村上春樹の世界が初めて劇場アニメーションに
喪失感から解き放たれる主人公たちの冒険譚
『めくらやなぎと眠る女』
アニメ映画『めくらやなぎと眠る女』がユーロスペースほか全国ロードショー
文・構成 長野辰次
学生時代からジャズ喫茶を営んでいた村上春樹は、20代最後の年に書き上げた青春小説『風の歌を聴け』で1979年に作家デビューをはたした。私小説を中心にした伝統を持つそれまでの日本文学とは大きく異なる、翻訳調の明朗な文体がとても斬新だった。続編『1973年のピンボール』を発表後に、村上は専業作家に。三部作完結編となる『羊をめぐる冒険』も若い世代の支持を集めた。人気イラストレーター・佐々木マキのポップな装画と相まって、初期三部作は日本文学の新時代の扉を開けることになった。
1985年に発表された『世界の終りとハードボイルド・ワンダーランド』は世界各国で翻訳され、1987年に上下二巻で書き下ろされた『ノルウェイの森』は1000万部をこえる大ベストセラーとなった。『海辺のカフカ』が2006年にフランツ・カフカ賞を受賞して以降、ノーベル文学賞の有力候補として名前がたびたび挙がっている。
デビュー作『風の歌を聴け』が小林薫主演作として1981年に映画化されたのを皮切りに、トラン・アン・ユン監督の『ノルウェイの森』(2010年)、イ・チャンドン監督の『バーニング 劇場版』(2018年)など映画化された村上作品は少なくない。濱口竜介監督の『ドライブ・マイ・カー』(2021年)がアカデミー賞国際長編映画賞を受賞したことも記憶に新しい。
世界各国のクリエイターたちの創作意欲を刺激し続けている村上春樹の小説だが、ピエール・フォルデス監督の『めくらやなぎと眠る女』(英題『Blind Willow, Sleeping Woman』)が映像化作品として新たに加わることになった。フランスを拠点にするピエール監督はアニメーション作家&音楽家として活躍しており、本作は村上作品初の劇場アニメーションとなる。
ピエール監督の初長編作でもある本作は、アニメ界でもっとも伝統のある「アヌシー国際アニメーション映画祭2022」で審査員特別賞を受賞。2023年に始まった「新潟国際アニメーション映画祭」の第1回グランプリにも選ばれた。日本の商業アニメにありがちな「萌え」要素のない、大人向けのアートアニメとして楽しめる作品だ。
6つの短編小説を長編アニメとして再構成
物語は表題となっている『めくらやなぎと、眠る女』(『螢・納屋を焼く・その他の短編』収録)や、『かえるくん、東京を救う』『UFOが釧路に降りる』(『神の子どもたちはみな踊る』収録)、『ねじまき鳥と火曜日の女たち』(『パン屋再襲撃』収録)、『かいつぶり』(『カンガルー日和』収録)など6つの短編小説を大胆に組み合わせたもの。発表された年代も異なり、それぞれ異なる主人公たちの物語なのだが、ピエール監督自身が脚本を執筆し、ひとつの物語として意外なほどうまくまとまっている。
2011年3月に起きた東日本大震災直後の東京が物語の舞台だ。主人公となるのは都内の金融系企業に勤める小村。妻のキョウコとのふたり暮らしだが、キョウコは震災以来ずっと被災地の状況を伝えるテレビのニュースを見続けている。ある日、小村が会社から帰ってくると、キョウコは置き手紙を残して姿を消していた。「あなたとの生活は、空気のかたまりと暮らすみたい」というキョウコの置き手紙を読み、呆然とする小村だった。キョウコがかわいがっていた飼い猫のワタナベノボルも、同時にいなくなった。
会社の上司から有給休暇をとることを勧められ、小村は同僚から頼まれた小箱を届けるために北海道へと向かう。一方、小村の職場の先輩にあたる片桐も信じられない状況に遭遇する。独身の片桐が誰もいないはずのアパートに帰ってくると、人間大の大きさのカエルが待っていたのだ。言葉を話すカエルは「僕のことはかえるくんと呼んでください」と名乗り、さらに東京の地下に眠る巨大ミミズが大地震を起こすのを一緒に防いでほしいと片桐に頼むのだった。
小村のもとを離れたキョウコは、20歳の誕生日の出来事を回想する。当時レストランで働いていた彼女は、誕生日もバイト先で過ごすことになった。給仕長が体調を崩し、いつもは給仕長が届けていたオーナーの食事を、代わりに運ぶキョウコだった。老オーナーはキョウコが誕生日を迎えたことを知り、「願いごとを、ひとつだけ叶えてあげよう」と彼女に告げる。
現実がフィクション化していく奇妙な感覚
小村、キョウコ、片桐らのそれぞれのエピソードが重なり合い、シニカルかつ奇妙な村上ワールドが構築されていく。3人は大きな喪失感を抱えており、そのことが大震災をきっかけに露呈していく。彼らは自分を縛り付けていた喪失感に、自分なりの形で向き合うことになる。
2011年に起きた東日本大震災と福島第一原発事故は、日本だけでなく世界中に大きな衝撃を与えた。被災地から中継されるニュース映像に、誰もが言葉を失った。日常生活が一瞬にして崩壊した、恐ろしい光景だった。繰り返し流されるニュース映像は、あまりにも現実離れしており、現実がフィクション化していくような感覚ももたらした。テレビを消した後には、わずかばかりの義援金などでは到底解消できない違和感や罪悪感が残された。
関西で生まれ育った村上春樹は、1995年に起きた阪神淡路大震災、そして地下鉄サリン事件に触発され、短編小説集『神の子どもたちはみな踊る』を2000年に刊行している。米国で生まれたピエール監督にとっては、2001年に起きた「9.11同時多発テロ」が同じような体験となったようだ。多くの日本人が大災害直後に感じていたあの言語化しにくい感覚を、このアニメーションは的確に捉えてみせている。
村上春樹が興味を示した、ピエール監督の独特な絵柄とアプローチ
セザール賞を受賞したアニメーション作家ピーター・フォルデスを父に持つピエール監督は、日本人サラリーマンらしい風貌の片桐やかえるくんといったユーモラスなキャラクターを動かし、村上春樹の世界を独自に再構築している。主人公となる小村が、村上春樹本人を思わせるキャラクターとなっている点も面白い。ストーリー自体はシリアスだが、全体的にどこかとぼけた味わいがある。エスプリを愛するフランスで暮らすピエール監督ならではのものだろう。
ピエール監督が村上春樹作品のアニメ化を打診した当初、村上春樹のエージェントは諦めさせようとしたが、ピエール監督の独特なスタイルの絵と村上作品に対するアプローチ方法に村上春樹本人が興味を示し、短編小説を翻訳することが許されたという。6つの短編小説を繋ぎ合わせることで、新しい物語を生み出したピエール監督は次のように語っている。
「村上は自分のスタイルで、芸術で、感情で、すべてのキャラクターを創り上げました。だから、これらの登場人物には共通点がある。 彼らの共通点は、同じ作者、同じ世界観、世界理解、インスピレーションから作られたことです。だから、彼らは異なる状況にいることができます。その気になれば、同じキャラクターの異なる面として見ることができるのです。 それが、このような短編を繋ぎ合わせる映画に取り組む魅力だと思います」
もともと村上作品は、短編小説『螢』が『ノルウェイの森』に、『ねじまき鳥と火曜日の女たち』が『ねじまき鳥クロニクル』へと長編小説化されている。短編小説をベースに、長編化するのに向いている作家なのかもしれない。ピエール監督がアニメーションという手法を使ったことで、村上ワールドの重要なテーマ性が顕在化され、またマジックリアリズム的要素もうまく表現されたように思う。
ピエール監督が読み解いた村上ワールドの新解釈
村上春樹作品に共通する主人公たちが抱える「喪失感」に、ピエール監督は真っ直ぐに向き合い、そして本作に登場する小村、キョウコ、片桐たちがその「喪失感」にどう対処するのかを描いている。「喪失感」をもたらしていた過去や環境に対し、小村たちは自分なりの決断を下す。それは「痛み」を伴うものだが、彼らは前に進むことを選ぶ。
本来はバラバラである6つの短編小説を、ひとつに繋いでみせているのは翻訳アンソロジー『バースデイ・ストーリーズ』に収録された書き下ろし小説『バースデイ・ガール』だ。村上作品ではあまり注目を集めることのない短編小説だが、本作では重要な役割を負っている。20歳の誕生日を迎えた女の子がレストランの老オーナーから、願いごとを叶えてもらうというもの。女の子がどんな願いごとをしたのか、願いごとは叶えられたのかどうかは小説内では明かされていない。本作ではキョウコの体験談として語られている。
大災害は街を瞬く間に破壊し、被災を免れた街もディスコミュニケーションによる絶望感、息苦しい閉塞感がすっぽりと覆っている。それでも、本作の主人公たちは自分がなすべきことをやろうとする。万事が解決するおめでたいハッピーエンドではないものの、ささやかな希望が物語の最後には灯されることになる。ピエール監督が紡ぎ出した、新しい村上春樹の長編作品であり、ピエール監督が読み解いた村上ワールドの新解釈でもある。「喪失感」や「痛み」を乗り越えて、主人公たちが前へ進もうとするポジティブさが心地よい。
「animation(アニメーション)」という言葉は、ラテン語の「anima(生命、魂)」が語源となっている。また、「animate」には「生命を吹き込む」「活気づける」という意味がある。アニメーションをつくる行為そのものが、魔術的であり、かつ生きることを肯定する作業ではないだろうか。本作はピエール監督による村上ワールドへのオマージュ作であるのと同時に、度重なる災害から復興を遂げてきた日本文化に対する讃歌でもあるようだ。
日本語版はジェンダーロール的な言葉遣いを排したものに
ピエール監督が来日し、オーディションから収録にまで立ち会った「日本語版」の顔ぶれも、豪華なものとなっている。『淵に立つ』(2016年)がカンヌ国際映画祭「ある視点」部門審査員賞を受賞した深田晃司監督が演出を担当。小村役に『月』『正欲』(共に2023年)などの話題作への出演が続く磯村勇斗、キョウコ役に濱口監督の『偶然と想像』(2021年)に出演した玄理、片桐役に『ほかげ』(2023年)などの映画監督でもある塚本晋也、かえるくんは『淵に立つ』などで活躍する個性派俳優の古舘寛治が声優に挑戦している。さらに、木竜麻生、内田慈、平田満、柄本明ら人気&実力派キャストも参加している。
翻訳台本では「~だわ」などの台詞があったが、深田監督はそうしたジェンダーロール的な言葉遣いはすべて排したものにしたという。日本語版も丁寧な仕上がりとなっている。村上春樹作品を愛するファンは、オリジナルとなる英語版とぜいたくな日本語版のどちらを先に観るかで悩むことになるだろう。
- アニメーション映画『めくらやなぎと眠る女』
2024年7月26日(金)より渋谷ユーロスペースほか全国ロードショー
原作 村上春樹『かえるくん、東京を救う』『バースデイ・ガール』『かいつぶり』『ねじまき鳥と火曜日の女たち』『UFOが釧路に降りる』『めくらやなぎと、眠る女』
2022 / 109分 / フランス、ルクセンブルク、カナダ、オランダ合作
原題 「Saules Aveugles, Femme Endormie」
英語題 「Blind Willow, Sleeping Woman」
監督・脚本 ピエール・フォルデス
日本語版演出 深田晃司
翻訳協力 柴田元幸
音響監督 臼井勝
配給 ユーロスペース、インターフィルム、ニューディアー、レプロエンタテインメント
『めくらやなぎと眠る女』公式サイト http://www.eurospace.co.jp/BWSW/
© 2022 Cinéma Defacto – Miyu Productions - Doghouse Films – 9402-9238 Québec inc. (micro_scope – Productions l’unité centrale) – An Original Pictures – Studio Ma – Arte France Cinéma – Auvergne-Rhône-Alpes Cinéma
長野辰次
福岡県出身のフリーライター。「キネマ旬報」「映画秘宝」に寄稿するなど、映画やアニメーション関連の取材や執筆が多い。テレビや映画の裏方スタッフ141人を取材した『バックステージヒーローズ』、ネットメディアに連載された映画評を抜粋した電子書籍『パンドラ映画館 コドクによく効く薬』などの著書がある。