人々の心に寄り添ってきた民間仏
素朴な姿から感じる祈り
秋季特別展「みちのく いとしい仏たち」が、龍谷ミュージアムにて11月19日(日)まで開催中
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仏像と言えば荘厳で、少し近寄りがたい印象を持つ人も多いだろう。そんな印象を覆すような、ユルくも魅力にあふれた仏像を一堂に集めた特別展が開催中だ。京都市下京区の龍谷ミュージアム「みちのく いとしい仏たち」は、ユーモラスで愛らしく、見るほどに心を掴まれてしまう仏たちばかりだ。
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- 秋季特別展「みちのく いとしい仏たち」
開催美術館:龍谷大学 龍谷ミュージアム
開催期間:2023年9月16日(土)~11月19日(日)
平安時代から伝わる「民間仏」のルーツ
青森、岩手、秋田の厳しい風土の中、守り伝えられてきた仏像や神像。その魅力に惹かれて、長年調査研究を続けてこられた弘前大学の須藤弘敏名誉教授が、本展を監修している。
「在地の大工や僧侶など、いわゆる仏師ではない素人の手によって作られた仏像を、民間仏と呼びます。130点もの展示は初めての試みです」と、龍谷ミュージアム・村松加奈子学芸員は解説する。
岩手県二戸市の天台寺に伝わる「如来立像」は桂の木を使用し、ノミ跡をあえて残した「鉈彫(なたぼり)」風に彫り上げているのが特徴だ。この地域では、古くから天台寺の桂の木の根元から湧き出る清水を、霊水として信仰してきた歴史がある。「仏師が木割れを防ぐために行う、内部をくり抜く作業をしていません。桂の木を霊木として考えていたからではと思われます」と、村松学芸員。はるか11世紀の平安時代に作られた仏像は、衣装も華美ではなく素朴な佇まい。祈りの気持ちから、こうして自然に民間仏は誕生したのだろう。
自然や風土と結びついた仏像
大きな頭部にアンバランスな小さな身体。この愛らしい仏像は山神で、地元の奥羽山脈最奥部の、林業に関わる人たちに今もあつく信仰されているそうだ。この山神像が祀られている岩手県八幡平市に流れる兄川の風景写真をバックにした展示で、地域とのつながりを感じさせる。
江戸時代に作られた馬の守護神・蒼前神(そうぜんしん)の騎馬像は、多様な祈りのかたちを表している。農耕用として農民が家族同様に馬を飼うようになると、自然と馬の神を祀るようになったようだ。 まっすぐに切りそろえられた前髪に、ぽってりとしたフォルムは、親しみやすい愛らしさに満ちている。
祈りを宿した六観音像
宝積寺六観音立像は、東北の誇りというべき貴重な仏像。右手を胸正面にあげて、左手は何かをつかむような形は、聖観音の図像にほぼ合致する。ただ足元を見ると、すねがむきだしになっているのに驚かされる。合掌する千手観音は、胸の表現がどこかぎこちない。恐らく仏像彫刻に慣れていない人物が造ったのだろう。
そんな素朴な作風ながら、六体の像からは、祈りの気持ちが強く伝わってくる。中世以降仏像の両腕は、別材で造って胴体で寄せるのが一般的だったが、この像は足以外の全てを1本の材から彫りだしている。これは、技巧を誇るのではない、強い目的があったからではないか。雪崩や土砂崩れ、様々な災いで人名を失った供養のために、祈りの気持ちを込めて近辺の職人が彫ったのではと、須藤名誉教授は推測している。名も無き人たちが、数人がかりで造ったと思われる六体の仏像。技術が優れたものが良いものなのか?現代に生きる私たちに、そう問いかけているようだ。
地獄が身近だったゆえの表現
江戸時代の人々は、死後の世界や地獄を身近に感じ暮らしていた。そのため、地獄を造形化することが流行したのだとか。グロテスクなもの、怖い物に畏怖の念をいだくのは、いつの時代も共通するのかもしれない。仏教には、人が亡くなると、生きていた時の罪について十人の地獄の王の裁きを受けるという考えがある。その王たちの裁判の様子を表した十王像が、数多く展示されていた。
「中央の鬼の足元を見てください。女性をひきずっていますね。鬼の顔つきといい、アーティスティックに楽しんで造ったのではないでしょうか」と、村松学芸員に促されて注目すると、地獄での鬼たちの表現がダイナミックで目を引く。
三体の鬼の背後には、業火に焼かれる亡者や、亡者をすりつぶす臼も展示されている。鬼たちの表現が恐ろしくなく、ユーモラスで芝居がかっているのは、当時の人たちにとって、死後、落ちるかもしれないと諦観している地獄の世界の苦難を、少しでも明るく捉えたいという願望があったからなのではないだろうか。
辛い現世に寄り添ってくれる救いの存在
青森県五所川原市の「子安観音坐像」は、お下げ髪に扇のような飾りをのせた姿で、従来の観音菩薩のイメージとは違う。「幼児の成長を守護する観音像ですが、亡くなった子どもを追悼するために造られたのではと思われます。みちのくは厳しい風土も関係して、亡くなる子どもの数が多かったそうです」と村松学芸員。古い過去帳や墓碑には、童子童女の戒名があまりにも多いそうだ。死産や、産後すぐに無くなってしまった赤子は、戒名すら無い。そんな子どもを失った悲しい気持ちを、この愛らしい観音坐像に癒やされたのだろう。崇高な像ではなく、素朴で少女のような姿が、求められた形だったのかもしれない。
民間仏が多く造られた時代は、高い技術を持つ仏師が存在し、中央で造られた仏像の多くが、はるばる地方の寺へと運ばれてきていた。そのため、村の人々も熟練した技巧の仏像を目にしていたはずだ。では、あえての稚拙な表現だったのかというと、その問いの答えには余地がありそうだ。それぞれの地域で、自分たちなりの精一杯の表現が、唯一無二の素朴な仏たちを生み出したのだろう。