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リアリズムに潜むリアル
上田薫の芸術の美しさと面白さ

茨城県近代美術館「上田薫とリアルな絵画」展覧会レポート

展覧会レポート

上田薫「玉子にスプーン B」1987年、茨城県近代美術館蔵
上田薫「玉子にスプーン B」1987年、茨城県近代美術館蔵

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構成・文 小林春日

日本におけるスーパーリアリズムの第一人者として知られる画家 上田薫(1928~)の展覧会が、茨城県近代美術館で開催されている。その作品は中学校「美術」の教科書の表紙にも採用されており、目にしたことがある人も多いのではないだろうか。

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「上田薫とリアルな絵画」
開催美術館:茨城県近代美術館
開催期間:2021年10月26日(火)〜2021年12月12日(日)

半熟の黄身をスプーンですくおうとしている作品《玉子にスプーンB》(メイン画像)のサイズは、横227cm×縦181cmである。描かれているのは、実際の卵の何十倍もの大きさだが、とろんとした黄身をのせたスプーンを鑑賞者の口にそのまま運べそうなほど、迫真性がある。

そして何より驚くのは、スプーンに映し出された世界である。スプーンに映り込んだ景色は、匙の曲面のゆがみのため明白ではないが、窓越しの空や木々の緑が映り込んでいる。人物らしき存在や書棚など、生活空間を思わせる室内の様子が感じ取られる。それは、実際にその作品をキャンバスに留めようとした本人がその空間に存在したことも含めたリアリズムである。

卵の茹で加減には、個々に好みが分かれることとは思うが、この作品に描かれている絶妙な半熟具合や、黄身の色味の濃さはこれ以上無いくらいに完璧な美しい仕上がりだ。スプーンに映り込んだ窓外の木々の緑ともマッチしていて、切り取られた構図全体に面白みが溢れている。

作品の「KAORU UEDA」という署名は、凹凸の文字が浮かび上がるように打ち込んだテープラベルが貼り付けられたかのように描き込まれている。

上田薫 「なま玉子 B」 1976年、東京都現代美術館蔵
上田薫 「なま玉子 B」 1976年、東京都現代美術館蔵

こちらの作品は、生卵を割った瞬間の絵である。割れた卵の殻から、黄身と白身が落下する一瞬が真っ黒な背景に浮かび上がる。こちらの卵の黄身には、陽の光をいっぱいに取り込んだ大きな窓が球面に沿って映り込んでいる。白身の部分にも、人物らしき肌色のほか、室内空間にある何らかの物の映り込みによって、その質感や透明感を表現している。

卵を割る瞬間は、高速シャッターにより何枚も撮影された写真の中から選び抜かれている。実際にこのような光景を視覚的に捉えることはできないし、ましてや卵に映り込んだ窓の光景を認識することも不可能である。 それゆえ、そういった瞬間をクローズアップして、キャンバスに留めた上田薫の芸術作品に、ある種の快感を覚える。

生卵を割り、黄身と白身が落下するという瞬間は、日常的に繰り返されていて、間違いなくこの世界に存在するはずの光景だが、視覚的に捉えることが困難で、知覚し得ない。見えないけれども確かに存在する一瞬を捉えて、キャンバスに留めた行為自体が芸術的である。

黄身の全体が白身にくるまれたまま縦に伸びた状態や、ゾル状といわれるたんぱく質でできた白身のつややかさが現れた一瞬を視覚的に提示し、さらに窓に差し込む日中の陽光や生活感までも、生卵の白身と黄身の部分だけに映し出すというのは離れ技である。ごく日常の光景の一部でありながら、認識できない一瞬の光景を美しく作品に留めた技に、快感を覚えるのである。

上田薫 「ジェリーにナイフ C」 1989年、日立市郷土博物館蔵
上田薫 「ジェリーにナイフ C」 1989年、日立市郷土博物館蔵

こちらは《ジェリーにナイフ C》という作品だ。まるでゼリーにナイフを入れているのは鑑賞者自身であるかのような、ナイフのまばゆい光沢、ぷるんぷるんとしたゼリーの感触、透き通ったピンク色の美しい透明感のリアルに、これまた快感を覚える。普通のゼリー自体は手のひらに収まる小ささながら、その質感を保ったままキャンバスいっぱいに拡大されて、好きなだけ食べても減らなさそうな満足感や安心感さえ感じる。虚構の世界なのに、まるで目の前のおやつにときめく子供時代のような喜びまで呼び覚まされて、思いもよらぬさまざまな感覚の去来が楽しい。

上田薫「サラダ E」2014年、個人蔵
上田薫「サラダ E」2014年、個人蔵

こちらの作品《サラダ E》は、気持ちがいいほど色鮮やかで、みずみずしい新鮮さに満ちている。緑の葉のシャキシャキした触感や赤色や濃紺のベリー系のフルーツやライムの甘さや酸味など、視覚世界だけで五感まで刺激される。カメラを構えた画家本人だと思われる姿がスプーンに映り込んでいる。スプーンの映り込みは、明確でなくても生活空間を思わせる効果を発揮していて、鑑賞者を作品の空間に引き寄せている。

上田薫氏 1993年 ギャラリー・アルファ(水戸)にて
上田薫氏 1993年 ギャラリー・アルファ(水戸)にて

現在、鎌倉在住の上田薫は、1985~93年の8年間は茨城大学教授を務めており、その間は茨城を拠点に制作をしていた、茨城県ゆかりの画家でもある。

1970年代に発表した「なま玉子」シリーズをはじめ、スプーンですくいとられたアイスクリームや、シャボン玉、水の流れといった、身近なものの一瞬の姿をとらえてリアルに表現する作品によって、高く評価されてきた。

上田薫「アイスクリーム A」1973年、個人蔵
上田薫「アイスクリーム A」1973年、個人蔵
上田薫「シャボン玉 F」1979年、所管:水戸芸術館
上田薫「シャボン玉 F」1979年、所管:水戸芸術館

茨城で活動した時期の上田は、北茨城に取材し川の水流を描いた「流れ」シリーズで、初めて屋外にモチーフを求めるなど、制作上の転機も迎えた。その後、上田は「Sky」シリーズで、空の光景というこれまでにない壮大なスケールの対象を描くことに挑戦している。そして、近年は一転して再び身近なモチーフに目を向け、野菜や果物が目にも鮮やかな「サラダ」シリーズをはじめ意欲作を発表している。

上田薫「流れ」シリーズ(会場風景より)
上田薫「流れ」シリーズ(会場風景より)

本展図録には、幼少期にはじめて茨城の地を、祖母とともに訪れたときのエピソードが紹介されている。観梅の名所である偕楽園がある水戸と、水戸から車で約30分ほど太平洋岸まで向かった海沿いにある「大洗(おおあらい)」という町を訪れた際のエピソードは、上田薫の人柄をうかがわせる内容で、一部抜粋で紹介したい。

「祖母のお伴をいいつかって借楽園の梅を見に行った時である。残念ながら水戸も偕楽園も、梅の花も記憶にない。覚えているのは、観梅を終えて大洗へ行ったことである。その日は、あいにくの天気で、朝から寒々とした曇り日。大洗に着いた時には雨となり、北風を伴って、海辺に立つ僕の頬に打ち付ける。目の前には灰色の海が荒れ狂ったように波立つばかり。僕は、鼻水を啜りながら寒さに震えた。

実は、その時まで大洗に行くことを僕は大変楽しみにしていたのである。それというのは、前日の晩、祖母達が観梅の旅の計画を話し合っている中に、盛んに大洗という言葉が出てくる。傍で聞いていた僕には、どういう訳かそれが「オオワライ」と聞えたのである。僕は、てっきり、そこへ行くと、すごく面白いことでもあって、皆が大笑いしているのだろうと想像した。そんなわけで僕は、水戸や、借楽園や、梅はどうでもよい、早くオオワライへ行ってみたいと思っていた。そこで起こるであろう、大笑いするような出来事を期待していたのである。

しかし、浜辺に立つ僕を迎えたものは先のような状況であった。祖母もすっかり機嫌を損じ、あじの干物を土産に買って、僕の手を取り、早々に引き上げたのである。それから半世紀近くの時が流れ、僕は大洗の隣り村、常澄に住むようになった。」
出典:『六号館』第8号・上田薫先生御退官記念特集号(発行人:茨城大学美術科同窓会)のための書き下ろしより 「茨城と僕」上田薫

観梅よりも、とにかく皆が大笑いしている、すごく面白いことが待っているところへ一刻も早く行きたいと願うエピソードは子ども時代の話とは言え、生来明るい気質なのだろうかと感じさせる。

上田薫の作品には、はつらつとした感じや、明るさ、新鮮さ、鮮明さといったものが感じられる。また、描かれたモチーフは、切り取った一瞬に選び抜かれた美しさがあり、切り取った構図には上田のセンスが光り、面白みにあふれている。

リアリズムの絵画に異なる次元のリアルが潜んでいたり、視覚世界だけで五感が刺激されたりと、上田薫の芸術世界の奥深さを存分に堪能できる機会である。

会場風景。3点とも伊庭靖子、右から「Untitled」(1999年)、「Untitled」(2009年)、「Untitled」(2009年)、いずれも神奈川県立近代美術館蔵
会場風景。3点とも伊庭靖子、右から「Untitled」(1999年)、「Untitled」(2009年)、「Untitled」(2009年)、いずれも神奈川県立近代美術館蔵

また、本展は、上田の仕事を代表的なシリーズによって振り返るとともに、現代の作家によるリアルな絵画表現をあわせて紹介している。「リアル」をめぐる豊かな絵画表現の世界を、現代のアートシーンで隆盛する様々な作家たちのリアルな表現とともに楽しみたい。

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茨城県近代美術館|The Museum of Modern Art, Ibaraki
310-0851 茨城県水戸市千波町東久保666-1
開館時間:09:30〜17:00(最終入館時間 16:30)
定休日:月曜日(月曜日が祝日の場合は、翌日休館 ※水戸の梅祭り期間中とゴールデンウィークは無休、年末年始(12月29日~1月1日)、臨時休館日(展示替え等の館内作業等のため))

参考文献:「上田薫とリアルな絵画」公式図録 発行:茨城県近代美術館

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