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“逃げた男”と呼ばれた有楽斎の真価を問う
「四百年遠忌記念特別展 大名茶人 織田有楽斎」展

サントリー美術館にて、「四百年遠忌記念特別展 大名茶人 織田有楽斎」が2024年3月24日(日)まで開催

内覧会・記者発表会レポート

狩野山楽「蓮鷺図襖」十六面 江戸時代 17世紀 正伝永源院【通期】
狩野山楽「蓮鷺図襖」十六面 江戸時代 17世紀 正伝永源院【通期】

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戦国時代から江戸時代初期を生きた織田有楽斎(長益)は、2つの顔をもつ。1つはあの織田信長の弟として生まれ、信長、豊臣秀吉、徳川家康の三天下人に仕えた大名としての顔、もう1つは茶の湯において千利休も一目置いた優れた大名茶人としての顔だ。

そんな織田有楽斎の400年遠忌を記念した「大名茶人 織田有楽斎」展が、サントリー美術館で開幕した。2023年に京都文化博物館で開催され、巡回となる本展では、“有楽好み”の茶道具から、有楽斎が終の棲家とした正伝院(現・正伝永源院)の寺宝の数々が集結する。そうした品々からは大名茶人として激動の時代を生き抜いた有楽斎の生き様が浮かび上がる。

美術館・展覧会情報サイト アートアジェンダ 展覧会情報
「四百年遠忌記念特別展 大名茶人 織田有楽斎」
開催美術館:サントリー美術館
開催期間:2024年1月31日(水)〜3月24日(日)
※会期中展示替えあり

有楽斎ゆかりの寺・正伝院

「織田有楽斎坐像」 一軀 江戸時代 17 世紀 正伝永源院【通期】
「織田有楽斎坐像」 一軀 江戸時代 17 世紀 正伝永源院【通期】

本展を紹介する上で重要なのが、有楽斎と正伝院の関係だ。有楽斎は、織田信長の弟として生まれ、織田家の有力な大名の一人として信長の治世でも重要な働きをする。本能寺の変の後は、秀吉に仕え二千石の知行国を与えられている。そして秀吉没後は家康と関係を深め、大坂冬の陣では豊臣・徳川の間で和議を結ぶよう説得に尽力する。

しかし有楽斎は、夏の陣を前に京都・二条へ移り、当時荒廃していた建仁寺塔頭・正伝院を再興し、ここを隠棲の地とした。そして寺の敷地内に茶室「如庵」を建てると、茶の湯三昧の日々を送ったのだ。大名茶人・有楽斎にとっての理想郷ともいえるこの「如庵」は、千利休による「待庵」、小堀遠州の「密庵」と共に国宝茶席三名席に数えられる。また全国各地に“如庵写し”の茶室が残されており、有楽斎の美意識が多くの人を魅了してきたことがうかがえる。

※現在「如庵」は愛知県犬山市に移築され、正伝永源院には1996年に如庵の写し(正伝如庵)が造営されている。

“逃げた男”というレッテルからの脱却

そんな有楽斎ゆかりの正伝院(現・正伝永源院)の住職・真神啓仁(まがみ・けいにん)氏は、本展の開催に「“逃げた男”のイメージを払拭させたい」との思いを込める。

京都市指定文化財「本能寺跡出土瓦」十五点 桃山時代  16世紀 京都市【通期】
手前の赤褐色の破片は火災により変色したもので、本能寺の変での焼き討ちの威力を物語っている。
京都市指定文化財「本能寺跡出土瓦」十五点 桃山時代 16世紀 京都市【通期】
手前の赤褐色の破片は火災により変色したもので、本能寺の変での焼き討ちの威力を物語っている。

有楽斎(長益)は大名茶人として高く評価されている一方で、戦国武将としては長らく“逃げた男”という不名誉なレッテルが貼られてきた。というのも、天正10年(1582)の本能寺の変の際、長益は信長の子である信忠と共に二条御所で急襲を受ける。主である信忠が自害する一方で、長益は二条御所から脱出し生き延びたことから、主を捨てて逃げたという風評が世間に広まり定着していくこととなったのだ。

展覧会は様々な歴史資料から長益の武将としての姿を見つめ直すところから始まる。たとえば、“逃げた男”のレッテルを貼った代表的な書物に『義残後覚(ぎざんこうかく)』があるが、その内容は豊臣秀吉を評価し、織田家については批判的な記述が目立つ。本能寺の変からさほど時間が経っていない時期に成立していることから一定の信ぴょう性はあるものの、その歴史観には注意が必要だ。

愚軒『義残後覚』第五巻 七冊のうち一冊 江戸時代 17世紀 加賀市立中央図書館【通期】
愚軒『義残後覚』第五巻 七冊のうち一冊 江戸時代 17世紀 加賀市立中央図書館【通期】

一方で、信長研究の一級史料である『信長公記』には、武田信玄攻めの戦の折に長益が戦功をあげたことや、重要な儀礼に織田家一門として名を連ねるなど、長益が武将として重要な存在であったことが示されている。

織田長清「織田氏系譜」 一巻 江戸時代 17世紀 正伝永源院【通期】
織田長清「織田氏系譜」 一巻 江戸時代 17世紀 正伝永源院【通期】
『信長公記 巻十四・十五』十五冊のうち二冊 原本 太田牛一 江戸時代 17世紀 陽明文庫【通期】
『信長公記 巻十四・十五』十五冊のうち二冊 原本 太田牛一 江戸時代 17世紀 陽明文庫【通期】

世間に“逃げた男”のイメージが定着した長益だが、その後の豊臣・徳川家の間で立ち回るなどの功績を鑑みても、その選択は不名誉なことではなく戦乱の世を生き抜く術であり、長益の武将としての判断力、調整役としてのバランス感覚は大名たちの間で信頼に値するものであったとわかる。展覧会では有楽斎が書いた手紙や、様々な武将が有楽斎に宛てた手紙などが展示され、多くの武士や文化人との交流の様子を浮かび上がらせる。

(右)「金地院崇伝書状 織田有楽斎宛」 一幅 江戸時代  17世紀 大阪青山歴史文学博物館【通期】
(左)「徳川家康書状 」一幅 江戸時代 17世紀 正伝永源院【1/31~2/26前期】
(右)「金地院崇伝書状 織田有楽斎宛」 一幅 江戸時代 17世紀 大阪青山歴史文学博物館【通期】
(左)「徳川家康書状 」一幅 江戸時代 17世紀 正伝永源院【1/31~2/26前期】

“有楽好み”の茶道具と国宝茶室「如庵」の美

「烏図真形釜 銘 濡烏」 一口 室町時代 15世紀 東京国立博物館【通期】
「烏図真形釜 銘 濡烏」 一口 室町時代 15世紀 東京国立博物館【通期】

そんな、長益は剃髪して「有楽斎」として晩年は茶の湯三昧の日々を送る。もともと千利休も一目置く茶人として活躍した有楽斎は、高僧や、古田織部、細川三斎、伊達政宗など大名らと茶会を催しており、『有楽斎茶湯日記』には当時の茶会の様子が細かに記されている。

本展では、有楽斎が愛用した“有楽好み”の茶道具の数々が展示されているが、中でも今回は次の3点を紹介しよう。

「唐物文琳茶入 銘 玉垣」一口 南宋時代 12~13 世紀 遠山記念館 【通期】
「唐物文琳茶入 銘 玉垣」一口 南宋時代 12~13 世紀 遠山記念館 【通期】

小ぶりで黒みを帯びた釉薬によって渋い味わいを見せる「唐物文琳茶入 銘 玉垣」は、室町幕府8代将軍・足利義政に仕えた同朋衆である能阿弥が所持し、その後何人かの所有者を経て有楽斎の手に渡り、慶長17年(1612)に豊臣秀頼が有楽斎の邸宅を訪問した際に豊臣家に献上された。しかし大坂夏の陣での大阪城落城によって、この茶入も破損してしまう。やがて大阪城の蔵から破片が発掘されると、漆で修復され徳川家に献上された、という激動の運命を辿っている。

重要美術品「大井戸茶碗 有楽井戸」 一口 朝鮮王朝時代 16 世紀 東京国立博物館 【通期】
重要美術品「大井戸茶碗 有楽井戸」 一口 朝鮮王朝時代 16 世紀 東京国立博物館 【通期】

現在は東京国立博物館に所蔵されている重要美術品「大井戸茶碗 有楽井戸」は、大らかな姿が魅力的な高麗茶碗で、有楽斎が所持していたと伝わる。井戸茶碗の名称の由来は明らかではないが、朝鮮半島で本来は日用品として作られた雑器であったものが、日本にもたらされた際に茶碗として用いられるようになったものだ。灰茶色の素地と白釉による穏やかな景色と、底に向かってすぼまる引き締まった造形がみごとに調和し、ずっと眺めていたくなる一碗だ。

重要文化財「緑釉四足壺」 一口 平安時代 9世紀 慈照院【通期】
重要文化財「緑釉四足壺」 一口 平安時代 9世紀 慈照院【通期】

慈照院に伝わる重要文化財「緑釉四足壺」は有楽斎が、京都・相国寺の塔頭である慈照院の禅僧・昕叔顕啅(きんしゅくけんたく)に水指として贈った品だ。丸くどっしりとした胴に、細い獣脚状の足が4つ貼り付けられており、その対比が絶妙な調和を見せる。全体に厚くかかった緑釉の艶が美しく、重厚感の中にも心地よい軽やかさを感じさせる。

そして、有楽斎の美が結実した茶室「如庵」だが、本展では「如庵」の扁額や起絵図(紙で作った立体模型)といった資料のほか、展示室の床に如庵の寸法を再現したエリアが設けられている。「如庵」は二畳半台目の茶室で、その小ささに驚くだろう。記録によると、この如庵には伊達政宗や先ほどの「緑釉四足壺」を送った相国寺の禅僧・昕叔顕啅を招いていたようだ。

扁額「如菴」 一面 江戸時代 18世紀 正伝永源院 【通期】
扁額「如菴」 一面 江戸時代 18世紀 正伝永源院 【通期】
「如庵」のサイズを示した展示エリア(丸く照らされた部分は炉の位置を示す)
「如庵」のサイズを示した展示エリア(丸く照らされた部分は炉の位置を示す)

正伝永源院の名品

展覧会の後半は正伝永源院に伝わる寺宝の数々が展示されている。特に狩野山楽筆「蓮鷺図」は、圧巻だ。金地の背景に咲き誇る白蓮とそこに集う白鷺や燕が描かれており、一点の曇りのないまばゆさで空間を荘厳する。しかし蓮の描写をよく見れば、咲き誇る花と共に花弁が散りゆく様も描かれており、蓮の一生、いわば物ごとの盛衰が表わされている。

狩野山楽「蓮鷺図襖」十六面 江戸時代 17世紀 正伝永源院 【通期】
狩野山楽「蓮鷺図襖」十六面 江戸時代 17世紀 正伝永源院 【通期】
狩野山楽「蓮鷺図襖」(部分)十六面 江戸時代 17世紀 正伝永源院【通期】
狩野山楽「蓮鷺図襖」(部分)十六面 江戸時代 17世紀 正伝永源院【通期】

有楽斎が終の棲家とした正伝院が、現在「正伝永源院」と名を改めたのは、明治時代の廃仏毀釈が大きく関わっている。当時、堂宇のみ残し無住となっていた永源庵に正伝院が移ることになり、永源庵は廃寺となったのだ。この時、永源庵を菩提寺とする細川家の願いもあって「永源」の二字が正伝院と合わさり「正伝永源院」と改められたのだ。織田有楽斎ゆかりの正伝院と、細川家ゆかりの永源庵、2つの家の想いと命脈を受け継ぐ正伝永源院の寺宝はしみじみとした味わいに満ちている。

展示風景
(写真手前:青銅鐘 一口 高麗時代 12~14世紀 正伝永源院【1/31~2/26前期】)
展示風景
(写真手前:青銅鐘 一口 高麗時代 12~14世紀 正伝永源院【1/31~2/26前期】)
伝 仁阿弥道八「黒楽 正傳院字 茶碗」二口 江戸時代 19世紀 正伝永源院【通期】
伝 仁阿弥道八「黒楽 正傳院字 茶碗」二口 江戸時代 19世紀 正伝永源院【通期】
展示風景
展示風景
展示風景 正伝永源院には、初代高橋道八による水指や仁阿弥道八による楽茶碗などが伝わる。
展示風景 正伝永源院には、初代高橋道八による水指や仁阿弥道八による楽茶碗などが伝わる。

交流のあった人々からの手紙や遺愛の品々を見つめれば、人と人の間を取り持ち、つながりを大切にしようとする有楽斎の人となりが浮かび上がってくる。展覧会を出る頃には、かつて“逃げた男”のレッテルが貼られた有楽斎の背中は、生きることから“逃げなかった男”として凛とした姿に見えてくるだろう。

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サントリー美術館|SUNTORY MUSEUM of ART
107-8643 東京都港区赤坂9-7-4 東京ミッドタウン ガレリア3階
開館時間:10:00〜18:00(最終入館時間 17:30)
休館日:火曜日 ※ただし3月19日は20時まで開館

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