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展覧会レポート

「禅」とは何か?「心には仏が宿っている」とはどういうことか?
実は日本人に馴染みの深い禅宗文化や禅の美術から学ぶ、禅の教え。

禅一心をかたちに 十八羅漢坐像・羅怙羅尊者
禅一心をかたちに 十八羅漢坐像・羅怙羅尊者

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「禅」とは何か?

「禅」とは何か?世界的にも「ZEN」として、精神性や思想的なものとして捉えられて、広まっている言葉であるが、より馴染みの深いはずの我々日本人にとって、「禅」とは一体なんであろうか?

こちらは、宇治・萬福寺にある十八羅漢のうちの羅怙羅(らごら)尊者である。釈尊の子息で、醜い容貌をしていたと伝えられるが、胸をぱかんと開いて見せて、「心には仏が宿っている」と、堂々たる姿で示している。中国人仏師 范道生(はんどうせい)により、1664年頃に作られたと考えられている。

現在、上野の東京国立博物館で「禅-心をかたちにー臨済禅師1150年 白隠禅師250年遠諱記念」が開催されている。インド人の仏僧 達磨(だるま)によって約1500年ほど前、唐の時代の中国に伝えられ、中国の禅僧 臨済禅師によって広められた。鎌倉時代に日本に禅宗をもたらした臨済禅師は、武家や公家、天皇家にも支持を受け、日本全国に広く影響を与えていった。かの有名な戦国武将たち、織田信長、豊臣秀吉、武田信玄らも禅僧に帰依していたという。

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臨済禅師1150年・白隠禅師250年遠諱記念 特別展「禅ー心をかたちにー」
開催美術館:東京国立博物館
開催期間:2016年10月18日(火)~2016年11月27日(日)

禅が伝えようとした「心」に触れる

重要文化財 臨済義玄像一休宗純賛伝蛇足筆 室町時代(15世紀)
重要文化財 臨済義玄像一休宗純賛伝蛇足筆 室町時代(15世紀)

京都の建仁寺、東福寺、大徳寺、妙心寺、相国寺、そして鎌倉の建長寺、円覚寺など、著名な寺院は、日本における禅宗のひとつ、臨済宗各派の本山である。日本には、臨済宗14派と黄檗宗(おうばくしゅう)の2つの宗派だけを合わせても、6000を超える末寺があるという。

今回の展覧会は、禅宗の高僧 臨済禅師と日本における臨済宗の中興の祖 白隠慧鶴(はくいんえかく)禅師の遠諱(おんき・50年ごとに行われる祖師の法要)を記念して開催されている。臨済宗14派と黄檗宗の合わせて15派の本山の協力を得て開催され、各本山や末寺、塔頭(たっちゅう)に伝わる高僧の肖像や墨蹟、仏像、絵画、工芸など、国宝24件、重要文化財134件など約300件の多彩な名品が展観できる。

この度、東京国立博物館で行われている展覧会名は、「禅ー心をかたちにー」である。禅が伝えようとし、歴史を辿り今に伝わる「心」とは。かたちに現れたその「心」に触れに、ぜひこの貴重な展覧会に出かけたい。

「衆生(しゅじょう)本来仏なり」

羅怙羅尊者が、胸を開いて示してみせた、「心には仏が宿っている」とは、どういうことか。

「衆生本来仏なり」という言葉がある。臨済宗の禅僧 白隠慧鶴(はくいんえかく 1686-1769)が、漢文でかかれた禅の教えを民衆のために分かりやすく書き著した「坐禅和讃(ざぜんわさん)」の冒頭にある言葉である。「私たちは生まれながらにして仏心を備え持っている」ということを意味する。

また、馬祖道一(ばそどういつ 709-788)禅師の公案として知られる、「即身是仏(そくしんぜぶつ)」という言葉がある。これもまた、「心こそが仏である」と伝えている。

自分はすでに心に仏を備えもっているならば、修行など必要はないのか、といえばそうではない。禅宗では、生活のすべてが修行の場であり、「悟り」を得るための機会としている。

その「心」とは、何であろうか?

「心」こそが「仏」である、ということは、すなわち、自分自身の心によって振舞い、心によって話す、心の動きのすべては「仏」のはたらきである。自分の心の動きが仏のはたらきなのだとしたら、自ずと自らの心を見つめ、自らにとっての「仏」による心のはたらきである必要がある。

「衆生本来仏なり」=衆生と仏は一体であるし、「即身是仏」=心はすなわち仏である、と禅宗は伝えるが、衆生か仏かは、「迷悟」によって隔てられる。そして、悟るべきは「心が仏である」という一点だという。開いた胸に仏の顔をのぞかせる羅怙羅尊者の姿とともに「心が仏である」という言葉を記憶に留めたい。「衆生」から「仏」へ、「迷い」から「悟り」へ・・・。

では、「悟る」とはどういうことなのだろうか?

ー心をかたちにー 禅の奥深さや多様性を示す禅宗文化

禅宗では、坐禅を通した「体験」を重視している。達磨禅師の掲げた禅の標語の一つに「不立文字(ふりゅうもんじ)」という言葉があるように、真の仏法は言葉では説明できず、論理的な理解ではなく、心で体得することを目指している。「以心伝心」という言葉も達磨禅師の掲げた標語の一つである。

国宝 慧可断臂図 雪舟等楊筆 室町時代
国宝 慧可断臂図 雪舟等楊筆 室町時代

言葉にはできない「心」が形にあらわれたもの、と捉えて、この度の展覧会で紹介される禅宗文化の美術に触れてみたい。

こちらは、雪舟等楊(せっしゅうとうよう 1420-1506)の描いた「慧可断臂図(えかだんぴず)」である。壁に向かって座禅をしていた達磨禅師に、神光という僧(のちの慧可)が、弟子入りを請うが断られてしまう。しかし諦めきれない神光は、その決意のほどを示すために自らの左腕を切りおとして、生半可ではない決意のほどを示し、入門を許されたという。僧の手には、切り落とした左腕が描かれている。

この絵は、その劇的な内容とは対照的に静けさが漂う。達磨禅師と僧の顔は同じ向きで、緊迫感のある。険しい表情ながらも二人似通うところが感じられる。これはお互いの心に通じているものを表しているのであろうか。

そして、のちに禅宗第二の祖となる慧可(えか)が、左腕を切り落としてまで、達磨禅師に弟子入りを請い、求めたものは、何だったのであろうか。

「直指人心 見性成仏(じきしにんしん けんしょうじょうぶつ)」

達磨像 白隠慧鶴筆 江戸時代(18世紀) 大分・萬壽寺
達磨像 白隠慧鶴筆 江戸時代(18世紀) 大分・萬壽寺

「直指人心 見性成仏」、呪文のような言葉がこの絵の左上に書かれている。こちらは、白隠慧鶴による「達磨像」である。達磨禅師は、約1500年ほど前、中国に禅の教えを伝えた、インド人の仏僧である。広い額にぎょろっとした目の達磨禅師の顔が、画面いっぱいに圧巻の迫力で描かれている。「直指人心 見性成仏」とは、達磨禅師の掲げた宗旨である。

「直指人心 見性成仏(じきしにんしん けんしょうじょうぶつ)」とは、「経説によらずに坐禅によって心の本性を見きわめ、人の心と仏性とが本来一つであると悟って仏道を完成させる」※とある。白隠慧鶴は、禅僧でありながら、庶民に禅を広めるために禅の心を伝える書画を数多く遺しており、その中でもこの絵は最晩年に描いた名作といわれている。

※「禅ー心をかたちにー」展特別サイトより(外部サイト)

「直指人心 見性成仏」にある「見性(けんしょう)」とは、自らに本来備わっている心のあり様や自己の本性を“徹見”することを意味するそうだ。坐禅もこの「見性」を目指す修行である。

人の心に去来するものは、美しいもの清らかなものばかりではなく、汚い部分や恐ろしい考えなども潜んでいるであろう。自分の心の本当の姿を見つめ、自分の心の奥底に宿っているものを見極めていくことで、自分の中にある汚い部分や醜い部分と同様に、本来備わっている仏心も見つけ出せるであろう。そして、自分の中の「仏心」を探し出し、自らの中にある仏心仏性に“成り切る”こと、が「見性成仏」であるという。

それでは、仏心仏性に「成り切る」とは、どういうことであろうか?
禅の「心」を求めれば、禅問答のように果てしなく自らへの問いかけがつづきそうである。禅の美術が伝える「心」に触れられるこの機会に、一度自らの「心」に向き合ってみてはいかがだろうか。

国宝 玳玻天目 中国・南宋時代 12世紀 京都・相国寺蔵
国宝 玳玻天目 中国・南宋時代 12世紀 京都・相国寺蔵

日本人にとっても馴染み深い「お茶」の文化や今に伝わる茶の湯の精神にも、禅宗が深くかかわっている。禅宗における飲茶の礼法の「茶礼」は、現在の茶道の原型であり、禅の寺院から一般庶民に幅広く、「お茶を飲む」という習慣が広まっていった。

油滴天目(ゆてきてんもく)の中でも第一の名椀として名高い国宝のひと品や、同じく国宝の茶碗 玳玻天目(たいひてんもく)、また「初音」「楢柴」とともに、天下の三つの名物といわれる唐物肩衝茶入「新田」や栄西禅師(1141-1215)によって書かれた「喫茶養生記」など、「お茶」や「茶の湯」にまつわる名品の数々も見応えがある。

国際情勢の不安定さや社会において先行きの不安を人々が感じざるを得ないような時代には、禅の美術や禅宗文化を通じて、あらためて禅の「心」に触れてみることは、意義あることなのではないだろうか。

<参考文献> 臨済禅師1150年・白隠禅師250年遠諱記念 特別展「禅ー心をかたちにー」図録(発行元 日本経済新聞社)

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