高田は、「一生かかってもかなわない」と絵画の道を断念したという。その後は本格的に彫刻を志願し、高村光太郎と自作を見せ合うほどの信頼関係を築きながら制作に励む。
「十五、六も年下の私を、あなたは同輩の友情を以て迎えてくれた。十九の年齢(とし)にあなたを識って、十年私達は親友だった。私の過剰な、気を負って、『形』を為していぬ仕事に、あなたは気付いていても、私には一言も云わなかった。」
(『人間の風景』高田博厚 朝日新聞社 1972年 )
同時代に高村光太郎を尊敬していたのが、東松山市在住の詩人で教員の田口弘だった。田口は後に東松山市の教育長の顔も持つこととなる人物。1965年、毎年4月2日に行われる高村光太郎を偲ぶ会「連翹忌(れんぎょうき)」にて、高田博厚に初めて出会う。その後田口と高田は意気投合していく。
この出会いを機に、1986年から1994年にかけて、高坂駅西口の区画整理事業に伴い、高田博厚の彫刻32作品が集まる「高坂彫刻プロムナード ~高田博厚彫刻群~」が誕生したのだった。当時は、札幌、横浜、大阪など全国各地で野外彫刻の設置が盛んな時期だった。ほとんどが複数の作家による作品で構成されている中、「一人の一流作家の作品で飾る彫刻通りが実現できれば、全国に誇れる彫刻通りとなる」という田口の思いから実現に至った。この骨太なコンセプトが彫刻プロムナードの独自性を高め、今日まで東松山市と高田博厚との縁を深め続けている。
高坂彫刻プロムナードがあるのは、池袋から電車で50分ほどのエリアにある東武東上線「高坂」駅。西口を出るとロータリーがあり、道路の両脇にハナミズキなどが植えられた広い歩道が続く。歩道を約1kmにわたって進むと、哲学者アラン、高村光太郎、画家ポール・シニャック、マハトマ・ガンジー、宮沢賢治、棟方志功などの著名人、裸婦や祈る女性のトルソなど、高田博厚が手掛けたブロンズ像が並ぶ。
雄大、饒舌というよりは、小柄、静謐。どこか内省的な空気が漂う彫刻群。高田がフランス滞在中に交友を深めたロマン・ロランは、その彫刻について「君は指で思索するのだな」と評したという。確かに、いずれも人物の内面に誘われるような奥深さがある。彫像する指が作品に残り続けているかのような、生々しさを感じる。語りかけてくるような独自の生命力を宿しながらも存在を主張しすぎることなく、程よく街の風景になじんでいる姿が興味深い。
これら32体の像は、高田博厚に師事し、彫刻家としても活動する沖村正康氏が設立した「三郷工房」により、毎年春と秋の2回メンテナンスされている。屋外設置により起こりやすい変色、劣化などを防ぎ、常に良質な色、コンディションが口伝により保たれている点も魅力と言える。中には、遠方からロードバイク(自転車)でこのプロムナードを訪ねてくるサイクリストのファンもいるほどだ。高田の彫刻作品が、東松山市の大きな魅力の一つとして根付いていることがわかる。
ロマン・ロランが讃えた高田博厚の若き才能
高田博厚の交友関係は驚くほど広く、人間的魅力に富んだ人であったことを想像する。中でも象徴的に語り継がれているのが、フランスの文豪ロマン・ロランとの交友である。
高田が初めてロマン・ロランを訪ねたのは、フランスに渡った1931年のことだった。ロマン・ロランは60代半ばで、1915年にノーベル文学賞を授与され、すでに文豪として世に名を馳せていた。一方、高田は日本から渡欧したばかりの極貧生活を送る31歳の無名の彫刻家だった。ロマン・ロランは日本からやってきた若き作家に好感を示し、ノーベル賞受賞後16年来断り続けていた自身の肖像彫刻の制作を初めて依頼する。その才能の開花に力を注ぎ、高田もロマン・ロランを慕い、親子ほど年が離れた2人は幾度も文通を重ね、深い師弟関係を育んでいく。近年、奇跡ともいうべき出来事が重なり、ロマン・ロランと高田の往復書簡がまとまって発見され、およそ90年前の事実が裏付けされた。ロマン・ロランが高田博厚に目をかけた理由は何だったのか。フランスに滞在する日本人の印象に触れながら、次のように語っている。
「彼らは自分たちだけでまとまりすぎる。そしてわれわれと交わるとなると、今度はR・Rの友人以外の人間を見ようとしないのだ。そうでなければ、小柄で素敵なあの上田秋夫[1899 -1995 詩人]と同様で、一年パリに住みながら、カルチェ・ラタンの薄汚れたホテルに籠もって、優美なポエジーを夢見続ける。——対するに高田はもっと生気漲る庶民的な人柄だ。彼の大きな赤ら顔には何かしら苦悩の影が浮かび、そこに荒々しくたてがみを靡かせている。(中略)彼は見せかけだけの旧式の彫刻家ではない(中略)私は彼が気に入った。——彼は三、四年ヨーロッパに暮らすという。彼の関心は今は十五世紀のフィレンツェ彫刻に向かっている。だが彼はいずれその先まで行くことだろう。」
(『高田博厚=ロマン・ロラン往復書簡: 回想録『分水嶺』補遺』高田博厚/ロマン・ロラン (著)、 髙橋純 (編訳) 吉夏社 2021年)
当時のフランスは、フォーヴィスム、キュビスム、シュルレアリスムなど、文字通り多様な芸術の流派が誕生した時代だ。ロマン・ロランは同時代の芸術家に対し、流行と呼ばないまでも、どこか表層的なスタイルが先行しがちな印象を抱いていたのかもしれない。そんな中、高田博厚の作品に、根源的な芸術の胎動を感じ取っていたのだろうか。
こうした高田の人柄や、豊かな交友関係を感じられる貴重な資料が、東松山市には数多く保管されている。作家を知る資料としてはもちろん、文学、芸術的価値の高い資料の豊富さに驚かされる。
ロマン・ロランが繋いだガンジーとの出会い
ロマン・ロラン、アラン、ジャン・コクトー、ポール・シニャック―――高田博厚がフランスで出会った芸術家や知識人は数知れない。中でも高田との交流で注目したい存在は、インド独立運動の指導者であった宗教家マハトマ・ガンジー。実は、高田とガンジーとの出会いの裏には、ロマン・ロランの働きかけがあった。
当時すでに世界的な偉人であったガンジーと文豪ロマン・ロランは交流があり、ガンジーはロンドンの会議からの帰途、ロマン・ロラン邸に一週間ほど滞在することになる。そこで、ロマン・ロランはガンジーと高田博厚を引き合わせようと思うに至る。極貧生活を送る高田博厚に送金し、ガンジーが滞在する自邸に招待する。
「ガンジーが次の日曜日(11月6日)にヴィルヌーヴにやって来て、11月11日金曜日の晩まで滞在します。彼とそのインド人のお供の者たちのために、私が持っている二つの別荘の一つを彼らに使ってもらうことにしました。
私は、多分あなたなら、ガンジーに出会って彼のクロッキーをいくつか描くことができたら嬉しいのではないかと思いました……(中略)
ついてはこの封筒のなかに百フランス・フラン三枚を入れておきます。その心は、『できたら、日曜の夜行列車でいらっしゃい、月曜朝にはここに着きますから(中略)』ということです。」
(髙橋純 前掲書)
ロマン・ロランから手紙が届いた翌日、高田はたちまち返事を送る。
「私は今朝あなたから届いた手紙に感激のあまり、私に対するあなたのご配慮にどのように感謝の気持ちを表わしたらよいのか分かりません。ガンジーに会えるとは、何という喜びでしょう。心底感動してしまいます。無論私は彼に会うためにあなたのもとに伺います。(中略)ただ、私が今心配していることがあります、一体私はどうやって彼の魂を自分の作品のなかに捉えることができようかということです。このことはあなたの顔を作品にすることについても思っていることです。」
(髙橋純 前掲書)
高田博厚は、若い頃から一流作家との縁に恵まれ、彫刻の道を歩み続けるが、著作や資料からは、自信家というより、常に迷いを抱えながらも真摯に彫像に向かおうとする姿が見てとれる。その謙虚さや揺らぎ、本質的な領域に至ろうと試行を続ける姿勢に、偉大な芸術家たちは信頼を寄せたのかもしれない。
その著作『分水嶺』(岩波書店 2000年)では、ロラン邸でガンジーと遭遇した際のエピソードが事細かに記されている。関心のある方はぜひご一読いただきたい。
ガンジーがロラン邸に滞在した一週間、高田は毎日ガンジーをデッサンした。以降、フランスでガンジーの彫像を重ねたが、納得した作品の完成には至らなかった。現在、高坂彫刻プロムナードに設置されているのは、帰国後、心身に刻み込んだガンジーの存在を基に制作された作品である。
深い信仰と創造。生涯続いたルオーとの交流
もう一人、高田が生涯親交を深め続けた芸術家に画家ジョルジュ・ルオーを挙げたい。1933年、高田は武者小路実篤とともにルオーのもとを訪ねている。以降、二人は親交を深め、高田は日本でルオーについて知る第一人者として書籍も残している。著作『ルオー』は、研究者視点でなく、ルオーと実際に会っていた者の視点から生身のルオーを感じられる名著だ。
高田の母はクリスチャンで、自身も洗礼を受けているが、強い傾倒を示してはいなかった。しかし創造においては信仰の重要性を常々感じていたようだ。元来、宗教的感性を有し、文学に嗜み、思索する人であった高田博厚が、いずれの宗派に所属することなく、自らの信仰心にのみ従いキャンバスに向かい続けたルオーと深い交感を生んだことは、自然なことのようにも思われる。
ルオーの死後も高田は娘で画家のイザベル・ルオーと交流を続けており、晩年を過ごした鎌倉市稲村ガ崎のアトリエには、彼女の作品も複数残されていた。中でも印象深いのは、アトリエの居住スペースの西日が差し込む壁にはめ込まれていたイザベル・ルオーの手によるステンドグラスだ。2023年のアトリエ解体の際に壊れてしまうところだったが幸いにも巧みな業者がステンドグラス部分のみを取り外すことに成功し、現在は東松山市に保管されている。
東松山市の地域に根ざす、高田博厚の芸術
東松山市では、毎年10月下旬頃に高田博厚に関連する企画展示や、高坂彫刻プロムナードを舞台としたアートフェスタが開催されている。高田と田口の交流から生まれた縁を今日まで大切につないできた地域の方々の情熱に圧倒される。
2017年には、鎌倉市稲村ガ崎のアトリエに保存された高田の作品約100点、資料約1,000点が東松山市に寄贈された。個人美術館を開ける程の彫刻、絵画、資料の数々は、東松山市の職員自らがアトリエに赴き、東松山市まで運んだそうだ。これらの作品は、市内の複数の公営施設にて展示・保管されており、毎年、秋の企画展などで公開される。また、高田博厚を知る芸術家、有識者によるトークイベントやコンサートも開催されるなど、地域住民が高田博厚とその作品を通じてアートに親しむための企画が実施されている。
さらに、地域の飲食店で高田博厚の作品が飾られたり、特別展示が開催されていたりと、地域住民にとって身近な芸術家として受け入れられているようだ。
「ギャラリー&カフェ亜露麻」では、例年秋のアートフェスタに合わせて高田博厚の絵画作品を展示している。店主の髙島明子氏は、「プロムナードは昔から日常の一部でした。ギャラリーで高田を知り、『プロムナードを観に行ったよ』というお客様もいらっしゃいます」と話す。その魅力について尋ねると、「作品に対して真摯。まるで、人物がそこにいるかのような彫刻を創る。対象の内面を、自身を深掘りしながら作品を彫像した、研鑽の人だと感じます」と語ってくれた。
対象の内面を見つめ続けた彫刻家の息吹を訪ねて
高田博厚の存在は、その輝かしい功績に対し、現代の日本ではあまりその名が知られていないように思われる。様々な背景が考えられるが、フランス滞在が長かったことや、フランス滞在時の資料が限られていたことなども要因に挙げられるだろう。今回、記事内で一部ご紹介したロマン・ロランとの書簡は、『高田博厚=ロマン・ロラン往復書簡: 回想録『分水嶺』補遺』の編訳者・髙橋純氏が、小林多喜二の研究を進める中で明らかになったものだ。なお、本書は2021年に発行されており、高田博厚とロマン・ロランの対面から90年を経て発表されたことになる。
再注目の機運が高まる今、東松山市の高坂彫刻プロムナードを歩き、稀有な作家の視点に触れてみてはいかがだろうか。個々の像をゆっくり味わっているうちに、きっと新鮮な発見が生まれ、感性が心地よく刺激されるはずだ。
- 東松山市・高坂彫刻プロムナード~高田博厚彫刻群~
〒355-0063 埼玉県東松山市元宿
東武東上線 高坂駅 西口
関越自動車道東松山インターチェンジより約10分
https://www.city.higashimatsuyama.lg.jp/soshiki/51/3415.html
参考文献:
『高田博厚=ロマン・ロラン往復書簡: 回想録『分水嶺』補遺』高田博厚/ロマン・ロラン (著)、 髙橋純 (編訳) 吉夏社 2021年
『分水嶺』高田博厚 岩波書店 2000年
『人間の風景』高田博厚 朝日新聞社 1972年