生活の中に、神経のゆきとどいた美を
「111年目の中原淳一展」
「111年目の中原淳一展」が、そごう美術館にて2024年1月10日(水)まで開催
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上京したての頃、ふいに書店で手にした中原淳一のエッセイ画集『しあわせの花束』(平凡社 2000)。どの少女を見ても美しく、細部まで丁寧に描かれ、見つめているだけでうっとりと幸せな心地がした。かわいい、のだけれど、ハツラツといったふうでなく、可憐で、おくゆかしい少女。砕けたところのない、けれど柔らかな、内面に豊かな世界を携えた少女。口元には優しい微笑み。2000年代初頭、平面的なイラストの溢れる中、対象を奥深く見入ってしまったことを覚えている。その本には、絵と同様に美しい言葉が丁寧にレイアウトされていた。言葉は自身の体にスッと入り、この方の哲学に学びたい、と迷わずその本を連れて帰ることにしたのだった。まさに「花」と呼ぶにふさわしい存在で、少女を過ぎた私は今も、お守りのように書棚にその本を置いている。
きっと、中原淳一との出会いをこんなふうに思い出せるという方は、大勢いるのではないか。何か自分の中の、いたいけなものを愛でる感覚を呼び覚ますように。
そごう美術館で、2023年11月18日(土)から2024年1月10日(水) まで開催されている「111年目の中原淳一展」。編集者、画家、ファッションデザイナー、インテリアデザイナーと、多方面で活躍した中原淳一の生誕111年を記念した展覧会で、その才能を通観することができる。雑誌に描かれた表紙、挿絵、付録、自らデザインした洋服、人形など約600点にのぼる作品が集まり、回顧展と呼べる贅沢な内容になっている。展示を観ている間自然と笑顔になり、時に歓喜のため息がこぼれた。長年の愛好家はもちろん、現代の少女にも足を運んでもらいたい展覧会だ。
- 美術館・展覧会情報サイト アートアジェンダ 展覧会情報
- 111年目の中原淳一展
開催美術館:そごう美術館
開催期間:2023年11月18日(土)〜2024年1月10日(水)
新しい少女像の衝撃『少女の友』 マルチクリエイターの才は既に健在
1937年24歳の頃、中原淳一は編集者にその才を見出され、雑誌『少女の友』の専属画家として挿絵や表紙画を描くようになる。当初の中原淳一の絵は、過度なほどに少女の黒目が大きく、憂いを帯びた表情をしている。中原淳一が私淑した竹久夢二の面影を思わせる抒情的な画風が印象的だ。洗練された洋装、スラリと細長い手足は今までにないもので、当時の少女たちに衝撃を与え、たちまち憧れの的となった。戦後に発表される作品とは少し異なる趣だが、その絵に隙はなく、拙さや筆の乱れのようなものは一切見られない。ポージングも絶妙で、すでに完成形の風格が漂う。
また、着目すべきは充実した付録の数々。スタイルブック、しおり、かるた、カードゲーム、カレンダー。どの小物も、絵と色、形が見事に調和しており、絵が描かれ、付録として生産されるまで、全てに作家の息がかかっていたことが窺える。中原淳一は当時の子供騙しのような付録を嫌い、自ら付録の中身を提案したという。のちの展示でも一様に感じられることだが、中原淳一はビジュアル感覚はもとより、美を実用に織り込む天才だった。
戦争と少女。慰問絵はがきに描かれた当時の生活
日中戦争の最中だった当時、戦地にいる人間を癒し、士気を高める「慰問袋」が現地に届けられた。女性や子供たちにより手紙や日用品が送られていたという。その需要に応えるものとして、中原淳一もいくつかの慰問絵はがきを制作している。戦時下の中原淳一の画業を垣間見る貴重な作品だ。
中でも印象深いのは防空服を着た少女の絵で、その絵のチグハグさは少し言葉に詰まってしまう。「防空服にも、活動着にもなる上着です」。色はシックな茶と黒で、フォルムは他の中原淳一スタイルのようにメリハリがあり、キュッとウエストが締まっている。おしゃれではあるが、そのいでたちは、花のように鮮やかなワンピースやスカートに身を包んだ少女という中原淳一の世界とはかけ離れており、どこか着せ替え人形のようにも映る。違和感は、ほのかに文化の制圧を感じ取ったからかもしれない。中原淳一がどのような思いでこの絵を描いたのか、想像にかられた。やがて、西洋風の服装や、「華美で不健康」という理由で、1940年6月号をもって中原淳一は『少女の友』を去ることになる。
戦後に咲いた大輪の花『それいゆ』『ひまわり』 美と編集の才が遺憾無く発揮された芸術品
太平洋戦争が終了した翌年の1946年、中原淳一が責任編集を担った伝説の雑誌『それいゆ』(創刊号は『ソレイユ』)が誕生する。『それいゆ』(soleil)とはフランス語で「太陽」の意。創刊号の表紙は、生命力あふれる鮮烈な赤だ。『それいゆ』には、「ほんとうの意味で美しい暮らしを知る本をつくりたい」という思いから、ファッションやヘアスタイルの提案、美容、衣食住を整える工夫、文学、映画、音楽など外見も内面も豊かにする情報が掲載された。重視されたのは、知性と審美眼だ。中原淳一はこう述べている。
「こんな時代を乗り切って美しく楽しくというのは、結局知性を高め、工夫する精神と美しさをキャッチする目を肥やすことであろう。」(『それいゆ』第7号1948年)
そして、翌年の1947年には少女に向けた雑誌『ひまわり』を創刊する。子どもでも大人でもない10代の少女を対象に、『それいゆ』と同様、ファッションスタイルや着こなし、ヘアスタイル、小物選び、川端康成など著名な作家による少女文学などが掲載。自分らしさを大切にしながら美的感覚を身に付け、教養を高めるコンテンツが重視された。『ひまわり』廃刊後は、『ジュニアそれいゆ』がその使命を受け継ぎ、少女たちを導き続けた。
いずれの雑誌においても中原淳一が一貫して伝えているのは、美は生活と結びついているということ。コンテンツの中には毎日の暮らしに役立つ具体的なアドバイスが充実しており、読者に実践を促していたことが伝わってくる。美しいファッションや豊かな文化に触れながら、生活の中で工夫をすることで、いつしか自ら美を育むことができるようになる。それは、芸能人や、インフルエンサーを追いかけるのではなく、自分の生活を見つめ直すことが美しく生きる道であることを伝えるようだ。検索すれば答えが見つかり、工夫よりも再現性が重視される現代に、深いメッセージを訴えかけてくる。
美の伝道師・中原淳一の具体的なアドバイス
「美しさ」の定義は長く語られてきたテーマで、決められた解があるわけではない。ただ、中原淳一の仕事を通観する中で一つ言えるのは、全体と細部を見る目が大切ということ。
人は目立つものに目がいく。顔は気にするけれど髪や指先は手抜き。服はきれいだけれど、部屋は汚い。中原淳一はこうした見落としがちな点を指摘し、美を生活や内面に接続させ、体現する方法を唱え続けた。それは全てといっていいほど具体的だ。例えば、どのような部屋で友人を迎えると良いか、机の引き出しや、押し入れの整理の仕方、スリッパの選び方。その全てに美を探求し、読者に提案した。
もちろん、ファッションアドバイスも充実しており、現在では一つのセオリーとなったことも早々に指摘している。
「模様のあるスカートには絶対に無地のブラウスにしなければなりません。スカートに大輪の花の模様があるのに、ブラウスの方にもまた別の模様があると言うのでは絶対におかしいし、〜また、ブラウスの色は白ならなんにでもあって無難。でなければスカートの模様の中のある一色を選びましょう」(『あなたがもっと美しくなるために 新装版』国書刊行会1987年)
「重ね着が増える冬は、すっきりときれいなラインに気をつけたい。ウエストの位置のしぼり方、ヒップラインに、スカートのふくらみなど、〜ワンピースにしても胸を大きくあけて、その中から毛糸のハイネックをのぞかせたりするのです。スッキリとしていて、それでいて温かそうでいかにもジュニアらしくていいものです。〜寒い冬にはよくそんなふうに毛糸のものと重ね着をするのですが、ただ重ね着をするだけではブクブクと肥って見えてしまいます。」(『別冊太陽 中原淳一ジュニアそれいゆ』平凡社2018年)
中原淳一の美へのアドバイスは具体的で、時に手厳しい。美にポイントがあることを心得て実践することで、誰でも叶えられると確信していたから。それは、天才だけでなく、努力で天才を凌ぐことができるという考えに根ざしている。
「どんなにお金がかけられなくても、上手に美しい効果を見せられるひとは、やはり天才かもしれません。しかし、天才が努力しないよりも、むしろ天才でないひとが、どうしたらほんとうに美しくなれるかを研究する方が、却って天才を凌ぐことも多いのです。」(『あなたがもっと美しくなるために 新装版』国書刊行会1987年)
当然、一般的なファッションのセオリーを超越する美も存在するだろう。それはアートの領域ともいえるが、日々の中で体得することでセオリーを超え、自ら表現する領域に至る。そうした信念のもと、美の伝道師・中原淳一は根気強く読者に「美しく生きる」ことを伝え続けたのだろう。
最後の婦人雑誌『女の部屋』が描こうとした世界
1970年、最後に発刊された女性向けの雑誌「女の部屋」。展示作品の中で特に印象に残ったのはその表紙となった油彩画だ。本展では2点の油彩が展示されているが、そのうちの1点が本作。水彩や素描が中心の展示の中で、濃厚なタッチで描かれた油彩は、辺りの中で異彩を放って見えた。『女の部屋』は、中原淳一が病に倒れ、残念ながら一年で廃刊になってしまう。想像するに、中原淳一はきっと『ひまわり』や『ジュニアそれいゆ』を読んで育った少女が成長し、女性となった先の道標を示したかったのではないか。その続きがきっとあったはずだと、色香漂う気配から、成熟した女性の美を咲かそうとする強い信念が感じられた。
洋服、浴衣、人形― マルチクリエイターの作品が一堂に
本展ではファッションデザイナーとしても活躍した中原淳一のデザインから起こされた洋服が豊富に展示されている。どれも色使い、デザイン、小物まで絶妙にトータルコーディネートされていて見入ってしまう。手の込んだ仕立てで、オートクチュールのような仕上がりだ。
美しく生きる上で中原淳一は「工夫」を大切にした。この工夫を象徴する手仕事に「リメイク」と「アップリケ」が挙げられる。傷んだ服を着続けることが多かった戦後の時代に、衣類の傷跡を隠すようにつぎはぎするのでなく、いっそリメイクして、新しいファッションを楽しもうという創造的な提案をしたのだ。そこに自分らしさが生まれてくる。中原淳一のスタイル画をもとに作られた、リメイクのお洋服が展示されている。とても状態が良く、陽気なお洋服ばかりで見ているだけで心が豊かになる。
中原淳一の世界に通底する魅力は、その微細な手仕事にあるといえる。初めてその絵を目にした頃から、量産的なものとは一線を画した、手仕事を大切にした世界を感じていた。こうした創作スタイルの原点には、人形制作がある。中原淳一は人形制作についてこう語っている。
「像(かたち)をつくってその像の中に感情を入れてゆくことのできる点で、一番、芸術的な手芸」(『新女苑』1937年4月号)
展覧会の最後に、中原淳一の人形作品が飾られている。19歳の頃に制作したフランス人形は話題を浴び、松屋銀座で展示されたという。中原淳一の絵が、いずれも平面的でなく、奥行きを感じさせるのはこうした手仕事の繰り返しによるものかもしれない。また、付録作りや洋裁など、微細な素材を扱う才が、こうした人形制作という原点に基づいていることに納得させられた。
「美しく生きる」 毎日花を慈しむほどの、心にゆとりを
本展では、随所に中原淳一の言葉が展示されている。その中でもっとも心に響いたのがこの言葉だ。
「ゼイタクな美しさでなく、神経のゆきとどいた美しさ。理知の眼が自分をよく見ている美しさ。そんな美しさを生み出していただきたいのです」(『ひまわり』第3巻第4号1949年)
中原淳一の妻・葦原邦子は、結婚当初に中原淳一が次のように話したと語っている。
「僕たちの生活に何が起こっても、花ぐらいはいつも部屋にある暮らしでありたい。たとえ小さな野の花でも庭の片隅に咲く花でも、そんな心のゆとりが欲しい。」(『別冊太陽 美しく生きる』平凡社1999年)
忙しなく生きる人たちに「心にゆとりを持ちなさい」と伝える中で、売れっ子の中原淳一は多忙を極めた。家族との時間も限られていたようだ。その彼が、これだけの情熱を持ち、全仕事に神経をゆきわたらせ、読者の生活を豊かにするため心血を注いだというのは奇跡的に思える。
初めて手にした中原淳一の本に「花を長持ちさせる工夫」というコラムがあり、今も心に残っている。
「花がシオれて、首をかしげてしまったら、普通ならもうそれでおしまいですが、そこで花をすててしまわないで花だけちぎって、美しいガラスの器かお皿のようなものに水を入れて、その花を睡蓮のように浮かせてごらんなさい。とても素敵です。これでまた二、三日は大丈夫です」(『しあわせの花束』平凡社 2000年)
常に物事に神経をゆきとどかせることは容易ではない。けれど、生活に感謝できれば、毎日を大切に生きられるようになり、そこに工夫、創造が生まれていくかもしれない。生誕111年目の今、中原淳一の哲学に触れ、現代が失ったもの、置き去りにしてきたものに新しい形で出会い直す機会が生まれている。