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“藤田嗣治のお家“で心の休息を
開館1周年、充実のコレクション展示から藤田の素顔に迫る

1周年記念特別企画「ようこそ藤田嗣治のお家へ」が、軽井沢安東美術館にて2024年2月20日(火)まで開催中

内覧会・記者発表会レポート

軽井沢安東美術館 展示室5 藤田嗣治の絵の数々とともに自宅のようにくつろげる空間
軽井沢安東美術館 展示室5 藤田嗣治の絵の数々とともに自宅のようにくつろげる空間

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軽井沢安東美術館にて、開館1周年記念特別企画「ようこそ、藤田嗣治のお家へ」が開催中だ。軽井沢安東美術館は、実業家の安東泰志氏により2022年10月に開館した。世界初の藤田嗣治(ふじたつぐはる 1886〜1968)の作品のみを展示する美術館である。安東氏が妻の恵氏とともに、約20年にわたって収集してきたコレクションは、乳白色の婦人像から、中南米滞在時・戦中戦後の作品、聖母子象、猫、少女、工芸品に至るまで、藤田嗣治の画業を追った約200点にのぼる。

美術館・展覧会情報サイト アートアジェンダ 展覧会情報
1周年記念特別企画 「ようこそ藤田嗣治のお家へ」
開催美術館:軽井沢安東美術館
開催期間:2023年9月15日(金)〜2024年2月20日(火)

開館後は、「軽井沢安東美術館 開館記念企画」に続き、企画展「藤田嗣治 猫と少女の部屋」、夏の特集展示「戦争の時代の藤田嗣治 1936-1945年」などを開催。その間もコレクションは充実し、擬人化された猫たちがユーモアたっぷりに描かれた《猫の教室》(1949年)や、乳白色を下地とした《腕を上げた裸婦》(1924年)などが加わった。

藤田が度々モデルとしたマドレーヌ・ルクー 初公開作品(左)《婦人像》1932年 水彩、墨・紙 軽井沢安東美術館蔵
※右作品5点のうち3点も、マドレーヌ・ルクーがモデルとなった作品
藤田が度々モデルとしたマドレーヌ・ルクー 初公開作品(左)《婦人像》1932年 水彩、墨・紙 軽井沢安東美術館蔵
※右作品5点のうち3点も、マドレーヌ・ルクーがモデルとなった作品

今回の企画展では、《猫のいる自画像》(1926年)や、藤田が度々モデルとした女性マドレーヌ・ルクーが描かれた《婦人像》(1932年)、戦後に再びフランスにもどった藤田の当時の心情を知ることができる貴重な作品《除悪魔 精進行》(1952年)、藤田が晩年を過ごしたヴィリエ=ル=バクルの邸宅を彩った陶製の飾り絵皿《猫のキリスト》(1958年)などが初公開されている。

安東夫妻は東京の自邸で藤田の絵、中でも少女と猫の作品に癒されながら魂の救済を得てきたという。「藤田と一緒に旅をすることで、魂の救済、成長を得られる場所を設けたい」。開館1周年記念式典において、安東氏は美術館創設に至った思いを改めて語った。現役の実業家が創設した美術館であり、さらにそのコレクションが増え続けていることもひとつの特徴である。私設美術館ならではのコンセプトが随所に感じられる、自宅のようにくつろげる空間で、藤田の作品をたどりながらその素顔に迫りたい。

乳白色の下地、中南米への旅、戦争ーー                世界的な画家となった藤田は、動乱の時代に直面していく

軽井沢安東美術館 展示室2(緑の部屋)
軽井沢安東美術館 展示室2(緑の部屋)

藤田嗣治は1886年に東京牛込区(現・新宿区)に生まれた。陸軍医師の父を持った藤田は、医師の道に進むことを当然視されていたが、幼い頃から絵の才を発揮し、次第に画家になる思いを強めていく。14歳の頃、手紙で画家を目指す志を伝えると、父は理解を示し、画材購入のための資金を支援した。決意を固めた藤田は東京美術学校西洋画科で油彩を学んだのち、1913年、26歳の頃に単身フランスに渡る。

芸術家たちの中心地パリ・モンパルナスに居を構えた藤田は、ピカソやシャガール、ブランクーシ、モディリアーニなど、エコール・ド・パリの名だたる画家たちと交流しながら創作に励んだ。キュビスム、フォービスム、シュルレアリスムといった大きな潮流の渦中、他と異なる表現を追い求め、肌の質感の描き方に着目し、やがて「乳白色の下地」にたどり着く。

2階の最初の展示室となる緑の部屋(展示室2)のテーマは「渡仏~スタイルの模索から乳白色の下地へ」。ここでは藤田のキャリアの基盤となる作品群が展示されている。パリで暮らし始めた頃の素朴な風景画や、聖女の図、しなやかでやわらかい裸婦の乳白色が輝きを見せる。白の陰影が生み出す滑らかな肌理(きめ)、ほのかな血色、内奥まで透けるような透明感を放つ独特の乳白色。藤田が到達した乳白色の下地はパリ画壇で喝采を浴びた。この乳白色を成す技法は日本でも見られない藤田独自のもので、現在も研究対象とされているが、日本画特有の繊細な輪郭線もあいまって、異国の地では日本らしい美として高い評価を得た。

軽井沢安東美術館 展示室3(黄色の部屋) 撮影:Takahiro Maruo
軽井沢安東美術館 展示室3(黄色の部屋) 撮影:Takahiro Maruo

隣に続く黄色の部屋(展示室3)のテーマは「旅する画家~中南米、日本、ニューヨーク」。当時のパートナーであったマドレーヌ・ルクーを連れて旅立ったメキシコ旅行中に現地で制作された作品や、初公開となるマドレーヌ・ルクーを描いた《婦人像》(1932年)も展示されている。白と淡い灰色の陰影で描かれたマドレーヌの肌は、触れずとも伝わるような、やわらかい輝きを見せる。資料も豊富に展示されており、手帳にリズム良くびっしりと書き込まれた藤田自筆の文字にも注目したい。

藤田嗣治 自筆の手帳(1939年9月~1940年4月)
藤田嗣治 自筆の手帳(1939年9月~1940年4月)

やがて、二度目の世界大戦は本格化し、時代は過酷さを増していく。1938年以降、藤田は従軍画家として活動を始め、戦争を扱う書物の装幀やポスター、絵葉書の制作にも携わっている。1942年、陸軍省・海軍省より戦争画を制作する画家として任命される。こうして幾度も戦地に赴き、敗戦後「戦争協力者」というレッテルを貼られる要因となった戦争画を手がけることになる。

嘘、からかい、ゴシップ、嫉妬ーー                  魔を祓い清めるかのように、藤田は少女に聖母の面影を見出だす

軽井沢安東美術館 展示室4(青の部屋)
《除悪魔 精進行》1952年 油彩・ガラス(画面手前)
軽井沢安東美術館 展示室4(青の部屋)
《除悪魔 精進行》1952年 油彩・ガラス(画面手前)

「財もない」「アトリエもない」「名誉もない」。「私に力を与えよ」「Gold(財)」「愛」を我に与えよ、と藤田嗣治は跪き、天を仰ぐ。藤田の周りには、妖怪のような奇妙な物体が重い足取りで地を歩く。その体にはこう書かれている。「ゴシップ」「嘘つき」「からかい」「嫉妬」「病気」「スパイ」「クレイジー」。

初公開作品《除悪魔 精進行》(1952年)の中に見られる描写だ。透明なガラス板に油彩で描かれた、藤田の希少なガラス絵作品である。敗戦後、藤田は画壇から戦争協力の責任を突きつけられる。さまざまな思惑が渦巻く中で疲弊し、画業に専念することが困難となった藤田は、フランク・シャーマン(GHQ情報教育局 印刷、出版担当官)の協力を得て、1950年、アメリカ経由で再びフランスに渡る。この頃に描かれた《除悪魔 精進行》には、当時の藤田の内面が如実に表現されている。

極めて私的な心象が描かれた本作は、画家の苦悩、そして人間性を浮かび上がらせる。画題を見た際、細部まで描き込まれた悪魔祓いの図を想像していたが、戯画のように軽やかなタッチで描かれている点が興味深い。赤、黄、ピンク、青などの鮮やかな色彩が目を引き、不穏な世界観の中にも、どこか自虐的なユーモアが漂っている。戦争責任を問われ、失意の末に日本を去った藤田の心情を思うと、心が荒み、自暴自棄になることも想像に難くない。しかし、本作は悲嘆なムードに終始せず、客観的、内省的に自己を見つめる藤田の冷静さや、ユーモアを交えた表現に昇華する洒脱な感性を伝えてくれる。

本作で描かれる藤田の右手には、本のような長方形の物体が掲げられており、「少しの才能」と書かれている。この言葉からは、すでに世界的な評価を得ていた画家が耐え忍んでいた抑圧や、無力感、あるいは表現の高みを目指すがゆえの焦燥を感じ取ることができる。そこには巨匠・藤田でなく等身大の人間・藤田が存在する。誰もが生きる中で避けて通れない世間の理不尽さに憔悴し、時に自身を悲観し、天に助けを求める姿は、観る人と藤田の距離を近づけてくれるだろう。

軽井沢安東美術館 展示室4(青の部屋) 撮影:Takahiro Maruo
軽井沢安東美術館 展示室4(青の部屋) 撮影:Takahiro Maruo

《除悪魔 精進行》は青の部屋の入り口に展示されている。青の部屋のテーマは「ふたたびパリへ~信仰への道」だ。戦争で大きな挫折を味わった藤田が1955年にフランス国籍を得てから、1959年にランスの大聖堂でカトリックの洗礼を受け、レオナール・フジタとして生きていくまでの道程をたどることができる。聖母マリアを思わせる青い壁を背景に、静かにこちらを見つめる少女たち。あどけない顔はやがて聖女の面影を帯びていく。奥には聖母子像が掲げられ、教会さながらの祈りの空間が広がる。ここに身を置くと、自然と心が静まり、安らかさを取り戻していくようである。

少女と猫の大団円 愛らしき存在と対話しながら、藤田とともにくつろぐ

軽井沢安東美術館 展示室5(赤の部屋)
軽井沢安東美術館 展示室5(赤の部屋)

軽井沢安東美術館の真骨頂とも呼べる赤の部屋では、安東氏の東京の自宅が再現されている。ゆったりとしたソファが並び、天井にはシャンデリアが光る。赤の部屋のテーマは「少女と猫の世界」であり、安東コレクションの中核を成す作品群が展示されている。まさに少女と猫の大団円といえる“かわいい”に祝福された空間は、見渡す限りの愛らしさに満ちており、自然と心が華やいでいく。

軽井沢安東美術館 展示室5(赤の部屋)
軽井沢安東美術館 展示室5(赤の部屋)
軽井沢安東美術館 展示室5(赤の部屋)
軽井沢安東美術館 展示室5(赤の部屋)

藤田は「私には子どもがいない。私の画の子どもが私の息子なり娘なり一番愛したい子どもだ」と語ったという。少女にモデルはおらず、ほとんどが藤田の想像で描かれたそうだ。ずらりと並ぶ作品群からは、少女と猫はお手の物といった、ある種、画家の職人気質な一面も覗かせるが、藤田が命を吹き込んだ愛らしき存在たちは、似通った表情をしつつも決して同調することなく、自立した表情で語りかけてくる。キャプションをあえて排除したこの展示室では、自然と作品との対話が生まれていく。

少女の瞳は愛らしくも生意気、どこか物言いたげ。猫はめっぽう愉快で企み顔。自由気まま。無邪気という一言で表しがたい内面の奥行きを秘めた少女と猫。藤田の永年の画題として繰り返し描かれ続けたことにも頷ける。

「自分は細いながらも鋼鉄のような強靭の線を引きたい」

こう語る藤田の言葉からは、少女と猫という一見無邪気で弱き存在に、その中枢を凛と貫く強靭な一筋を探し当て、筆を入れようとする気概を感じさせる。藤田作品では少女が聖女として描かれたり、猫が十字架を背負ったキリストとして描かれたりする。これら二つの存在は、画家の内面の投影はもとより、心の癒し、神秘の探求にまで呼応する恰好の題材だったのではないか。少女と猫に宿る無自覚だからこそ抗しがたい原生の美は、今後も強い引力を放ち続けるだろう。

魂の彷徨の末にーー 終の住処で見せる、藤田の朗らかな表情

軽井沢安東美術館 屋根裏展示室
軽井沢安東美術館 屋根裏展示室

3階の屋根裏展示室では、エッチングに手彩色を施した藤田の挿画や素描などが展示されている。挿画はパリの古文書学者ルネ・エロン・ド・ヴィルフォス氏による豪華本『魅せられたる河』(1951年)に掲載されたもので、安東氏が藤田作品を集めるきっかけとなった作品《ヴァンドーム広場》もここで観ることができる。

また、初公開作品の飾り皿《猫のキリスト》(1958年)や、油彩で絵付けされたガラス瓶、寄木細工、陶器などの手仕事、藤田の妻の君代夫人のご遺族から寄贈されたという貴重な写真も必見だ。初公開となったプライベート写真では、パリ郊外にあるヴィリエ=ル=バクルの自邸でくつろぐ、藤田の朗らかな表情を見ることができる。吹き抜けとなった中庭から光が差し込む開放的な空間での鑑賞も心地良い。

軽井沢安東美術館 屋根裏展示室より
軽井沢安東美術館 屋根裏展示室より

企画展タイトルに「藤田嗣治のお家」とあるが、実際の画家の人生においては、その住処が同じ土地にとどまることは少なかった。動乱の時代による避けられない運命だったとはいえ、藤田の魂は常に安住の地を求め続けていたのだろう。

開館1周年記念式典において、フランス出身の美術史家・ソフィー・リチャード氏は「フジタはフランスでもっとも有名な日本人だった」と述べている。二度の世界大戦を経験し、日本との別離を余儀なくされた画家は、度重なる苦難に遭遇しながらも決して創造の源泉を絶やさず、現代では日本が誇り、追い求める画家となった。この展示の最後に出会う藤田の表情が、穏やかな笑顔であったことを喜びたい。

“藤田嗣治のお家“は、洒脱で温和。神秘が潜み、どこまでも優美だ。ぜひ、友人の邸宅を訪ねるように、ゆっくりとくつろぎにいらしてはいかがだろうか。

軽井沢安東美術館
軽井沢安東美術館
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軽井沢安東美術館|Musée Ando à Karuizawa
389-0104 長野県北佐久郡軽井沢町軽井沢東43番地10
開館時間:10:00~17:00
定休日:水曜日(祝日の場合は開館、翌平日が休館)

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