「アートはみんなのために」を実践し続けた
キース・へリングからのメッセージ
「キース・ヘリング展 アートをストリートへ」が
森アーツセンターギャラリーにて2024年2月25日(日)まで開催
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構成・文・写真:森聖加
1980年代、アメリカ・ニューヨークを中心にポップ・アートシーンを駆け抜けたアーティスト、キース・へリング(1958-1990)。わずか10年あまりの活動期間に残した作品には、混沌とした現代に生きる私たちを強く鼓舞するメッセージが込められている。初期の代表作で、彼が世に出るきっかけとなったプロジェクト「サブウェイ・ドローイング」にはじまり、へリングと日本とのつながりを物語る品々もそろう、見どころ満載の展覧会が森アーツセンターギャラリーではじまった。
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- キース・ヘリング展 アートをストリートへ
開催美術館:森アーツセンターギャラリー
開催期間:2023年12月9日(土)〜2024年2月25日(日)
注目は日本初公開5点を含む代表作「サブウェイ・ドローイング」
1958年、アメリカ北東部のペンシルべニア州に生まれたキース・へリングが才能を開花させたのは、1980年代のニューヨークだ。太くくっきりとした輪郭線と色彩にあふれた作風で知られるヘリングだが、実は彼の名が世の中に広まるきっかけとなったのは黒い紙に白いチョークで描いたモノクローム作品だった。本展では、初期の代表作「サブウェイ・ドローイング」の7点がまとまった形で公開される希少な機会だと本展の監修者で、中村キース・へリング美術館顧問の梁瀬薫氏は語る。しかも、そのうちの5点が日本初公開となる。
「サブウェイ・ドローイング」とは、ヘリングが文字通り、ニューヨークの地下鉄駅構内の広告板の空きスペースに目を付けて展開したプロジェクトのこと。美術館やギャラリーといった従来の展示空間から離れ、アートを多くの人々に届けたいと考えていた彼の思いが具体化した原点でもある。1970年代後半、ニューヨークではヒップホップの一要素として、いわゆる〈落書き〉と呼ばれるグラフィティが路上で花開いた。へリングはグラフィティに敬意を払いつつも、独自の表現を求めて「サブウェイ・ドローイング」をはじめる。
広告板の空きを見つけてはものの数分で絵を仕上げ、電車を乗り継ぎ次の駅へ。駅員に見つかり、警察に捕まったことも数回ではない。1981年から5年にわたって描き続けた絵は何千枚もの数にのぼった。しかし、作品は次の広告主が現れるまでの短い間、仮に貼られた黒い模造紙にチョークで描く無許可行為とその材質上、捨てられるか、ボロボロになるかした。また、有名になるにつれ剥がされることも頻繁になり、ほとんどが残らなかったのだ。
ニューヨーク地下鉄のあらゆる場所に突如現れたヘリングのアートに魅了されたひとりが、タッカー・ヒューズ氏で、本展に希少な2作品を出品している。ヒューズ氏はヘリングの「サブウェイ・ドローイング」との出会いを機にアート・コレクターとしての道を進むことにもなり、のちに本人へのインタビューも行っている。
「へリングのドローイングは非常にユニークでパワフルなもので、ニューヨーカーに喜んで受け入れられました。重要な点は、彼は批評家やギャラリー、裕福なアートコミュニティのためではなく、毎日電車に乗ってオフィスへと向かう、200万人のニューヨーカーのために描いたことです。そして、他のグラフィティ・アーティストとは異なり彼は電車自体にドローイングせず、地下鉄駅構内の広告板に描きました。作品は永遠に残るものではなく、バンダリズム(破壊行為)でもない。彼は何回も逮捕されたけれど、警察官でさえ彼の作品が気に入っていたんですよ」
コミカルで明るい描写は、死の恐怖の裏返し
続く章は、怪獣のような得体の知れないものと格闘する自身の姿を描いた《無題》(本記事、最初の画像)からはじまる。それは1980年代にはいって世界中に蔓延し、へリングをも苦しめ、多くの仲間たちと同様に自身が命を落とすことになった病の象徴なのだろう。
へリングは1988年にエイズと診断され、2年後に31歳で亡くなった。1980年代当時のニューヨークでは、ゲイ・カルチャーを土台としたクラブでの華やかな社交が繰り広げられていた。アンディ・ウォーホル、マドンナに代表されるポップ・アイコンをはじめとする多彩な才能との交流によって彼の活躍の場は広がった。しかし一方で、HIVの蔓延が彼の日常にも暗い影を落としはじめる。
へリングは同性愛者であることを公表していた。得体の知れない「謎」の病への政府の対応の遅れと、その病がゲイ・コミュニティを中心に広まっていたゆえに生じた誤った世間の認知、相次ぐ仲間の死。明るく、コミカルな作品は20代の若者が死の恐怖に直面しながら制作していたのだ、と梁瀬氏は言う。HIV・エイズに対する偏見に対抗する啓もう活動は、反アパルトヘイトや核放棄などといったテーマにも広がり、アートを使って人々にメッセージを発信し続けた。
「アートは不滅」。生き続けるキース・へリングのレガシー
へリングは、常にアートを通じた人々との交流を大切に考えていた。さまざまな人種、あらゆる世代が行き交う地下鉄という場所をはじめに選んだのも、そこですれ違う人々との対話を期待してのこと。さらには、自身がデザインした商品を販売する「ポップショップ」の活動を通じて、普通の日常にアートを溶け込ませることを実践した。そして、第5章「アートはみんなのために」で紹介されるのは、へリングが子どもたちのために発信したアートの数々だ。
へリングは1986年7月6日に記した日記の中で次のように書いている。
“子どもたちは ぼくたちが忘れてしまっている「なにか」を知っている
子どもたちは毎日生きていることに満足している
それは本当はとても大切なことで
そのことを理解して尊重することができたら 大人たちは救われるんだ“
Keith Haring, Keith Haring Journals,1987
日本でも多摩市で500人の子どもたちと共同制作をしている。1983年を皮切りに、日本には5回ほど訪れたヘリング。彼にとって日本は東洋思想に触れ、「書」からも影響を受けた、大きな意味のある国だったそうだ。「ポップショップ」の2号店を出店したのも日本だ。最終のコーナーにはヘリングと日本とのつながりを示す貴重な品々の展示もある。
「アートは不滅」。そう言葉を残したとおりに彼の作品はいまも生き続ける。
All Keith Haring Artwork ©Keith Haring Foundation