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世界と“私”の交感
安井仲治の写真が内包するひずみと超越性

「生誕120年 安井仲治―僕の大切な写真」が、兵庫県立美術館で2月12日(月・振)まで開催

内覧会・記者発表会レポート

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19世紀前半に写真が誕生してから芸術として認知されるまで、その芸術性を問う議論は尽きず、写真家たちは常に自らのスタイルを模索してきた。日本においては、大正期頃より
絵画的な写真を叶えるピグメント印画法が普及し始め、やがてカメラの技法を駆使して新しい表現を模索した「新興写真」の潮流が生まれていく。中でも安井仲治(やすいなかじ 1903~1942)は、大正期から太平洋戦争勃発に至る激動の時代に芸術写真の限りを試行した代表的な写真家だ。

生誕120年となる2023年、「生誕120年 安井仲治 -僕の大切な写真」 が兵庫県立美術館で2月12日(月・振)まで開催中である。愛知県美術館 に続く巡回展示で、2024年2月23日からは、東京ステーションギャラリー を巡回する。

美術館・展覧会情報サイト アートアジェンダ 展覧会情報
生誕120年 安井仲治 -僕の大切な写真
開催美術館:兵庫県立美術館
開催期間:2023年12月16日(土)〜2024年2月12日(月・振)

1903年、大阪の裕福な家庭に生まれた安井仲治。高校生の頃に両親からカメラを与えられ、写真の世界に魅せられ才能を発揮していく。10代で同志が集う関西の名門・浪華写真倶楽部の会員となり、若くして名を馳せ、病により38歳で夭折するまで写真家として活躍した。

本展は生誕120年に合わせ、全205点の安井仲治の作品を一望できる20年ぶりの回顧展となる。展示は5章構成となっており、安井仲治の誕生から写真家デビューまでの「第1章 1920s:仲治誕生」、新興写真隆盛期の作品を伝える「第2章 1930s - 1:都市への眼差し」、「半静物」という発想で制作に臨み代表作の数々が生まれた「第3章 1930s - 2:静物のある風景」。そして新興写真退潮後に生まれたシュルレアリスムの影響が見られる「第4章 1930s - 3:夢幻と不条理の沃野」、日中戦争開戦後の制限のある制作環境の中、戦時下の人々やナチスによる迫害から逃れたユダヤ人など、鋭く社会を写し取った「第5章 Late 1930s - 1942:不易と流行」という展示構成となっている。写真家自身が手掛けたヴィンテージプリントも141点と豊富で、その質感まで鑑賞できる贅沢な内容だ。

安井仲治の存在は日本の写真史において傑出しており、かの土門拳や森山大道などがその作品を賛嘆したことでも知られている。美術史においても多方面から大変深い論考が成されており、特に本展の図録の見応えは凄まじい。安井仲治のご子息・安井仲雄氏が伝える写真家の人物像から、会場となる各美術館の学芸員や印画師などによる多角的な考察、文献を含む膨大なアーカイブ資料等、安井仲治について理解を深める上で保存版の内容となっている。そうした熱心な研究をもってしても写真家の創造性は研究者の想像を超越することが珍しくなく、生誕120年を迎える現代となってようやく技法の謎が解き明かされた作品や、未だ撮影の方法が読み解けない作品もあるようだ。

文字通り写真に吸い寄せられて本展に向かった身としては、その深い論考に学ぶばかりで、仮説を深められる境地に立つことはかなわない。よってここでは、安井仲治に初めて出会った者の視点で、作品の魅力を「絵画」「フォトモンタージュと半静物」「主客合一」「言葉」の4つの観点から伝えていくことにしたい。

ピグメント印画、ソフトフォーカス、構図の妙 ー 絵画のように描かれる写真

一つに、安井氏の作品は絵画的であることが挙げられる。次の作品は、安井氏が若干19〜20歳の頃に撮影した最初期の作品である。

《分離派の建築と其周囲》1922
《分離派の建築と其周囲》1922
《クレインノヒビキ》1923 ブロムオイル
《クレインノヒビキ》1923 ブロムオイル

「絵画的」という表現は、1920年代頃のアマチュア写真家にとっては共通言語であった。芸術表現としての写真を志向する写真家たちは、絵画に並ぶ写真表現を目指した。その作品は「芸術写真」と呼ばれ、主に顔料でイメージを再現するピグメント印画法が採用された。文字どおり絵画に近い仕上がりとなり、デジタルは元より銀塩フィルムとも少々異なる風合いを見せる。

そうした風潮もあり、安井氏も積極的にピグメント印画法に取り組んだ。この技法では顔料を自ら調整しながらイメージを生み出したり、印画時に不要な箇所を取り除いたりと、まるで絵画のように作品を描くことができる。安井氏はその技術を駆使し、構図やソフトフォーカスの具合が絶妙に結実した名作を数多く残している。絵画のような独特のにじみ、奥深く、流れるような陰影を宿す作品を前にすると、天性の審美眼に感服させられる。

ソフトフォーカスを許さぬような、全てを精細に映し出す現代のデジタル写真に対し、「肩の力を抜きなさい。実像を、存在を見つめなさい」とやわらかく伝えてくるようだ。

重ねられる創意。フォトモンタージュ、半静物が誘う境地へ

《(凝視)》1931/2023
《(凝視)》1931/2023

本展のキービジュアルの一つでもある作品《(凝視)》は、1931年に大阪中之島公園で行われたメーデーの様子を撮影した3枚の写真に手を加え、切り取った4枚の画像を合成した作品。印象的な労働者の視線と、工場機器などの像が重ねられている。労働者は元々上半身まで映っていた写真を左右反転させ、その顔の部分が大胆にトリミングされている。時間も比率も超越し、自由に再構成された写真世界。安井氏の作品では、こうしたフォトモンタージュが度々実践される。

ネガコンタクトプリント《(凝視)》1931/2023
ネガコンタクトプリント《(凝視)》1931/2023

また、安井氏は撮影する前からモンタージュを試みることも少なくない。例えば野晒しの椅子の上に花を置く、流木に帽子をかける。物体の位置を変える。目に見える風景に手を加えることで、現実に違和を生み、揺さぶりをかけていった。この思想を、安井氏は「半静物」と呼んでいる。

流木にかけられた麦わら帽子
《帽子》1936/2023 ゼラチンシルバープリント
流木にかけられた麦わら帽子
《帽子》1936/2023 ゼラチンシルバープリント
「一寸いたづら気を出して」置き換えた2つの工具
《斧と鎌》1931 ゼラチンシルバープリント
「一寸いたづら気を出して」置き換えた2つの工具
《斧と鎌》1931 ゼラチンシルバープリント

究極は、現実の中にモンタージュされた世界を見出し切り取っていく。《(凝視)》と同じくキービジュアルの一つである次の作品《(馬と少女)》においても同様のことが言える。馬とサーカスの娘たちが、同じ空間にいるとは思い難い構図で一枚の写真に収められている。しかしそこに不和はなく、むしろ伸びやかに個々が存在している。

《(馬と少女)》1940
《(馬と少女)》1940

世界の中に我を見る「主客合一」 集団のひずみから生じる個の超越性

安井氏の作品に「寂しさ」を見る人がいる。枯淡な美が醸し出す、侘しさのような感触かもしれない。ただし安井氏の作品は叙情的なセンチメンタリズムとは異なり、「半静物」の発想に見られるような、どこか不穏さを伴う。

集団の中にいた人間が、ふとした瞬間に個へ立ち返った際に直面せざるをえない虚無や、その空間に生じゆくズレ。安井氏の代表作《猿廻しの図》や《眺める人々》ではその俯瞰の視点と集団の離散が際立つ代表作だ。猿という同じ対象の動きを見つめる中、集団が微細に分け隔たれていく。同時に強まってゆく個々の存在の確かな重みに、カメラはどこまでも呼応していくような超越性を覚える。そうしたひずみとも呼べる不穏の先に、何か神秘へ通ずる入り口があるような、神妙な心地にさせられる。

《猿廻しの図》1925/2023
《猿廻しの図》1925/2023

このひずみが生じる瞬間に、他者と我とが交感しうる接点があるのではないだろうか。安井氏自身が語る言葉に「主客合一」という言葉がある。

「結局自分自身の心持をどこに置くか、都会のどの面に自分がどう感じたか、と云ふ事が先決の問題であつて、其心構への立派な作家はこちらから器械を向けなく共、風景の方がこちらを向いてゐると云う風になるもので、主客合一と、云ふか、そうなれば占めたものである。〜兎に角、感じる事だ、光を見る事だ」(安井仲治「新しい風景写真(三)都会の風景写真」『カメラアート』1937年1月号)

誰もが写真を手軽に撮影できる現代、「撮る」「撮られる」行為が一つのコミュニケーションであると実感する人は多いだろう。写真は自らの感性、霊性を浮き彫りにする。その視点に立てば、ファインダーの先の景色は私自身が現出した像と捉えられるかもしれない。

私が見るものは、私の思念を表したもの。それはどこか、フランスの詩人で神秘思想家エリファス・レヴィが唱え、詩人ボードレールが謳った、大宇宙と個の内側にある小宇宙が交感する「万物照応」の精神とも通ずる世界を思わせる。

《看板》(1937-40)
《看板》(1937-40)
《草》c.1929
《草》c.1929
《蛾(二)》1934
《蛾(二)》1934
《流氓ユダヤ 窓》1941
《流氓ユダヤ 窓》1941

創作の本質を突く、安井仲治の言葉

「見る者と見られる者、その間には何の関係もない様で、しかし又、目に見えぬ何か大きな糸ででも結ばれている様に思われます」(『写真界』1925年7月号)

「一体に良き作品を得たいがために手段を持つと云うよりも、ここでは手段を媒体とし、利器として自然に交友を求め、その結果自づから作品が生れると云った方が楽しみが深く、万一作品が出来なくとも、そんな気持で風景の中に居る事がどんなに嬉しいことでしょう」(『風景撮影の実際(写真実技講座5)』玄光社 1938年)

安井氏による言葉も魅力的だ。中でも創作に向かう言葉は、時を超越して表現の本質を捉えている。本展示では、こうした安井氏の言葉が随所に認められる。また、安藤忠雄氏設計による兵庫県立美術館の展示スペース内「光の庭」に展示された「写真家四十八宜(しゃしんをうつすひとよんじゅうはちよろし) 光芒亭主人識」も必見だ。

光の庭
光の庭

「いつそスランプは大なるがよろし」
「ろくでもないもの関心せぬがよろし」
「ハツと感じたら写すがよろし」

…と、以降も「…よろし」と写真家の心得がいろは順に48個説かれる。人柄を表すようにどこか脱力し、ユーモアを交えた言葉がスッと心に入っていく。一つひとつゆっくりと味わいたい。

安井仲治が語った未来のカメラ。現代を巧妙に言い当てている
安井仲治が語った未来のカメラ。現代を巧妙に言い当てている

安井仲治が浮かび上がらせたイメージは、いずれも観る人をその場に立ち止まらせるほどの強い引力を持ちつつ、その捉え所のなさが一つの魅力である。「絵画的」であり「実験的」であるが、作品に力みはなく、カテゴライズをしなやかに受け流す、軽やかさを有する。熟考というよりも試行を楽しむ中で完成形を生み出すような一筋のスタイルが貫かれている。もしかすると、安井仲治がファインダーを覗きながら世界との関係性を探る行為が、ある種の捉え所のなさとして現れていたのかもしれない。

そんな安井仲治の写真に対峙した後に普段の風景に目を向けると、世界が少し変わって見えるかもしれない。まなざすという行為は、対象とエネルギーを交感し合うことと言えるのだろう。120年の時を超越して、観る者を見つめ返してくる写真の数々と向き合い、その逢瀬を楽しんでほしい。

展示風景より
展示風景より
美術館・展覧会情報サイト アートアジェンダ 美術館情報
兵庫県立美術館|Hyogo Prefectural Museum of Art
651-0073 兵庫県神戸市中央区脇浜海岸通1-1-1 (HAT神戸内)
開館時間:10:00〜18:00(最終入場時間 17:30)
休館日:月曜日 ※ただし、2月12日(月・振)は開館

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