FEATURE

これぞナニワの心意気!
大阪・近代日本画展の決定版「大阪の日本画」

東京ステーションギャラリー 学芸室長 田中晴子氏・大阪中之島美術館主任学芸員 林野雅人氏に聞く、
東京ステーションギャラリーにて現在開催中の「大阪の日本画」展の主な出展作の見どころ

内覧会・記者発表会レポート

展示風景より。北野恒富作品が居並ぶ第1章
展示風景より。北野恒富作品が居並ぶ第1章

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構成・文・写真:森 聖加
構成・編集:小林春日

初開催にして、決定版。「大阪の日本画」という揺るぎないタイトルを冠し、明治から昭和前期にかけて近代大阪で活躍した作家、男女合わせて50名以上の作品がそろう大規模展覧会には、主催の東京ステーションギャラリー、そして大阪中之島美術館の熱い思いが込められている。人物画、文人画、新南画、浪速風俗画……と多ジャンルにわたり、いままで多くが語られてこなかった作品には、かつての商都、大阪の姿が色鮮やかに。東京ステーションギャラリー学芸室長で本展担当学芸員 田中晴子氏、大阪中之島美術館主任学芸員 林野雅人氏による解説を織り交ぜながら、ご紹介する。

美術館・展覧会情報サイト アートアジェンダ 展覧会情報
大阪の日本画
開催美術館:東京ステーションギャラリー
開催期間:2023年4月15日(土)~6月11日(日)

西に北野恒富あり。炸裂する、恒富ワールド

立体的に描かれた半襟の柄や総絞りの帯など執拗な描き込みに注目。《宝恵籠》北野恒富 1931年頃 大阪府立中之島図書館
立体的に描かれた半襟の柄や総絞りの帯など執拗な描き込みに注目。《宝恵籠》北野恒富 1931年頃 大阪府立中之島図書館

近代大阪を代表し、いま最も広く知られる日本画家が北野恒富(きたのつねとみ)だ。大阪(大坂)に由来する歴史上の人物のほか、大阪のまちに暮らした女性を多く描いた。第1章は、初期から晩年にかけての恒富作品が展示空間いっぱいに並ぶ、豪華絢爛な演出ではじまる(前後期で入れ替えあり※すべての章)。

現在も西日本の中心都市であり、商都として栄えた大阪では地元生まれの作家が活躍する一方で、北陸、四国、九州など地方から大阪に出て絵筆をとった人が数多くいた。北野恒富はそうした筆頭の存在で、石川県金沢市に生まれ、1897(明治30)年に画家を志し大阪に移住。浮世絵師、月岡芳年(つきおかよしとし)門下の稲野年恒(いなのとしつね)に入門する。

「北野恒富は、新聞小説の挿絵で大変な人気を得ました。新聞社に勤務していた際には写真の代わりになる絵やポスターの制作もしていましたから細密に描写する表現力が身に付き、《摘草》(つみくさ)のような写実的表現も得意としました。《宝恵籠》(ほえかご)は舞妓さんが祭りに向かう駕籠行列の一瞬をファインダーで切り取るように捉えた面白さがあり、華やかで人気が高い作品です」と東京ステーションギャラリーの田中氏はいう。

《護花鈴》北野恒富 大正前期 大阪中之島美術館
《護花鈴》北野恒富 大正前期 大阪中之島美術館

一堂に並んだ作品を見渡して一番に驚かされるのは、ひとつの型におさまらない女性の姿。《護花鈴》(ごかれい)では秀吉の側室、淀君と思われる女性を気位高く。大川(旧淀川)の南に広がる大阪の経済と文化の中心地、船場(せんば)に暮らした商家の娘を描いた《いとさんこいさん》は上品に。晩年の作《真葛庵之蓮月》(まくずあんのれんげつ)にいたっては、女性の心の内まで写し取ろうと試みた。後期では「画壇の悪魔派」とも評された恒富を象徴する、デカダンな雰囲気をまとった芸妓がこちらに視線を向ける《鏡の前》《暖か》が展示予定だ。

《いとさんこいさん》 北野恒富 1936年 京都市美術館
《いとさんこいさん》 北野恒富 1936年 京都市美術館

「時代に応じて描きたいものを描き、画風を展開させていった恒富の作品に共通していえるのは、着物の柄をはじめとする執拗な描き込みと作品に込められた物語性です。《いとさんこいさん》では二人の姉妹が七夕について話していることを想定して描いています。黒い着物のいとさん(お姉さん)は楽しそうに話しているけれども、こいさん(小さいいとさん、の意=妹)はうつむき加減で、でも草履は無造作に脱ぎ捨てて奔放でしょう? 姉妹の着物に黒と白という対照的な色を用いて、コントラストのある魅力的な屏風に仕上げています」(田中氏)。

恒富門下の才能も集結

「白耀社」に集った木谷千種の《芳澤あやめ》(左)と中村貞以《失題》。手が不自由であった貞以は両手で筆を挟む「合掌描き」で個性的な人物を手掛けた
「白耀社」に集った木谷千種の《芳澤あやめ》(左)と中村貞以《失題》。手が不自由であった貞以は両手で筆を挟む「合掌描き」で個性的な人物を手掛けた

恒富は男女を問わず後進の指導にも熱心だった。主宰した画塾「白耀社(はくようしゃ)」には樋口富麻呂(ひぐちとみまろ)、中村貞以(なかむらていい)がいて、たくさんの女性も集った。自ら画塾を率いた女性、島成園(しませいえん)、木谷千種(きたにちぐさ)らにも門戸を開き、ともに展覧会を開くなどして人物画の発展に大きく寄与した。島、木谷は展示後半でも取り上げられる、大阪で活躍が目覚ましかった女性画家の先駆。木谷は12歳で米・シアトルに洋画を学んだハイカラ女性でもあった。

文人画にも大阪の気風が

展示風景より。左から田能村直入《花鳥図》、河邊青蘭《武陵桃源郷》、水田竹圃《桐江暁晴》。河邊青蘭は女性で、大阪一と認められた存在
展示風景より。左から田能村直入《花鳥図》、河邊青蘭《武陵桃源郷》、水田竹圃《桐江暁晴》。
河邊青蘭は女性で、大阪一と認められた存在

江戸時代からの流れで、続く章では文人画が紹介される。「大阪では漢詩や漢文の教養を身に付けた市民が多かったこともあり、明治以降も文人画の人気が続きました。需要のある大阪に西日本各地から文人画家を目指した人々が集まって、秀作が数多く生まれました」(田中氏)。大阪商人が好んだ文人画は、明るく華やかである一方、現代アートのようなモダンで力強い作品もあり、現代の私たちが見てもなじみやすい。

船場派-商家の床の間を飾る

雌雄の孔雀を描いた平井直水《梅花孔雀図》(左)は1904年のセントルイス万博で銀メダルを獲得
雌雄の孔雀を描いた平井直水《梅花孔雀図》(左)は1904年のセントルイス万博で銀メダルを獲得

大阪の地域名がそのまま画派の名を表すのが京都、四条派の流れを汲む「船場派」だ。商人が好んだ作品は、華やかに床の間を飾る花鳥画が人気を博したと同時に、ユーモアを含んだ可愛らしい絵も描かれている。

商いのまち、船場では縁起が大事? 中央が森一鳳の《藻刈舟》
商いのまち、船場では縁起が大事? 中央が森一鳳の《藻刈舟》

「例えば、森一鳳の《藻刈舟》(もかりぶね)は商いをする人々に非常に人気がありました。なぜかというと、タイトルと名前を繋げると、藻を刈る一鳳(いっぽう)と『儲かる一方』になるからだそうです。その弟子は『儲かる二鳳(にほう)』です」。え、つまり儲けも二倍? そんな洒落も商人のまちゆえ。「こうした作品の成り立ちは、展覧会に出展するために描く作品とは異なっており、船場派には注文主と画家の距離の近さが感じられます」(田中氏)。

日本らしい、新しい南画を模索した矢野橋村

いずれも矢野橋村で《湖山幽嵒》(左)と《柳蔭書堂図》
いずれも矢野橋村で《湖山幽嵒》(左)と《柳蔭書堂図》

人物画の発展に寄与した北野恒富に並んで、近代大阪を代表する日本画として大きな足跡を残したのが「新南画」と呼ばれる既存の南画を超える新しい表現を目指した矢野橋村(やのきょうそん)。南画とは中国の明時代に長江の下流域、江南地方で生まれた山水画である南宗画(なんしゅうが)の影響を受け、漢詩文の素養ある人々に支持され発展したジャンルで、橋村は旧来の南画に日本的な要素を多分に取り入れ表現の革新をすすめた人物だ。

「橋村は、愛媛県今治市から大阪に出て、軍事工場で働きはじめて一週間で機械に挟まれ左手首から先を失ってしまいます。その後、右手一本で画業に専念する決意をした人です。当時は、大阪ではやはり南画が人気でしたので、橋村は憧れた中国に数回訪問しながら中国風の絵を描き、ある程度人気は出たのですが、なんせ絵が売れない。名前にかけて、橋村=きょうそん(今日損)すると言われまして」と話すのは林野氏。「だから《湖山幽嵒》には橋村一智子明(きょうそんかずともしめい)と銘を入れてある。今日は損はと名前を変えて縁起を担いだわけです」。意外なところでの苦労もあったようだが、橋村は日本南画院の創立にたずさわり、大阪美術学校の初代校長を務めながら独自の画風を極めていった。

市井の生活、天神祭、文楽――大阪の風物を描く

《阪都四つ橋》 菅楯彦 1946年 鳥取県立博物館
《阪都四つ橋》 菅楯彦 1946年 鳥取県立博物館

明治から大正にかけて、大阪では新しい表現を模索する動きが画家たちのなかで活発になるなかで、大阪庶民の生活をいきいきと表現したのは、菅楯彦(すがたてひこ)だ。「影の表現、まったりした墨の感じ。人物の表現をじっくりと見て欲しい」と田中氏。近代化により失われつつあった大阪の風俗を描いた「浪速風俗画」(なにわふうぞくが)は、菅によって確立された。菅は舞楽や御神楽などを力強く描き切るいっぽうで、市場を歩く人々のにぎわいや、魚を売り買いする掛け声までもが聞こえてきそうな日常の風景を洒脱なタッチで表現した。

当り鉦の音を響かせ幾艘もの船が川面を走る船渡御(ふなとぎょ)の光景。《天神祭》 生田花朝 1935年頃 大阪府立中之島図書館
当り鉦の音を響かせ幾艘もの船が川面を走る船渡御(ふなとぎょ)の光景。《天神祭》 生田花朝 1935年頃 大阪府立中之島図書館

弟子の生田花朝(いくたかちょう)は、女性として初の帝展特選を得た人物。師が人々に向けた温かな視線を受け継ぎながら、日本三大祭りのひとつとして知られる天神祭など人々の心が湧きたつ大阪の祭礼を溌剌と描いた。

生田花朝の作品がズラリと並ぶ一室
生田花朝の作品がズラリと並ぶ一室

さらに、徳川後期の大坂の夏には大川に屋形船が浮かび、物売りや落語など芸能の小舟も出て、人々は思い思いに夕涼みのひと時を楽しんだ。この大坂ならではの浄瑠璃を情緒豊かに描いたのは木谷千種。

右は木谷千種《浄瑠璃船》。水の都、大坂を象徴する作品
右は木谷千種《浄瑠璃船》。水の都、大坂を象徴する作品

行燈を掲げて太夫と三味線弾きを乗せた浄瑠璃船の向かいには、良家の娘が乗った屋形船が横付けされ、江戸時代、大坂の飛脚屋で実際に起こった横領事件を元に作られた遊女梅川と飛脚屋の忠兵衛の悲恋の物語「傾城恋飛脚 新口村の段(けいせいこいびきゃく にのくちむらのだん)」が語られる。三味線を弾く女性のうなじと、目を閉じて耳を傾ける娘の姿が美しい。

飛躍する女性画家

《祭りのよそおい》 島成園 1913年 大阪中之島美術館
《祭りのよそおい》 島成園 1913年 大阪中之島美術館

最終章では改めて大阪で活躍した女性画家の作品がクローズアップされる。実際、その活躍の多さには目をみはる。「大阪では特に富裕層のあいだで子女に教養として絵を習わせる傾向がありました」と田中氏は指摘。堺に生まれ大阪市内で移り絵を独習した島成園の《祭りのよそおい》には、4人の可愛いらしい子供の姿が。しかし、左側で長椅子に腰掛ける3人の子どもたちと右側に立つ女の子ではその装いの違いがあきらかだ。「さらに、左の良家の子たちの中でもどうやら格差があるらしいのです。成園は社会派的な視点を持ちつつ、物語の背景をうまく切り取りながら、子供を描くのが得意でした」(田中氏)。

《店頭の初夏》 吉岡美枝 1939年 大阪中之島美術館
《店頭の初夏》 吉岡美枝 1939年 大阪中之島美術館

島の約20年あとに大阪道頓堀に生まれたのが吉岡美枝。院展でも活躍した画家だ。「伊東深水が三都の女性の特徴を上げた時に、大阪の女性はいち早く流行を取り入れると指摘しているのですが、そんな積極性が絵に表れているのが吉岡の作品。マネキンの前に立ちショーウィンドウを眺める女性の姿は、決して流行の衣裳にも負けていません。緑の帽子とワンピースのマネキンに対して、女性はストライプの入った白い上着にピンクの花を付け、鮮やかな赤い鞄を手に持っています。服装で今風を描き切って、完成度高く仕上げているところがこの作品の魅力かなと思います」(田中氏)。

書き直しが迫られる「日本美術史」

《雪の大阪》池田遙邨 1928年 大阪中之島美術館
《雪の大阪》池田遙邨 1928年 大阪中之島美術館

これほどまでの作品の数々がいままで省みられてこなかったのが、ただ不思議、というのが正直な感想だ。そこにはいわゆる「日本美術史」はだれによって、どんな視点で編まれてきたのかという問いが横たわる。日本に限らず多くの国、地域の「歴史」においてさまざまな問い直しがはじまっている。自らの目で見、感じたものを自由に受け止め、既存の枠組みを超えていく絶好の機会としたい。

美術館・展覧会情報サイト アートアジェンダ 美術館情報
東京ステーションギャラリー|TOKYO STATION GALLERY
100-0005 東京都千代田区丸の内1-9-1
開館時間:10:00~18:00(最終入館時間 17:30)
休館日:月曜日(月曜日が祝日の場合は火曜)、年末年始、展示替期間

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