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シュルレアリスム宣言100年
日本の前衛絵画の展開と新たな表現の可能性

「『シュルレアリスム宣言』100年 シュルレアリスムと日本」が、板橋区立美術館にて2024年4月14日(日)まで開催

内覧会・記者発表会レポート

板橋区立美術館にて開催中の「『シュルレアリスム宣言』100年 シュルレアリスムと日本」 展示風景より
板橋区立美術館にて開催中の「『シュルレアリスム宣言』100年 シュルレアリスムと日本」 展示風景より

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「シュルレアリスム。男性名詞。心の純粋な自動現象(オートマティスム)であり、それにもとづいて口述、記述、その他あらゆる方法を用いつつ、思考の実際上の働きを表現しようとくわだてる。理性によって行使されるどんな統制もなく、美学上ないし道徳上のどんな気づかいからもはなれた思考の書きとり。」

アンドレ・ブルトンによる『シュルレアリスム宣言』の一説である(巖谷國士訳 岩波書店)。シュルレアリスム宣言が発表された1924年から、今年で100周年を迎える。スイスのチューリッヒでトリスタン・ツァラが起こしたダダイスムの潮流を受け継ぎつつ、20世紀最大の芸術運動として世界に波及したシュルレアリスム。日本も例外でなく、詩に始まり、文学、絵画、写真、映画などジャンルを越えて運動は拡大していった。

そんなシュルレアリスムの日本画壇における展開を追うことができる「『シュルレアリスム宣言』100年 シュルレアリスムと日本」が、板橋区立美術館にて4月14日(日)まで開催されている。一部展示替えがあり、前期は3月24日(日)まで、後期は3月26日(火)~4月14日(日)まで。約120点が展示される。板橋区立美術館では、1985年に「東京モンパルナスとシュールレアリスム」を開催しており、シュルレアリスムをテーマとした展覧会は二度目となる。シュルレアリスム100周年の節目に合わせ、本展の開催を10年以上前から企画していたという。本展を通じ、戦前から戦後にかけて独自の広がりをみせた日本のシュルレアリスムに迫りたい。

美術館・展覧会情報サイト アートアジェンダ 展覧会情報
『シュルレアリスム宣言』100年 シュルレアリスムと日本
開催美術館:板橋区立美術館
開催期間:2024年3月2日(土)〜4月14日(日)

シュルレアリスムは言葉から生まれた。詩、文学、評論など、画壇への影響を伝える貴重な資料を展示

展示風景より
展示風景より

本展では、シュルレアリスム運動の原点となったアンドレ・ブルトン著『シュルレアリスム宣言・溶ける魚』に始まり、シュルレアリスムを現代に伝える書籍や雑誌など、貴重な資料が多数展示されている。日本で刊行された翻訳本や、作家たちが美術学校で制作、刊行した美術雑誌なども豊富に展示されており、シュルレアリスムの誕生が当時の日本画壇に伝えた影響を窺い知ることができる。

展示風景より
展示風景より
ロートレアモン伯爵『マルドロールの歌』が掲載された美術雑誌
ロートレアモン伯爵『マルドロールの歌』が掲載された美術雑誌

日本において初めてシュルレアリスムの影響が見られたのは詩作品であり、代表的な詩人に山中散生(やまなかちるう)が挙げられる。名古屋に在住し、文芸誌『青騎士』などで詩を発表していた。早くからシュルレアリスムに傾倒し、フランスの詩人ポール・エリュアールと文通により親交を深め、シュルレアリスムの文学作品を翻訳して日本に伝えた。

美術批評家の瀧口修造もシュルレアリスムの紹介に大きく貢献した。1930年にはブルトンの著作『超現実主義と絵画』を翻訳している。山中散生と瀧口修造はともに詩作品の発表や海外のシュルレアリスム文学をまとめた文学集も刊行した。また、瀧口修造自身も詩を書き、阿部芳文の絵を添えた『妖精の距離』という詩画集も発表するなど、言葉を土壌にシュルレアリスムは日本に広がりを見せていく。

瀧口修造 阿部展也(芳文) 詩画集『妖精の距離』 1937年 国立国際美術館
瀧口修造 阿部展也(芳文) 詩画集『妖精の距離』 1937年 国立国際美術館
展示風景より
展示風景より


日本のシュルレアリスム絵画の誕生を告げた二科展

(右から)
東郷青児《超現実派の散歩》1929年 SOMPO美術館
阿部金剛《Rien No.1》1929年 福岡県立美術館
古賀春江《鳥籠》1929年 石橋財団アーティゾン美術館
(右から)
東郷青児《超現実派の散歩》1929年 SOMPO美術館
阿部金剛《Rien No.1》1929年 福岡県立美術館
古賀春江《鳥籠》1929年 石橋財団アーティゾン美術館

日本画壇にシュルレアリスム表現が現れたのは、1929年の二科展が初めとされている。ここで東郷青児、阿部金剛、古賀春江の3名がシュルレアリスム的作風を見せた。今回の展示ではそれぞれの作品を観ることができる。

デフォルメされたミステリアスな女性像で広く知られる東郷青児がシュルレアリスムの渦中にいた点は興味深い。《超現実派の散歩》では、個を消失したような無機質な灰色の肉体が空を歩き、月を見上げている。体の表面はやわらかく光を帯びている。不可思議な雰囲気を醸しつつ、しっかりとした筆致を見せる本作。タイトルこそ「超現実主義」という言葉が見られるも、シュルレアリスム絵画として発表した作品ではなかったという。

実際、東郷青児は1931年に「ごく少数の画家が内部的に漠然と超現実派の精神を感じてゐるかも知れないけれどシュールレアリスムが台頭したとは云へないだらう。僕はまだそんな画家も知らないし、作者も見たことはない。若し僕等の仕事を超現実派と呼称するのなら、少なくとも僕は閉口する」とコメントしている(『アトリヱ』超現実主義研究号 1930年1月)。

また、阿部金剛も次のように話したという。
「二科会に、日本最初の超現実派絵画なるものが現れ、一応世間をアッと云はした。……然し決してこれは、巴里に於ける、アンドレ・ブルトンの超現実派運動の延長でも模倣でもなく、また当時、超現実派と称された画家たちの結束による超現実派の美術運動ではなかった。世間が勝手にさう思つただけの話で……。」
(速水豊『シュルレアリスム絵画と日本 イメージの受容と創造』日本放送出版協会 2009年)

「超現実主義」という活動が日本に伝わり始めた時代。シュルレアリスム黎明期に、それぞれの作家が試みとして、新しい作風に挑戦し始めたと見るのが妥当といえる。

シュルレアリスム絵画と詩

古賀春江《鳥籠》1929年 石橋財団アーティゾン美術館
古賀春江《鳥籠》1929年 石橋財団アーティゾン美術館

古賀春江の《鳥籠》は、日本のシュルレアリスム絵画を代表する作品の一つとして知られる。鳥籠の中の裸の女、湖を泳ぐ白鳥、花、階段、機械の構造物など、複数の一貫性のないモチーフがコラージュされている。画面は奥行きを持たず、焦点は消失。時空を放棄した不可解な世界だが、極めてデザイン的で、画面の調和は保たれている。美的なモチーフが取り入れられているせいか、どこか穏和なムードもある。

古賀春江は夭逝の画家だったが、いくつか著作を残している。興味深いのは、作品に解題という名の詩を寄せている点だ。古賀氏は本作に、次のような詩を寄せた。

厚い丸いガラス戸を開いて実験室に描かれた数字の記録を見給へ。
幾百万の舌を持つた電気がそこでお饒舌をしてゐるであらう。

機械は機嫌のよい時みんな歌を唄ふのです。
貝殻の歌や花や風の歌を。

光線のリズムでスリッパの少女が脚をあげる。
それは花束と機械との、とてもすばらしい結婚式を語るのです。
少女はすべて透明なるレンズで、正確に万象を映します
——その記録を私達は読めばいいのです——。

永遠の花。透明なる忘却。
何と美麗なる女王ではないか。


(古賀春江『写実と空想』中央公論美術出版 1984年)

フランスから届けられた福沢一郎による作品

シュルレアリスム絵画を本格的に日本に紹介した人物が、福沢一郎だ。東京帝国大学文学部在学中から芸術家を志した福沢一郎は、当初は彫刻作品を制作していたが、のちに絵画を描き始める。1924年から1931年にフランスに滞在しており、『シュルレアリスム宣言』が発表された当時の空気をじかに体感している。1931年、帰国直前に37点の作品を日本へ送り、シュルレアリスム絵画を発表する。

福沢一郎《他人の恋》1930年 群馬県立近代美術館
福沢一郎《他人の恋》1930年 群馬県立近代美術館

フランス滞在中に制作された《他人の恋》はコラージュが巧妙で、日本で本格的なシュルレアリスム表現が生まれた作品の一つとされている。マックス・エルンストのコラージュ小説『百頭女』に影響を受け、当時の雑誌などの挿絵を参考に取り入れるなど、意識的に公共的、あるいは通俗的なイメージを絵画に投影している点も興味深い。

その後、福沢一郎は、シュルレアリスム絵画を導く存在として、『シュールレアリズム』(1937年)や『エルンスト』(1939年)などの著作を発表し、新しい芸術運動を担う作家や思想を積極的に伝えていく。作風は、コラージュから、肉体をより立体的に増大させたような作品を多く発表し始める。

福沢一郎《人》1936年 東京国立近代美術館
福沢一郎《人》1936年 東京国立近代美術館

1930年、福沢一郎や三岸好太郎などが創立会員となり独立美術協会が結成され、シュルレアリスム絵画の制作は勢いを増していく。また、地域での前衛芸術な活発な動きを見せる。関西では、1920年代に民間が多数の美術学校を創設し、若手作家が多数シュルレアリスム絵画を志し始める。その代表的な作家の一人に、のちに具体美術協会のリーダーとなる吉原治良がいる。また、本展ではシュルレアリスム運動の中心地の一つであった名古屋や、九州、広島など各地域の動きも追うことができる。

山路商《犬とかたつむり》1937年 広島県立美術館
山路商《犬とかたつむり》1937年 広島県立美術館
杉全直《跛行》1938年 姫路市立美術館
杉全直《跛行》1938年 姫路市立美術館

1938年には、二科会の中で前衛傾向を持つ作家が集まり、九室会を発足する。発起人は吉原治良と山口長男、峰岸義一、山本敬輔、広幡憲、高橋迪章、桂ユキ子(桂ゆき)。斎藤義重や、伊藤研之(いとうけんし)なども所属していた。顧問に東郷青児と藤田嗣治を迎えている。のちに前衛芸術家として名を馳せる作家達がシュルレアリスムの潮流を受け継ぎ表現に果敢に挑んでいたことが窺える。

展示風景より
展示風景より
伊藤研之《音階》1939年 福岡市美術館
伊藤研之《音階》1939年 福岡市美術館
渡辺武《風化》1939年 板橋区立美術館
渡辺武《風化》1939年 板橋区立美術館

こちらは埼玉出身の渡辺武の作品で、22歳頃に描かれた。ミシンを前に俯き、黙々と布を縫い続ける女性。反射的に、ロートレアモン伯爵『マルドロールの歌』の象徴的な一説「解剖台の上の、ミシンと雨傘の偶然の出会いのように美しい」が脳裏に浮かぶ。市松模様の床は、陰影や空の投影により異なる位相の存在を匂わせ、背後の灯りのような時計のような奇妙な形状のオブジェは、静けさを保ちつつも下部に広がる異様な影とともにじわじわと存在感を増していく。木の扉の先に広がる空は清々しくも、晴天下の乾きに呼応するようにミシンを乗せた木製の台は反り上がり、部分的に焼け焦げている。
1945年、渡辺武は沖縄で若くして戦死している。

浅原清隆《多感な地上》1939年 東京国立近代美術館
浅原清隆《多感な地上》1939年 東京国立近代美術館

浅原清隆は、1930年代後半に前衛運動に取り組んだ画学生を代表する存在といえる。帝国美術学校に入学後、学生運動に関わりながら翌年の1935年に二科展に応募し、画壇にデビューする。映像制作も行い、マン・レイやデュラックのシュルレアリスム映画を学内で上映しようとしたが禁止され、実現しなかったという。上映を相談したり、学内の機関誌に寄稿を依頼したりするなど瀧口修造とも親交があった。
出征後、戦地ビルマで行方不明となる。

多賀谷伊徳《飛翔する前》1939年 多賀谷美術館
多賀谷伊徳《飛翔する前》1939年 多賀谷美術館

シュルレアリスム運動は池袋モンパルナスが盛んだった時期とも重なる。池袋モンパルナスとは、豊島区の要町や長崎、千早の地域を指し、1920年代から1940年代にわたり多くの芸術家たちが集中していたことから、そう呼ばれている。その間、多賀谷伊徳(たがやいとく)や靉光(あいみつ)もこの地で創作に取り組んでいる。

1941年、治安維持法が改正され、芸術・文化活動への取り締まりが厳しくなる。
戦争が本格化する中、外国から影響を受けたシュルレアリスム運動は、「反ファッショ的」、共産主義と「相通ずるものある」として弾圧され、福沢一郎と瀧口修造は、約7カ月勾留されることになる。その後のシュルレアリスム活動は困難を極めた。戦争はより本格化し、一人、また一人と才能ある作家が戦死していく。展示では、当時の想いを綴った吉井忠の日記を目にすることができる。

展示風景より
展示風景より

最後の展示室では、戦後のシュルレアリスム絵画が並ぶ。戦前にシュルレアリスムに触れていた作家たちは、戦後の混乱の中、変化する社会に向き合いながら、筆を取り始める。戦争体験が如実に現れた作品も発表している。

阿部展也《飢え》1949年 神奈川県立近代美術館
阿部展也《飢え》1949年 神奈川県立近代美術館
堀田操《断章》1953年 板橋区立美術館
堀田操《断章》1953年 板橋区立美術館

また、同じ展示室ではシュルレアリスムの写真表現が紹介されている。フォトモンタージュなどの手法は、絵画におけるコラージュとの共通点を見ることができるだろう。

(左)天野龍一《オートグラム 細胞》1938年 東京都写真美術館
(右)平井輝七《月の夢想》1938年 東京都写真美術館
(左)天野龍一《オートグラム 細胞》1938年 東京都写真美術館
(右)平井輝七《月の夢想》1938年 東京都写真美術館
(左)久野久《海のショーウィンドウ》1938年 福岡市美術館
(右)植田正治《コンポジション》1937年 東京都写真美術館
(左)久野久《海のショーウィンドウ》1938年 福岡市美術館
(右)植田正治《コンポジション》1937年 東京都写真美術館

オートマティスムの可能性

ブルトンの著作では、しばしば文学を起点にシュルレアリスムが語られる。そして、シュルレアリスムの実践にあたって鍵となったのが「オートマティスム」である。無意識を表出させるように、浮かんだ言葉を反射的に書き取る自動記述の手法だ。それはどこか神降ろしといった、神秘主義に傾倒した手法と取る人もいるかもしれない。しかし、ここでは自己とは異なる存在から神託を受け取るというより、自身の内奥に眠る無意識にこそ創造の神秘が宿り、その開花により真の芸術にたどりつけると唱えているように思う。

その点でいうと、緻密に整然と描かれた多くの日本のシュルレアリスム絵画は、いくらか即興性、スピードが乏しく、技術により意識的に構築された無意識という印象がしなくもない。しかし、このことに日本の画家たちは、むしろ自覚的であったようだ。以下は福沢一郎に関する速水氏の記述である。

「シュルレアリスム的なコラージュ手法を採用しつつも、彼は、西洋的な伝統を持たないがゆえに日本の洋画に欠けている奥行や構造といったものを、日本の画家が獲得すべきであると主張した。(中略)福沢がシュルレアリスムの中心的な技法であるオートマティスムを採らなかったのも、彼が否定する日本洋画の性格、その平面的で構造のない気韻生動風の描写のなかで、オートマティスムはそれに拮抗せず、むしろ馴染んでしまうものに見えたからではないかと思われる。」
(速水豊『シュルレアリスム絵画と日本 イメージの受容と創造』日本放送出版協会 2009年)

また、シュルレアリスム(超現実主義)について、古賀春江はこう述べている。

「純粋の境地——情熱もなく感傷もない。一切が無表情に居る真空の世界、発展もなければ重量もない、全然運動のない永遠に静寂の世界!
超現実主義は斯くの如き方向に向って行くものであると思ふ。」
(古賀春江『写実と空想』中央公論美術出版 1984年 「超現実主義私観」より)

吉井忠《二つの営力・死と生と》1938年 宮城県美術館
吉井忠《二つの営力・死と生と》1938年 宮城県美術館

福沢一郎とも親交があり、フランスに1936〜1937年に滞在した吉井忠による本作は、まさしく静止の異様さが際立つ作品だ。ブランコのようなものに乗りつつ、躍動感は皆無、重力の方角も不明瞭で、全ての物体、現象が静止している。表情は穏やかというより無に近く、どこか不穏な空気が漂う。画面の奥に見える煙、横たわる足は、戦争の影も思わせる。

絵画のオートマティスムに興味を持っていた作家としては三岸好太郎が挙げられる。本展では、オートマティスム的とは断定できないが、貝殻、ヌードというモチーフを取り入れた、作家の色を大いに感じられる作品《海と射光》を目にすることができる。

三岸好太郎《海と射光》1934年 福岡市美術館
三岸好太郎《海と射光》1934年 福岡市美術館

凝視する目。視界が一変、消失する瞬間

シュルレアリスム絵画は非合理なコラージュなどで対象物から意味を奪い、実用を消し去る一方、現実には存在しえない奇妙な生き物を生み出し、しばしば鑑賞者を不可思議な世界へと連れていく。ミシン、貝殻、蝶、といったシュルレアリスム絵画で度々見られるモチーフ。その代表的なものに「目」がある。得体のわからない不可解な物体に目が備わるだけで、観る者をざわっとさせ、数秒前まで安全だった場所がたちまち危険な世界へ様変わりする。

靉光《眼のある風景》1938年 東京国立近代美術館
靉光《眼のある風景》1938年 東京国立近代美術館

こちらも日本のシュルレアリスム絵画を代表する一作、靉光(あいみつ)の《眼のある風景》である。本作のビジュアルを初めて観た際に彷彿としたのはオディロン・ルドンが描いた片目の巨人《キュクロープス》だった。しかし実際に目の当たりにすると、靉光の作品は艶めかしくグロテスクで、どこか病的な空気感を醸しており、無比の魅力を覚えた。ルドンで比較を続けるなら、《キュクロープス》より以前に描かれた、『悪の華』(ボードレール)の挿絵作品に通ずる鬱々とした世界観の方が近しい。ルドンは見えない世界を表出させようとした象徴主義に属する作家で、現地フランスのシュルレアリストにも大きな影響を与えた。本作への影響は定かではないが、目という存在に着目し、視覚的には実在しない存在をあぶりだそうとする靉光の強い気概を感じさせられる。
なお、友人・森鵄光によると、靉光は捨てられた木の根に対し「ここに目を入れたら絵にならないか」と話していたという。

本展を見渡すと、目をモチーフに据えた作品が随所に展示されていることがわかる。淡々とこちらを凝視する謎めいた存在と視線を結ぶのは、なかなか得がたい体験だ。

坂田稔《眼球が逃げる》1938年 個人(名古屋市美術館寄託)
坂田稔《眼球が逃げる》1938年 個人(名古屋市美術館寄託)
小山田二郎《手》1950年代後期 府中市美術館
小山田二郎《手》1950年代後期 府中市美術館
手のひらには穴があり、目のようにも見える
手のひらには穴があり、目のようにも見える

目は、見るもの。見られるもの。全身皮膚で覆われた体の中で、唯一むき出しの臓器。他とは異なる特別な感覚を有しているのかもしれない。ルイス・ブニュエルとサルバドール・ダリが共作した映画『アンダルシアの犬』は、目が髭剃りで真っ二つに裂かれるシーンから始まる。視界が失われた時、人は何が見えるのか。

板橋区立美術館を後にし、西高島平駅へ向かう途中、視界に入った街路樹を眺めていると、ふとその丸い節が「目」に見えた。瞬間、立ち並ぶ木々がいくつもの目を持ち、こちらを眼差してくるような感覚にとらわれた。目を宿す、それは事物の命をありありと浮かび上がらせる行為といえるのかもしれない。

新たな日本のシュルレアリスムの可能性

シュルレアリスムというと、あまりに西洋の動向が大きく、それだけで難解でつかみようのない中、日本の展開まで理解が及ばない、ということが多いように思われる。しかも、この芸術運動は、詩や文学、美術、映画と芸術全般に波及しており、ことに日本においては体系的なアーカイブを拒むように空中分解し続けている印象を受ける。そこにシュルレアリスムのダイナミズムを見て取ることもできるが、道筋や共通項があるのなら、美術史をより豊かに再解釈し、継承していく価値はあるだろう。

戦後、シュルレアリスム絵画は徐々に影を潜めてしまったように見えるが、あらためてシュルレアリスム宣言の内容に触れると、人々に根源的な問いかけをし続けているように思われる。シュルレアリスムは時代が生んだ運動であったが、日本では時代によって実践しきれなかった試みもあった。代表的な例は、オートマティスムだろう。今一度オートマティスムを表現に取り入れ、豊かな即興性と無意識が表出する世界を見てみたい。シュルレアリスムが誕生して100年、現代作家が先人達の表現に出会い直し、自身の創造の源泉に触れ、より自由に表現していく未来を想像すると、胸が高鳴る。本展に足を運び、日本画壇の100年前とこれからの姿に思いを馳せてみてはいかがだろうか。

美術館・展覧会情報サイト アートアジェンダ 美術館情報
板橋区立美術館|ITABASHI ART MUSEUM
175-0092 東京都板橋区赤塚5-34-27
開館時間:9:30〜17:00(最終入館時間 16:30)
休館日:月曜日(ただし月曜が祝日のときは翌日)、年末年始、展示替え期間中

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