美しき海の情景に誘われて。
本州最西端、下関&長門で美術館を巡る旅。
山口・アート × 海旅への誘い【前編】
アート好きの心を満たす旅 / 下関市立美術館(山口県下関市)
構成・文 藤野淑恵
狩野芳崖、高島北海―――
長州出身の名匠による日本の風景表現を
海峡の街・下関市立美術館で堪能する
山口のアート旅の最初の目的地、下関市立美術館を目指すには、山口宇部空港から、あるいは新幹線の新下関駅からといくつかの手段がある。いずれにしてもお薦めしたいのが、JR下関駅から下関市立美術館へ向かう国道9号線のドライブだ。わずか15分程のルート(バスでは20分程度)には、この街の誇る景勝地や、数々の歴史の舞台が連なる。見下ろせば360度の海の表情を楽しむことができる海峡ゆめタワー、下関の代名詞であるフグが100種類以上展示されている市立しものせき水族館 海響館、海峡を渡る風を浴びながら食事やボードウォーク散歩を楽しめるカモンワーフ。ここに隣接する桟橋からは宮本武蔵と佐々木小次郎の決闘の地・巌流島への連絡船も出る。
さらに、関門の台所として市民や観光客が新鮮な海鮮類を目当てに訪れる唐戸市場、壇ノ浦の戦いで幼くして亡くなった安徳天皇を祀る赤間神宮、日清戦争の講和条約が締結された日清講和記念館(料亭春帆楼)、そして本州と九州を結ぶ吊り橋・関門橋、源平の最後の戦いの舞台となった壇ノ浦古戦場―――対岸の北九州と海峡を背景に連続するパノラマは、この街で生まれ育った筆者にとっては懐かしく、心に沁みる風景だ。
下関市立美術館は、関門海峡の東端、江戸時代には毛利藩の城下町長府の入り口に位置する。武家屋敷や練塀、国宝仏殿のある長州藩主の菩提寺である功山寺など、古の面影を今に残す城下町長府は、下関市立歴史博物館や廻遊式日本庭園の長府庭園(美術館に隣接)といった文化施設が集積する観光エリアでもある。1983年に開館した下関市立美術館の幕開けは、海をテーマにした日本美術の秀作を集めた特別展「海・そのイメージと造形」だった。下関の歴史、風土に最もふさわしい「海」をテーマにした展覧会は、2022年春に開催された下関市出身の写真家、野村佐紀子の写真展「海」や所蔵品展「特集 海と美術」など、開館から40年を迎えようとしている今日まで繰り返し開催されている。
下関市立美術館の所蔵品には、狩野芳崖や高島北海、香月泰男など山口県や下関市出身の作家の作品に加え、岸田劉生、岡鹿之助など日本近代絵画、さらに古代オリエント美術品の秀作が含まれる。その礎は美術館開館のきっかけともなった下関市出身の実業家、河村幸次郎より寄贈された河村コレクションだ。開館30周年記念として2013年に開催された「河村幸次郎と美の世界」の図録を見ると、エジプト、ギリシア、ローマなどの古代地中海世界の工芸品、竹久夢二、岸田劉生、梅原龍三郎、藤田嗣治らの名作、さらに、ゆかりの深い高島北海(北海は河村氏の義父でもある)、親交の厚かった香月泰男などの作品が並び、その充実したコレクションに驚く。
現在開催中の特別展「山水画と風景画のあいだ―真景図の近代」は、18世紀末から20世紀初頭の日本の風景表現の変遷を紹介するものだ。山水画、文人画、浮世絵、日本画、洋画などジャンルを超えた約100点の作品が展示されている。「『真景図』とは江戸時代の文人画などに見られる、特定の場所の写生に基づいたリアルな山水画のこと。今回の展示ではこの『真景図』をキーワードに、江戸時代の山水画の時代から近代の風景画の時代までをたどります」と語る担当学芸員の藪田淳子氏に、本展覧会の見どころを聞いた。
「江戸時代後期、真景図のように特定の場所の写生に基づいた山水画が登場しましたが、ただリアルに描くというのではなく、その地に行ったときの感動や印象が表されました。それゆえに想像力豊かな風景表現になっています。松島や富士山といった定番の名所以外の地も、新たな観光スポットとして描かれるようになりました。前期に展示する司馬江漢の《七里ヶ浜図》は、遠近法を用いてこれまでの山水画とはちがう視覚で風景を捉えようとした作品。新しい見方で丹念に描こうとする思いが伝わる、味わい深い作品です」(藪田学芸員)。
真景図は江戸時代以降に描かれるようになったというが、これを描いた田能村竹田は、文人画で知られる。中国的な教養や詩文・書画に精通する文人たちの営みは江戸時代の成熟した文化を支えた。展覧会の第1章「真景図のはじまり」では、真景図を契機とした多様な風景表現を紹介。実際に目にした情景を文人的価値観や美意識で再構成した田能村竹田、遠近法を用いた味わい深い風景を描いた司馬江漢、さらに江戸時代の旅の流行に伴う実景への関心の高まりにより生まれた歌川広重による名所絵まで展示されている。
第2章では下関や長州に関わりのある風景や、所縁の作家の作品が紹介されている。
見逃せない作品のひとつは、狩野芳崖が下関を描いた全長6mの《馬関真景図巻》(メイン画像)だ。
「ミニアチュールのような細かい表現がなされていて、人が歩いている姿もわかります。彦島から火の山、前田のあたりまで描かれており、見れば見るほど引き込まれるみずみずしい表現です。江戸から明治へ、時代を橋渡ししたといわれる芳崖の《懸崖山水図》のV字型の独特の崖の形態など、伝統とは異なる表現も合わせて見ていただきたいですね」(藪田学芸員)。
今回の展覧会のキーパーソンは、明治から大正にかけて活躍した下関ゆかりの日本画家・高島北海。地質学や森林学を学び、工部省、農商務省の技術官僚としても活躍した異色の経歴をもつ人物だ。官僚として山林の調査も行っていた北海は、中国や西洋の山も実際に自分の足で登り、実際に見ることで文人画の真景図を追求した。《蜀道七盤関真景》に描かれたのは、古来中国の峻険な行路として知られた岩山の難所であり、自身も踏破した場所だという。
「横山大観や菱田春草など新しい日本画の表現が追求されていく中で、高島北海は文人の真景表現を追求した人物です。北海は西洋の科学的な知識を取り入れ、風景を客観的に把握しながら、一種理想化された山水表現を描きました。彼の山水画は文人画が目指した真景表現であり、実際の風景をもとに豊かな風景を描き出す文人画の一つの到達点であったと捉えています」(藪田学芸員)。
第3章「近代風景画の成立」では、小林清親、川瀬巴水、吉田博らの風景版画から、近代洋画の創始者とされる高橋由一の本格的な油彩風景、日本画の大家である横山大観、菱田春草の作品、さらに下関市立美術館が所蔵する岸田劉生や藤田嗣治の優れた風景画を紹介することで、明治以降の風景表現をたどる。「高橋由一は日本人として初めて本格的に油彩画の風景を描きました。《琴平山遠望図》では、手前から奥まで、同じ密度で対象の質感をリアルに描きとろうとしていて、それゆえに非常に迫力のある画面になっています。」(藪田学芸員)。
「浮世絵の流れを引く版画は、庶民の芸術としてずっとさかんでした。明治時代には明暗法をとりいれた「光線画」を生み出した小林清親の作品や、大正時代には吉田博や川瀬巴水の新版画による風景画が描かれました。吉田博は版画だけではなく水彩画でも優れた作品を残しましたが、近代には水彩画の風景画も多く描かれるようになりました」(藪田学芸員)。横山大観や菱田春草による、面によって空間を表す朦朧体を試みた作品や、岸田劉生の土着性を感じさせる風景画まで、馴染みの深い名匠による作品の数々は見応えのあるものだ。
江戸時代から近代までの風景表現が集められた下関市立美術館の特別展「山水画と風景画のあいだ―真景図の近代」の鑑賞は、狩野芳崖、高島北海といった長州の作家の魅力に、ゆかりの地で触れる貴重な機会といえるだろう。それは同時に、巨匠たちが描いた日本の風景を旅する、時空を超えた心豊かなひとときとなるに違いない。
藤野淑恵 プロフィール
インディペンデント・エディター。「W JAPAN」「流行通信」「ラ セーヌ」の編集部を経て、日経ビジネス「Priv.」、日経ビジネススタイルマガジン「DIGNIO」両誌、「Premium Japan」(WEB)の編集長を務める。現在は「CENTURION」「DEPARTURES」「ART AGENDA」「ARTnews JAPAN」などにコントリビューティング・エディターとして参画。主にアート、デザイン、ライフスタイル、インタビュー、トラベルなどのコンテンツを企画、編集、執筆している。