FEATURE

シベリア抑留に翻弄された「一瞬一生」の人生を知る

練馬区立美術館にて「生誕110年 香月泰男展」が開催

内覧会・記者発表会レポート

《ダモイ》 1959年 油彩・方解末・木炭、カンヴァス 山口県立美術館蔵
《ダモイ》 1959年 油彩・方解末・木炭、カンヴァス 山口県立美術館蔵

内覧会・記者発表会レポート 一覧に戻るFEATURE一覧に戻る

構成・文 澁谷政治

57点もの連作「シベリア・シリーズ」で知られる山口・三隅出身の画家、香月泰男。現在全国5か所で、「生誕110年 香月泰男展」の巡回展が行われている。まだ雪の予報も聞こえる寒空の下、2022年2月6日から3月27日まで開催されている東京・練馬区立美術館を訪れた。

美術館・展覧会情報サイト アートアジェンダ 展覧会情報
「生誕110年 香月泰男展」
開催美術館:練馬区立美術館
開催期間:2022年2月6日(日)~3月27日(日)

私は以前長期に滞在していた中央アジアの地で、戦後抑留者の日本人に関する逸話をよく耳にした。抑留者が丁寧に建設し大地震でも倒壊しなかったナヴォイ劇場はあまりにも有名だが、それ以外にも怪我をした現地の人を助けた抑留者との交流や、そのまま帰国できずに帰化せざるを得なかった抑留者の子孫、そして劣悪な環境から命を落とした多くの人々が今も眠る日本人墓地など、抑留の歴史を語る痕跡の数々は強く印象に残っていた。

今回の展示においても、私のように「シベリア抑留」をキーワードとして訪れる鑑賞者は少なくないだろう。しかし、今回は代表作「シベリア・シリーズ」にフォーカスされがちな香月泰男という画家の一生について、青年期の作品から「シベリア・シリーズ」へと続く画風の変遷を時系列で追っていく貴重な展示となっている。彼の心情を刻々と反映した作品からは、不遇な少年期と孤独、画家としての模索と成長、幸せな家庭を築いた後の応召による満州への従軍、そして終戦後厳冬のシベリアでの過酷な抑留経験から、帰国後も画家としてシベリアと向き合わざるを得なかった、一人の男性の物語を感じることができる。

《〈私の〉地球》1968年 油彩、方解末、木炭、カンヴァス 山口県立美術館蔵
《〈私の〉地球》1968年 油彩、方解末、木炭、カンヴァス 山口県立美術館蔵

香月は山口県にある故郷、三隅村(現長門市)を終生「私の地球」として愛した。しかし、幼くして離別した両親に代わり育てた厳格な祖父に甘えることは許されず、画学生となってからも親戚から仕送りを受け肩身の狭い思いをしていた香月は、自分を誰からも必要とされない「いらん者」と考え、「死の誘惑」を感じる思春期を過ごしたと言う。この孤独を埋めていたのが美術であった。幼少から絵が得意だった香月は、中学生のときに他家へ嫁いでいた生母に初めて連絡し油絵具を無心した。その後画学校を経て、東京美術学校へ入学。自身の画風を模索し、学生時代はブラマンクやゴッホ、梅原龍三郎のほか、特にピカソにも大きく影響を受けている。のちに文部省美術展覧会監査展に入選した、ピカソの青の時代を彷彿させる卒業制作「二人座像」など、様々な画風を自分のものとして消化していく複数の作品を観ることができる。

《二人座像》1936年 油彩、カンヴァス 下関市立美術館蔵
《二人座像》1936年 油彩、カンヴァス 下関市立美術館蔵

東京美術学校を卒業後、香月は北海道の高校の美術教師となった。香月は「絵を描く手ではもったいない」として日常生活はもちろん、生徒への指導や板書もすべて左手で行うなど、自身の右手をとても大切にしていたという。これにはもしも右手に何かあっても、左手で絵を描き続けるための訓練の意味もあったらしい。その後故郷山口県の下関高等女学校へ転任、学校で飼育されていた兎を題材に作品を制作している。落ち着いた配色と線の分割で構成された油彩画「兎」は、1939年文部省美術展覧会で特選となり、その後の香月の画風の基礎を形成していった。教員時代の手記には「絵を描いているのは実際恋をしているよりも楽しみだ」と記されている。スクラッチなど様々な表現を試しつつ描かれた三態の兎から、制作を楽しむ香月と兎との対話が伝わってくるようである。

《兎》1939年 油彩、カンヴァス 香月泰男美術館蔵
《兎》1939年 油彩、カンヴァス 香月泰男美術館蔵

その後発表された作品は、徐々に香月らしい洗練された構図が確立され、特に「門・石垣」「波紋」「運ぶ女」など、独特な青や緑の配色が印象的な作品が多く見られる。その色合いや平面構成はどこか淋し気でもあり、叙情的な気分にさせられる。特に「釣り床」や「水鏡」などの坊主頭の少年の後ろ姿。静謐な画面から少年の孤独や戸惑いが感じられる。既に様々な美術展に入選を果たし、結婚、子どもの誕生を経て幸せな画家人生を歩み始めた時期の彼の中に横たわる、愛情に飢えた青年期が垣間見えているようにも思える。

《水鏡》1942年 油彩、カンヴァス 東京国立近代美術館蔵
《水鏡》1942年 油彩、カンヴァス 東京国立近代美術館蔵

1942年、当初ビルマへの従軍画家として派遣の話が持ち上がるも立ち消え、結局年末に召集令状を受けた翌年の春、当時の満州・ハイラルへと出征する。痛がるとかわいそうだからと種痘も受けさせないくらい子煩悩だったという香月。駐屯地ハイラルから600通以上の絵葉書を家族に送ったそうだ。そのうち無事届いた360通は、妻・婦美子が大切に保管している。従軍していたハイラルでも麻袋を画布にして作品を制作した。月夜のモンゴルの道標を眺める青年の後ろ姿を描いた作品「ホロンバイル」は、日本へ向かう人に託され、戦時特別文展にも出品されている。

《ホロンバイル》1944年 油彩、麻布 山口県立美術館蔵
《ホロンバイル》1944年 油彩、麻布 山口県立美術館蔵

1945年、中国・奉天に向かう貨車の中で終戦を知った香月は、すぐに軍人から画家に戻るべく、貨車のシートを切り裂いて絵具箱の袋を作ったそうだ。しかし、彼はその後60万人とも言われる抑留者の一人としてシベリアへ移送され、寒さと飢えで毎日のように死者の出る森林伐採に従事することなる。彼は出征時に絵具箱を携行し、その後抑留中に何度となく没収されても、必ず奪い返したと言う。箱の裏蓋には、絵の構想として書き留めた12の漢字が並ぶ。これはのちにシベリア・シリーズ「絵具箱」にも描かれている。ここにある漢字の一つ「雨」は、シベリア・シリーズの第1作にも繋がっている。

《絵具箱》1972年 油彩、方解末、木炭、カンヴァス 山口県立美術館蔵
《絵具箱》1972年 油彩、方解末、木炭、カンヴァス 山口県立美術館蔵

満州での駐屯経験、終戦後の現地の人からの憎悪や私刑、シベリアでの飢餓や酷寒の劣悪な環境、次々に斃れていく仲間の埋葬など暗い世界を背負い生き延びた香月は、1947年ついに日本へ帰国となる。抑留中には、画家であることからソ連人の肖像やポスター、壁掛けなどの制作も命じられ、重労働から解放される機会もあったと言う。一方、これが過酷な環境下で亡くなった同胞への負い目ともなり、帰国の土を踏んだ舞鶴の港で「亡霊を背負っている」ように感じたという香月は、帰国後も画家としてシベリアと向き合うこととなっていく。

《定規と少年》1950年 油彩、カンヴァス
《定規と少年》1950年 油彩、カンヴァス

帰国後はまず、日常の身の回りのものを題材とした作品を多く制作した。「台所の画家」と呼ばれるように野菜や魚介などの食材を多く描いた。また、近所の家畜や、自邸の中の風景も残されている。「定規と青年」や「仕事場」に描かれるT定規は、香月が息子に技術への関心を持たせようと手に入れた製図板などの建築道具の一つだったそうだ。それを知ると、子どもの将来に頭を悩ます父親の愛情が感じられる作品にも見えてくる。このアトリエを遊び場にしていた長男は、成長後は実際に建築家となっている。

《鳩と少年》1954年 油彩、方解末、カンヴァス 香月泰男美術館蔵
《鳩と少年》1954年 油彩、方解末、カンヴァス 香月泰男美術館蔵

その後の香月は、キュビスムに傾倒する作品を次々と発表している。サンパウロ・ビエンナーレにも出品した「鳩と青年」や、「電車の中の手」「山羊」などに見られる明るい色彩と分割された平面での抽象的な表現は評価も高かった。その一方で、素朴な題材に対する表現法としての不調和も指摘されていた。この頃、香月は絵具に砂を混ぜたフランスのキュビスム画家ジョルジュ・ブラックの作品からヒントを得て、日本の油彩画に合う絵具を模索していく。雲母、岩絵具、金泥などと油絵具と混ぜる実験を繰り返した結果、日本画でも下地の盛り上げで使用する方解末により、ざらざらとした質感の黄土色に辿り着いた。また、故郷三隅の炭焼職人に様々な木を焼いてもらい、木炭粉を擦り付けるマットな黒色が完成し、この黄土と黒とのコントラストが、シベリア・シリーズの代表的な配色となっていく。

《点呼(左)》1971年 油彩、方解末、木炭、カンヴァス 山口県立美術館蔵
《点呼(左)》1971年 油彩、方解末、木炭、カンヴァス 山口県立美術館蔵

シベリア・シリーズは、元々連作を念頭に制作されてはいなかった。しかし、制作を重ねるごとに、いくつかの共通した表現が生まれてくる。その一つが「顔」である。無表情の中にある悲哀、憤怒、諦観。香月自身が「もう一歩のところで形象化しないいらだち」を感じながら模索した自身の「顔」は、日本美術の要素を取り入れ「北へ西へ」から確立されてくる。その後の「避難民」「涅槃」などで少しずつ異なるその顔の面々は、黄土と黒のみの画風がよりもの悲しさを際立たせている。彼は仲間が亡くなる度に、その死顔をスケッチしていたと言う。もしも無事帰国ができたら遺族を訪ねて渡したいと考えていたそうだ。途中残念ながらソ連兵に見つかりすべて焼却されてしまったそうだが、彼はその一人一人の顔を忘れられず、その想いを胸に「涅槃」を制作している。中央に横たわる聖人の影とともに画面に浮かぶ無数の顔と手から、彼らの無念が伝わってくる。

《涅槃》1960年 油彩、方解末、木炭、カンヴァス 山口県立美術館蔵
《涅槃》1960年 油彩、方解末、木炭、カンヴァス 山口県立美術館蔵

私が展示会場で注目した作品の一つに「星<有刺鉄線>夏」がある。香月は、帰国してなお有刺鉄線を見るたびに「囚われの意識」を思い起こされていたそうだ。抑留中の疲れ切った労働後に見上げた満天の星空を美しく感じた一瞬。美に敏感な画家の視点が感じられる一方で、目の前の有刺鉄線には、星空のように届かないささやかで美しい幸せな過去を遮断する境界をも想起させられる。どんなときにでも囚われを意識せざるを得ない、抑留者の一瞬が伝わってくる。有刺鉄線は、氷点下の屋外作業を題材とした「-35°」などの作品でも、逃げ場のない抑留生活のシンボルとして描かれている。

《星〈有刺鉄線〉夏》1966年 油彩、方解末、木炭、カンヴァス 山口県立美術館蔵
《星〈有刺鉄線〉夏》1966年 油彩、方解末、木炭、カンヴァス 山口県立美術館蔵

もう一点、胸を打つ作品に「護」がある。黄土を基調としたキャンバスの中央に小さく切り取られた香月と妻の写真の残像。香月はこの写真をタバコケースに収め、出征から帰還まで肌身離さず携帯していた。彼は変色した写真を見るたび、「きっと生きて帰って来てくれ」と言われていると感じたと言う。一体どれだけの軍兵が同じように大切な写真を握りしめ、同じように大切な人を心から想い、そして望まない異国の地で散っていったのだろう。愛情が封じ込められたシンプルな構図から、戦争の愚かさを強く感じる作品の一つである。

《護》1969年 油彩、方解末、木炭、カンヴァス 山口県立美術館蔵
《護》1969年 油彩、方解末、木炭、カンヴァス 山口県立美術館蔵

後年はこの黄土と黒のほかに、対比が鮮やかな色を配置することで、新たな表現を生み出した。「日本海」は帰国直前のナホトカの丘に埋葬されていた日本人を描いたものだ。実際には革靴を履いた足だけが土から覗いていたそうだが、美しい海の色とともに、彼の無念に共感し、顔と手を描き添えたと言う。帰国目前の丘の嘆きに対する鎮魂の思いが感じられる。

《日本海》1972年 油彩、方解末、木炭、カンヴァス 山口県立美術館蔵
《日本海》1972年 油彩、方解末、木炭、カンヴァス 山口県立美術館蔵

香月はシベリアを振り返り、その日々を反芻しながら、1974年に62歳で急逝している。彼はこの「シベリア・シリーズ」で名声を得た。抑留という歴史的なテーマとともに、芸術的価値としても高い評価を受けている。しかし、その背景には戦争とは別に歩んできた人生を彩るたくさんの作品も残されている。香月は「一瞬一生」という言葉を好んだそうだ。どんな境遇においてもその時々の瞬間に芸術性を見い出し、作品に紡いできたのだ。彼が終生愛した山口・三隅の自邸のダイニングキッチンの壁一面には、色とりどりの花や食材、彼の洋行先の風景などが描かれていると言う。彼の愛する「私の地球」は、彼が築いた温かな家庭そのものであった。そして、同じように家族を愛したたくさんの人々が、戦争という大きな波に飲み込まれて行ったことに改めて気付かされる。

この展覧会は、3月8日の後期から作品の入替展示も予定されている。見応えのある貴重な作品の数々に、是非何度でも足を運んでほしい。「シベリア・シリーズ」が連作として注目され始めた当初、彼は雑誌「芸術新潮」の取材に「これをいつまでつづけるか、次の戦争までか、死ぬまでか、今は考えないようにしています」と答えている。世界ではまだ「次の戦争」が続いている。本展示を通じて、家族を愛する一人の画家が描いた戦争の現実、そして彼の芸術作品の背後から聞こえるたくさんの人生の声に耳を傾けたい。

澁谷政治 プロフィール

北海道札幌市出身。学部では北欧や北方圏文化を専攻し学芸員資格を取得。大学院では北方民族文化に関する研究で修士課程(観光学)を修了。現在は、国際協力に関連する仕事に携わっており、中央アジアや西アフリカなどの駐在経験を通じて、シルクロードやイスラム文化などにも関心を持つ。

FEATURE一覧に戻る内覧会・記者発表会レポート 一覧に戻る

FEATURE一覧に戻る内覧会・記者発表会レポート 一覧に戻る