雪舟はなぜ画聖(カリスマ)になったのか―
多くの絵師が憧れた雪舟の魅力に迫る
「特別展 雪舟伝説―「画聖」の誕生―」が、京都国立博物館にて2024年5月26日(日)まで開催
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「画聖・雪舟」―水墨画の大成者として、誰もが一度はその名を聞いたことがあるだろう。国宝に指定されている作品は6点。これは1人の画家としては最多を誇り、雪舟が日本美術史において極めて重要な画家であることを証明している。
では、なぜ雪舟は「画聖」と呼ばれるようになったのか。そう呼ばれるまでにどのような経緯があったのか。そうした“雪舟の神格化”をひも解く展覧会「雪舟伝説—画聖の誕生―展」が、京都国立博物館で開幕した。
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- 特別展 雪舟伝説 ―「画聖」の誕生―
開催美術館:京都国立博物館
開催期間:2024年4月13日(土)〜5月26日(日)
雪舟展ではない、されど濃密な雪舟世界を堪能
本展は、画家の生涯とその画業をたどるいわゆる「雪舟展」ではない。むしろ雪舟没後の「雪舟受容」に焦点を当てている。しかし、後世の画家たちがいかに雪舟の作品から影響を受けてきたかを見ることで、ひるがえって雪舟という画家の魅力と凄さに改めて気づくことができる。
そのため「雪舟展ではない」からと侮ってはいけない。むしろ国宝に指定されている全6点の雪舟作品が集結する非常に貴重な機会なのだ。展覧会では、3つのフロアのうち、最初の3階展示室に国宝6点が集結している。それぞれが1つの展覧会の目玉になるような傑作中の傑作を、一挙に堪能できる贅沢な空間となっている。
例えば、歴史の教科書に必ず載ると言ってよい《秋冬山水図》。特に冬の景色の断崖を表す垂直の墨線は、強烈なインパクトを与える。雪舟を象徴する一筆(線)を選ぶとしたら、この線を選ばずにはいられない。画面空間を貫くような鋭い線は、「これぞ雪舟」と思わせる一筆だ。
その他、国宝の《四季山水図巻(山水長巻)》、《山水図》、《天橋立図》、《慧可断臂図》、《破墨山水図》が並ぶ空間は壮観だ。厳しく鋭い墨線、構築的な空間構成や急峻さが強調された岩壁の形など“雪舟印”ともいうべき特徴は、見る者を画面の奥へ奥へと引き込む不思議な引力がある。「雪舟展」ではないが、濃密な雪舟世界が会場に充満している。
ちなみに、本展では雪舟の真筆だけでなく、今日では雪舟筆とは言えない作品もいくつか紹介されている。これらの作品からは、当時どんな作品が“雪舟筆”として受容されてきたのかを垣間見ることができる。
画風を受け継ぐ―雲谷派・長谷川派―
さて、いよいよ雪舟が「画聖(カリスマ)」となっていく、雪舟没後の展開を辿る。多くの画家たちが雪舟に憧れたが、どのように影響を受けたかは千差万別、まさに“推し方は人それぞれ”だ。本稿では、次の3つのポイントに絞って紹介したい。
① 画風を受け継ぐ―雲谷派・長谷川派―
② 自身の様式に取り入れる―狩野派―
③ 画題を受け継ぐ―近世の絵師たち―
雪舟受容を語る上で、まず重要になるのが雲谷派と長谷川派だ。雲谷派は雲谷等顔を祖とする、桃山時代に萩藩の御用絵師として活躍した流派。萩藩は雪舟の《山水長巻》を所持していた毛利家が治める場所である。室町時代の雪舟と時代が離れているため、当然直接的な師弟関係ではないが、雲谷派はその様式を真摯に学び、画風を形成していく。残された作品や言葉からは、雪舟様式を受け継ぐ正統な後継者としての自負が強く感じられる。展覧会では雲谷派2代目の雲谷等益筆の《四季山水図巻》(雪舟筆《山水長巻》の写し)も展示されている。雲谷派にとって《山水長巻》はまさに“聖典“だったと言えよう。
一方、同じく桃山時代に活躍した長谷川派の祖で、有名な《松林図屛風》を描いた絵師・長谷川等伯も、自身を雪舟の正当な後継者と謳った人物だ。等伯の画風自体は、中国の画家を手本としているが、「自雪舟五代」と自身を雪舟の五代目に当たると表明している。そこには自身の絵師としての正統性を示す思惑があったのだろう。この時代には、すでに「雪舟」が権威ある存在となっていたことを物語っている。
神格化の始まり―狩野派の功績―
桃山時代にはすでに権威的な存在となった雪舟だが、さらなる神格化につながったのには、狩野派、特に江戸時代に活躍した狩野探幽の功績が大きい。室町時代の狩野元信を祖とする漢画系の流派である狩野派は、江戸時代に狩野探幽によって徳川家の御用絵師となり、日本美術史最大の流派となる。その探幽が、自身の画風形成の過程で雪舟の画風や主題を学んでいる。狩野派は分業制作、粉本(画手本)による育成というシステムによって一大派閥となったが、その中興の祖である探幽が雪舟に学んでいたことは、「雪舟様式」が自然と広く伝播する一助となっただろう。
画題を受け継ぐ
江戸時代中期以降の時代になると、伊藤若冲や曾我蕭白といった「奇想」と称される絵師、デザイン的な画風で琳派の祖となった尾形光琳、あるいは写生画の円山応挙、西洋画を学んだ司馬江漢…と、一見雪舟とは縁のなさそうにも思える江戸時代のスター絵師たちも、実は様々な形で雪舟の画風や主題、モチーフの形態を作品の中に取り入れている。
彼らが直接的に雪舟作品から学ぶというよりは、この頃には雪舟の絵の様式や画題がすでに“伝統的な様式”となっていたと言う方が良いかもしれない。それを象徴するのが富士と三保松原の風景を描いた作品だ。伝雪舟筆《富士三保清見寺図》の画題、画面構成を踏襲し、多くの画家が自身の画風にアレンジをして描いている。本展では様々な絵師たちによるバリエーション豊かな富士図が集う。
名前をもらう―山口雪渓―
現在でも人気の高いスター絵師たちの中で、本展では、山口雪渓というややマイナーな絵師の作品が大きく取り上げられている。その作風を見てみると…これがまったく雪舟っぽくない。なぜ彼が紹介されているのかというと、実はその名前。「雪渓」という号は、雪舟と牧谿(宋末元初の画僧)から一字ずつ取ったものと伝えられているのだ。中国の画家として高く評価されていた牧谿と雪舟を並べている点に、両者を同格と見なしていることがうかがえる。雪渓は長谷川等伯の四男・左近(等重)の門人であったとも伝わり、長谷川派の様式に留まらず、その長谷川派が憧れた雪舟への思慕があったのだろう。実際の作品からも、中国・明画へと復古的な傾向が見て取れ、雪舟と牧谿の両者から名前を取ったことも不思議ではない。
雪舟亡き後、後世の画家たちは、画題、様式、モチーフの形態、名前と、絵師たちがそれぞれの形で“雪舟”という偉大な画家のエッセンスを自身の中に取り入れようとしていた。ちなみに、実際に「画聖」の称号が雪舟と結びつくのは明治時代、岡倉天心が東京美術学校の講義の中で用いた事例と考えられる。
「画聖・雪舟」-その称号で、つい分かったつもりになりがちだが、この展覧会を通じて、改めて雪舟の真価を自身の眼と心で体得し、その画聖誕生の軌跡を追体験してほしい。
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- 京都国立博物館|Kyoto National Museum
605-0931 京都府京都市東山区茶屋町527
開館時間:9:00~17:30 (最終入場時間 17:00)
定休日:月曜日 ※ただし、月曜日が祝日・休日の場合は開館し、翌火曜日休館