横尾忠則が描き連ねるイメージの生生流転
「横尾忠則 連画の河」が、世田谷美術館にて2025年6月22日(日) まで開催

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日本を代表する現代美術家・横尾忠則(1936-)の最新作を展観する展覧会「横尾忠則 連画の河」が、世田谷美術館で開幕した。
「連歌」ならぬ「連画」と題された本展では、2023年から制作された新作64点が展示されている。和歌の上の句と下の句を複数人で分担して詠みあうのが連歌だが、横尾は自身が描いた絵からさらにイメージを膨らませ、変容させ、描き連ねる。そうして生まれた「連画」は、画家の日記のようでもあり、壮大な叙事詩のようでもある不思議な世界だ。150号(約182×227㎝)の大画面の作品を中心とする油彩画のほか、スケッチなどの関連資料を加えて、88歳になる横尾忠則の“今”に対峙する。
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- 「横尾忠則 連画の河」
開催美術館:世田谷美術館
開催期間:2025年4月26日(土)〜6月22日(日)
横尾忠則(1936年-)
兵庫県生まれ。グラフィックデザイナーとしてキャリアを開始し、唐十郎や寺山修司らの舞台芸術のポスターなどで注目を集めた後、1980年に画家に転向。1960年代から70年代にかけて前衛的な作品で国際的評価を得る。代表作に「Y字路」シリーズ。以後も多彩な表現活動を展開し、日本の現代美術を代表する。2012年に横尾からの寄贈・寄託作品を保管・展示する横尾忠則現代美術館(兵庫県)が開館。2013年に瀬戸内国際芸術祭の一環として豊島横尾館(香川県・豊島)が開館。2023年に日本芸術院会員、文化功労者に選出。
最初の1滴は1枚の記念写真

展示の企画を担当した塚田美紀学芸員によると、本展は2023年に東京国立博物館で開催された「横尾忠則 寒山百得展」で、100点もの連作を描くという大プロジェクトをなし終えた後、画家が“今”何を描くのかを見守る、というスタンスで始まったそうだ。あらかじめ決めたコンセプトに沿って制作するのではなく、その時その時感じたことを描く、その流れに(画家自身でさえも)身を任せていく。そんなワクワクするようなハラハラするような、スリリングなスタンスで企画されたという。


写真右の後ろで1人離れて写るのが横尾。《記憶の鎮魂歌》では亀の姿に置き換わっている。
展覧会は、横尾が90年代に発表した油彩画《記憶の鎮魂歌》から始まる。「連画」シリーズの起点は、実は自身の過去の作品だ。《記憶の鎮魂歌》も元々1970年に篠山紀信が撮影した集合写真(その中に画家自身も写る)を絵画化した作品である。

連画シリーズの第1作となる《連画の河1》は、元となった写真と構図は同じながら、色彩の暗さや筆の重ね具合をみると、「果たしてこれからどのように描こうか」という画家の迷いも感じられるようだ。70年代の写真、90年代に制作した絵画、そして2023年に《連画の河》へと、時を越えてイメージがつながる。
そして、連画の河を下り始めた
複数の人間が集まる“記念写真”のイメージは、やがて筏に乗って川下りをする群衆へと変化する。

その筏の進む先に向っていくと、唐突に世界が変わる。きっかけは《農夫になる》という作品だ。当時、画家のアトリエを訪れた関係者が本作を目にして「メキシコでこんな光景に出会ったことがある」と言ったことがきっかけだったという。

そこから、作品は途端に日差しを強く浴びた中南米の陽気さをまとう。

「群衆」というイメージは、「メキシカン」という新たな“お題”を得たことで、加速度的に自由度が増していく。絵のタッチも、ゴッホの《星月夜》や糸杉を描いた作品を彷彿とさせる、うねるような筆触のものもあれば、フォービスムのような強烈な色彩が眼に飛び込んでくるものもあり、画面から画家のエネルギーが放出されているようにさえ感じる。

また本展では、油彩画のほかに画家のイマジネーションの源と言える、スケッチブックも数冊展示されている。ペンで描かれた下絵やスクラップの貼りこみなどから、古今東西あらゆるイメージを自身の内に取り入れ、組み合わせ、構築し、新しいイメージを作り上げようとする画家の姿を垣間見ることができる。
イメージを溜める、流す、壺

さらに、ゴーギャンが描いたタヒチの女たちのイメージとつながる。そして、2024年、緑の背景に裸の女性たちと着衣の男性が描かれた作品では、突如として大きな壺(とその中にいる座す人物)が登場する。タイトルはまさに《大壺登場》。ここからしばらく、壺とこちらに背を向ける人物のイメージが、様々な形で展開していく。気づけば、今回の「連画」シリーズでは、どこかに水のイメージが含まれている。

右:《The End of Life Is
興味深いのは、《○△□》に代表されるように、壺のイメージと共に円、三角、四角の図形が見られるようになる点だ。○△□は、禅宗(特に臨済宗)において、世界や人間の真理、心のあり方を象徴する表現だ。そうした観念的なイメージとも結びついた壺、そこに溜められた、あるいは流れ出る水は、人間の思想、人生を象徴するのだろうか。これまでの「連画」シリーズの中でも特に象徴性が強くなっており、見る人の文化的背景(国籍、人種、宗教、歴史、知識など)で、様々に解釈できるだろう。

学芸員の塚田氏によると、画家のお気に入りの1点だという。「人生の終わりくらいは道徳的であれ」という思いが込められたタイトルも示唆に富む。
イメージは再び集合写真へ

細長い河を蛇行するように巡って来た展示は、最後に大海原に出るように、あるいは滝壺に水が溜まるイメージだろうか、広い扇形の展示ルームに行きつく。ここに展示されている《ボッスの壺》には、まるで伏線回収と言わんばかりに、「連画」シリーズの1作目に見た記念写真のイメージが再び登場する。

もちろん、同じ“記念写真”と言えども、最初の頃とは大きく異なる。中央には、壺に逆さに入り両足だけが飛び出た図像(ヒエロニムス・ボッスの《快楽の園》に登場するモティーフに由来する)が鎮座し、その周囲を複数の人物が取り囲む。塚田氏はこの壺から足だけを出した図像を、横尾の代表作でもある「Y字路」シリーズにも通じると語る。この作品の前に立つと、それまでの「連画」の河を渡ってきた長いような、あっという間のような旅が、走馬灯のように駆け巡る。
同館の展覧会はこの扇形の展示室から始まることが多いが、今回あえてこの部屋を最後に設計した意図が感じられる。長い河に沿って旅してきた1つの終着点として、この場所でしばし佇み、改めてこの「連画の河」の旅路に思いを巡らす。横尾は「64点全点で1点」の作品だが、それと同時に「64点で完結しているわけでもない」という。あくまでも“今”描こうと思ったものを描く―その連続が今回の64点であり、それはまだ過程にすぎない。この扇形の展示室を大海原や滝壺にたとえたが、ここからさらに河は続いていくのか、続いていくならばどこに向かうのか。その続きに思いを馳せる。
下手になった、でも自由になった

本展のプレス内覧会では横尾忠則が報道陣の前に登場した。「展示がいつもと違う動線で、構成が良く、鮮度が高かった」と、展示の率直な感想を述べる。作品について聞かれると、「年齢と共にだんだん絵が下手になった。ただし、下手になると“自由でいいんだという気持ちが湧き起こる。線が震えていたり、背景を一様に塗りたいけどできない。でもそれを見た人が面白がってくれる」と、現在の制作についての実感を語った。

「3~4歳の頃から絵を描いてるから、(絵を描くことに)飽きている」と言いつつも、88歳となった現在でも、その創作の泉は枯渇していない。絵から絵へ、湧き起こるイメージを心の赴くままに、時に淀みながらも、その淀みもうねりも筆に乗せて描き続ける。横尾忠則の生生流転する「連画」の河に何があるのか、ぜひ足を運んで確かめてほしい。
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- 世田谷美術館|Setagaya Art Museum
157-0075 東京都世田谷区砧公園1-2
開館時間:10:00〜18:00
会期中休館日:月曜日、5月7日(水)※ただし、5月5日(月・祝)は開館
※作品の作者は全て横尾忠則
※横尾忠則の言葉は、図録『横尾忠則 連画の河』(図書刊行会)、ならびに内覧会時のトークセッションから引用