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岡山に生まれアメリカを代表する画家となり
激動の人生を駆け抜けた、“クニヨシ”とは?

展覧会レポート

「国吉康雄展 ~安眠を妨げる夢~ 福武コレクション・岡山県立美術館のコレクションを中心に」展示風景
「国吉康雄展 ~安眠を妨げる夢~ 福武コレクション・岡山県立美術館のコレクションを中心に」展示風景

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国吉康雄という画家をご存じだろうか。「クニヨシ」と聞くと浮世絵師の歌川国芳を思い浮かべる人もいるかもしれないが、日本の美術界にはもう1人、世界で活躍した「クニヨシ」がいたのだ。

明治期の岡⼭に⽣まれ、16歳で単⾝アメリカに渡り画家を志した国吉康雄(1889‐1953)は、憂いに満ちた女性像や暗喩的な静物画、あるいはカゼイン絵具を用いてサーカスや道化などを描いた、明るくも不穏さを漂わせる白昼夢のような作風で、戦中・戦後のアメリカを代表する画家の1人となった。

そんな国吉の生涯と画業を一望する展覧会が、茨城県近代美術館で開催されている。多くの国吉作品を有する「福武コレクション」と岡山県立美術館の所蔵作品を中心に約170点の作品と、最新の研究成果や資料により、国吉の波乱に満ちた生涯と、作品に込めたメッセージをひも解く。

美術館・展覧会情報サイト アートアジェンダ 展覧会情報
国吉康雄展 ~安眠を妨げる夢~ 福武コレクション・岡山県立美術館のコレクションを中心に
開催美術館:茨城県近代美術館
開催期間:2023年10月24日(火)~12月24日(日)

国吉が到達した、明るく不穏な“夢”の世界

本展の副題は、「安眠を妨げる夢」。一抹の不安を覚えるタイトルだが、これは晩年期に国吉が描いた同名の作品に由来し、本展はこの作品で幕を開ける。描かれているのは空中ブランコをする2人のサーカス団員だが、楽しいショーのはずが、この後に何か恐ろしいことが起きそうな胸騒ぎを覚える。

国吉康雄《安眠を妨げる夢》 1948年(昭和23) カゼイン、ゲッソパネル 福武コレクション
国吉康雄《安眠を妨げる夢》 1948年(昭和23) カゼイン、ゲッソパネル 福武コレクション

2人はこれから手を取り合うのか、それとも右の人物が放り出されたのか、この演技は成功するのか失敗するのか、何も分からない。そもそも右の女性の足の処理が不明瞭で、下書きの線が見えるなど、完成作なのか未完なのかさえ定かではなく、全てが謎に包まれている。本作は1948年、59歳の時の作品だが、画面全体の明るさとは裏腹に不穏な空気が漂う国吉の画風は、この後さらに進化する。

国吉康雄《ミスターエース》 1952年(昭和27) 油彩、キャンヴァス  福武コレクション
国吉康雄《ミスターエース》 1952年(昭和27) 油彩、キャンヴァス 福武コレクション

1952年、最晩年となる63歳の時に描いた《ミスターエース》は、国吉が「自分の最高作」と述べた作品で、国吉の芸術世界の到達点と言える。この時期、国吉はたびたび道化師や彼らが使うマスクを描いている。晩年期には国吉は、明るく発色し速乾性のあるカゼイン絵具を用いており、まるで発光しているかのような明るさと乾いた質感は、この時期の作品の特徴だ。しかしその明るさ、鮮やかさに反して、仮面の下の道化の眼は鋭く、何か言いたげでこちらを嘲笑するかのような口元には、背筋がヒヤリとする怜悧さを感じさせる。

単身で渡米しデビュー以来高く評価され、アメリカを代表する画家となった国吉。”アメリカンドリームの体現者”という “仮面”の下に、国吉はどんな生涯を、そしてどんな思いを宿していたのだろうか。

岡山から新天地アメリカへ

国吉康雄は1889年の岡山で、人力車の車引きの家に生まれた。これまでの解説文なら、この後すぐに「16歳でアメリカに渡り…」と続くが、本展では当時の岡山の風景写真や学校教育の資料などから、渡米前の日本の状況を掘り下げ、岡山の少年がなぜ単身渡米したのか、その背景を浮き彫りにする。

展示風景(上)(下)(写真下:若き国吉がルノアールやセザンヌの画風を学んでいた頃の貴重な作品も展示されている)
展示風景(上)(下)(写真下:若き国吉がルノアールやセザンヌの画風を学んでいた頃の貴重な作品も展示されている)

当時の日本は日露戦争による莫大な借金を抱えた状況で、国は外貨獲得のための海外労働を奨励、「富国強兵」による徴兵の手が康雄少年に迫り来ていた。その一方で、「道に金が落ちている」と噂されるアメリカ。そうした状況から、父親は康雄に200ドルを持たせてアメリカに送った。そうして1906年、16歳で労働移⺠としてアメリカ⻄海岸に渡った国吉は、夜間⾼校で美術の才能を⾒出され、ニューヨークに移住し、働きながら美術学校に通うこととなったのだ。

転機は27歳の時に訪れた。「アート・スチューデンツ・リーグ」の入学であった。新しい美術教育を求める若者たちが「同盟(League)」を組み、自分たちで講師を呼び、学ぶ場として1875年に発足したこの学校で、国吉は入学の翌年には奨学金を獲得し、働きながら夜間の授業に参加した。そして、前衛的な画家集団「ペンギンクラブ」に参加し、やがて画家デビューを果たすと、アメリカ開拓時代を思わせる作品で注⽬されるようになった。

国吉康雄《鶏小屋》 1921年(大正10)油彩、キャンヴァス 福武コレクション蔵 
国吉康雄《鶏小屋》 1921年(大正10)油彩、キャンヴァス 福武コレクション蔵 

早くからアメリカで評価された国吉は、1925年と1928年の2回パリを訪れ、パリに拠点を置くことも考えたが、結局翌1929年にはニューヨークに戻る。その年に開館したMoMA(ニューヨーク近代美術館)は、『19人の現代アメリカ画家展』で、国吉の作品を展示した。

その後の1930年代の国吉は、女性像を描くようになる。これらの制作は、モデルを使ってカンヴァスにドローイングをすると、半年は手を付けずにしまい込み、時間を空けてから描くというものであった。特定の人物としてではなく普遍的な女性像として描かれた彼女たちは、陰鬱な表情、もしくは全身から気だるい雰囲気を醸しており、この時期の国吉の作風を象徴している。

(左)国吉康雄《もの思う女》 1935年(昭和10) 油彩、キャンヴァス 福武コレクション
(右)国吉康雄《バンダナをつけた女》 1936年(昭和11) 油彩、キャンヴァス 福武コレクション
(左)国吉康雄《もの思う女》 1935年(昭和10) 油彩、キャンヴァス 福武コレクション
(右)国吉康雄《バンダナをつけた女》 1936年(昭和11) 油彩、キャンヴァス 福武コレクション
展示風景(上)(下) 本展では、インク画や、国吉が撮影した写真など、貴重な作品・資料も展示されている。
展示風景(上)(下) 本展では、インク画や、国吉が撮影した写真など、貴重な作品・資料も展示されている。

日本とアメリカの狭間で

展示風景
展示風景

1931年、体を悪くしていた父親を見舞うため、国吉は生涯で一度だけ岡山に帰郷する。国吉の帰国は新聞にも取り上げられ、歓迎ムードであった。当時の国吉は、帰国について「私は日本人であるといふことをはっきり知りました。日本人は如何に外国に深く入っても、結局外国人にはなれません。(中略)私が日本人である事を感じた事は、私の今後の芸術の上に非常にいい意義があった」と語っている。

しかし、アメリカに戻る船の中で父の死を知り、その翌年には母の死が重なり、故郷の岡山との最も強い結びつきが消えた。またこの時期は日本が満州事変によって世界から孤立する時期でもある。個人的にも社会的にも、国吉にとっての故郷が「日本」から「アメリカ」へと変わっていくこととなる。

会場には、この一時帰国を伝える新聞記事や、その頃に描いた国吉には珍しい墨絵、またこの時期に手に入れ、晩年の作品にも登場する鯉のぼりなどが展示されており、国吉の“日本人”としての一面、あるいは「日本の中での国吉康雄」を知ることができる。

戦争による分断の中で声を上げる

1930年代から40年代前半、世界は戦争の時代へと突き進む。1933年にドイツでナチス党が唯一の合法政党となって一党独裁制となり、1939年にはポーランドに侵攻、第二次世界大戦となる。また日本も1938年に中国との間で日中戦争が勃発する。そうした中で国吉は、危惧すべき事態が起きた時こそ芸術家は声を上げるべきだと主張し、この時期の作品にはそうした社会へのメッセージが込められている。

国吉康雄《逆さのテーブルとマスク》1940年(昭和15)油彩、キャンヴァス 福武コレクション蔵
国吉康雄《逆さのテーブルとマスク》1940年(昭和15)油彩、キャンヴァス 福武コレクション蔵

国吉芸術の1つの頂点とも評価される《逆さのテーブルとマスク》。台の上に逆さに置かれたテーブルは脚が1つ折れ、代わりにマスクがのせられ、その他のモチーフも崩れるか否かのギリギリのバランスで均衡を保っている。マスクを1つの“顔”と見れば1人の人間の複雑な心理状態を表すようでもあり、あるいは白い台の上に寄せ集められた状態は世界情勢そのもの、逆さのテーブルは不条理さを象徴するようでもある。本作が描かれた1940年は、オランダ、ベルギー、ノルウェーがドイツに降伏、パリが陥落し、喜劇王チャールズ・チャップリンがナチズムを批判する映画『独裁者』を発表した年でもあった。しかし、そうした芸術家たちの声も虚しく、事態はさらに深刻になる。

展示風景
展示風景

そして1941年12月7日(日本時間12月8日未明)、日本軍がハワイ州オアフ島の真珠湾を急襲(いわゆる真珠湾攻撃)、日本とアメリカ間で遂に開戦となった。これにより国吉は「敵性外国人」となり、生活は一変する。アメリカに残る決断をした国吉は、スパイと疑われないよう愛用のカメラを警察官が立会いのもと友人に譲り、双眼鏡を提出、銀行口座は差し押さえられ、スタジオに軟禁状態となった。こうした事態に対し、芸術家仲間たちは国吉を支持する署名活動を行い、国吉もまた周囲の支援に応えるように、1942年に日本への停戦勧告の原稿を書き短波放送で読み上げるなど、積極的にアメリカの戦争体制を支援する活動に身を投じた。

戦争ポスターの展示風景
画像手前:国吉康雄「敵を撲滅せよ―戦争国債を買おう」の原案/模型1943年(昭和18) 鉛筆、色紙 福武コレクション
戦争ポスターの展示風景
画像手前:国吉康雄「敵を撲滅せよ―戦争国債を買おう」の原案/模型1943年(昭和18) 鉛筆、色紙 福武コレクション

1944年にペンシルヴァニア・アカデミー「第139回年次展」で「敵性外国人」として初めての受賞を果たし、カーネギー・インスティテュート「アメリカ合衆国絵画展」では一等賞を獲るなど、国吉は「アメリカの芸術家」としては変わらず高く評価される。しかしその一方で、依然として移民法によりアメリカ人としての身分は認められず、それどころか戦時下によって「敵」とみなされる状態であった。

社会活動家・教育者としての国吉

1945年に戦争が終結すると、国吉は制作の傍ら、以前より行っていた社会活動をさらに精力的に行った。日系二世のアメリカ人を援助する活動に参加したり、強制収⽤された⽇系⼈のためのチャリティーに作品を制作するなど、社会活動家としての側面を強くする。

チャリティーのために制作された大型作品2点
(上) 国吉康雄《牛と少女》 1946年(昭和21) グワッシュ、紙 岡山県立美術館
(下) 国吉康雄《クラウン》 1948年(昭和23) グワッシュ、紙 福武コレクション
チャリティーのために制作された大型作品2点
(上) 国吉康雄《牛と少女》 1946年(昭和21) グワッシュ、紙 岡山県立美術館
(下) 国吉康雄《クラウン》 1948年(昭和23) グワッシュ、紙 福武コレクション

また、国吉は教育者でもあった。国吉は、自身が在籍していたリーグに1933年に日本人として初めて講師に選ばれ、晩年までの20年間、講義を続けていた。また、芸術家たちの未来を守るために「アーティスツ・エクイティ・アソシエーション」という団体を作り、若く無名な芸術家でも生活できるようにする仕組み作りに尽力した。法的には「アメリカ人」には遂になれなかった国吉だが、「アメリカを代表する画家」としての多くの若者の未来を支援した。そんな国吉が学生に語った最後の言葉が残っている。

「私は老人だ。
私はたくさんの人生、そして悲しみを見てきた。
だから私は憂いを満ちたものを描くことができる。
君たちが描くものはそうなってはいけない。
溢れる太陽が輝いていなければいけないんだ。」

展示風景
画面手前:国吉康雄《鯉のぼり》1950年(昭和25) 油彩、キャンヴァス 福武コレクション
展示風景
画面手前:国吉康雄《鯉のぼり》1950年(昭和25) 油彩、キャンヴァス 福武コレクション

日露戦争がもたらした現状から脱却するためアメリカに渡った国吉は、第一次世界大戦、そして第二次世界大戦という「戦争の時代」を生きた画家であった。そういう意味では戦争に運命を翻弄され続けた人生と言える。奇しくも国吉が生まれた1889年は、ナチス党党首となるアドルフ・ヒトラー、そして彼の政策を映画の中で批判したチャップリンが生まれた年でもある。

今でも世界では、天災や戦争によって様々な分断が生まれている。私たちもまた国吉と同様、“安眠を妨げる夢”の中にいるのかもしれない。世界が分断の一途をたどる中、その亀裂の境目にいた国吉が声を振り絞るようにして描いた世界は、今を生きる私たちの心の眼を覚まさせる機会となるだろう。

美術館・展覧会情報サイト アートアジェンダ 美術館情報
茨城県近代美術館|The Museum of Modern Art, Ibaraki
310-0851 茨城県水戸市千波町東久保666-1
開館時間:09:30〜17:00(最終入館時間 16:30)
会期中休館日:月曜日

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