造形化された“衝動的な生命の過程”
―「アール・ブリュット」とは何か?―
滋賀県立美術館で、企画展「人間の才能 生みだすことと生きること」が開催中
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構成・文 小林春日
「人間の才能 生みだすことと生きること」――現在、滋賀県立美術館で開催されている展覧会名である。人間が持つ「つくる=生みだす」という才能の本質を再確認する、という意図が込められている。この展覧会で紹介されている作品の多くは、いわゆる「アール・ブリュット」といわれる作品の作り手たちによるものである。「生みだすこと」と「生きること」が一体になっているような人たちの作品を紹介する、という説明が冒頭にある。それと同時に、「アール・ブリュットという概念(の難しさ)」への考察がこの展覧会の出発点に据えられている。
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- 「人間の才能 生みだすことと生きること」
開催美術館:滋賀県立美術館
開催期間:2022年1月22日(土)〜2022年3月27日(日)
「アール・ブリュット(art brut)」とは、フランス語で「生(なま/き)の芸術」を意味する言葉で、芸術的文化によって傷つけられていない人たちによって制作された独自の表現を指す概念として、1940年代にフランスの画家、ジャン・デュビュッフェ(1901-1985)が提唱したものである。
滋賀県には、日本の社会福祉・障害者教育の発展に先駆的役割を果たした、糸賀一雄、池田太郎、田村一二らによって1946年に創設された「近江学園」(障害のある児童等の入所・教育・医療施設)がある。そして、主に知的障害のある人たちによって、その土地の良質な粘土を素材とした造形活動が始まった。その後、落穂寮、信楽青年寮、一麦寮といった県内の多くの福祉施設にもその活動が活発に展開され、今に至っている。
滋賀県立美術館は、そのような福祉施設を擁する滋賀県内にある美術館として、「アール・ブリュット」と呼ばれる作品群の収集をしている。2008年には「アール・ブリュット—パリ、abcdコレクションより—」展を、2015年には「生命の徴 滋賀とアール・ブリュット」展を開催し、2016年度より「アール・ブリュット作品収集方針」を定めて収集を始め、現在、アール・ブリュットのコレクションは、滋賀県内のみならず、国内作家の絵画・陶芸作品を中心に約160点ほどとなった。そして2022年現在、今回の企画展「人間の才能 生みだすことと生きること」の開催を迎えた。
2021年6月、約4年の休館期間を経てリニューアルオープンをした滋賀県立美術館は、同年1月に新しい館長(ディレクター)を迎えている。2000年から約20年間、東京国立近代美術館でキュレーターを務めた保坂健二朗氏である。現在開催中の企画展「人間の才能 生みだすことと生きること」は、かねてよりアール・ブリュットの研究を続けている保坂氏がキュレーションを担当している。
保坂氏が、アール・ブリュットを専門とするようになったきっかけは、幼少期に家族とともに足を運んでいた砧公園内にあった世田谷美術館が、アンリ・ルソーなどの素朴派やアールブリュットの作品を所蔵しており、子ども心にそういった絵に面白みやシンパシーを感じていたこと。その後、1999年に東京都美術館で開催された、「このアートで元気になる : エイブル・アート'99」という障害者による作品を紹介した展覧会に出会ったことも大きいという。そのタイトル通り、確かに「元気になった」ことに面白さを感じたそうだ。また、大学院時代に、ハンス・プリンツホルンの『精神病患者の造形(Bildnerei der Geisteskranken)』の原書を読んだことなどを通じて関心を深め、次第に、アール・ブリュットに関する執筆や展覧会の企画の依頼を受けるようになるなど、より専門的に携わるようになる。そして、アール・ブリュットを通じて、様々な形で滋賀県とのつながりがあった中で、館長の打診を受けたことから、滋賀県立美術館の館長に就任することとなった。
滋賀県立美術館は、日本の公立美術館として、「アール・ブリュット」を収集方針のひとつに掲げて収蔵するという先駆的な活動を続けているが、「しかしながら、様々な批判を頂戴しているのも事実です。」と保坂氏は語る。それはどういったことか。
「誰に作品の良し悪しを決める権利があるのかという意見や、従来の美術作品とは異なるものが展示されるようになることで美術館が変質してしまうことに対する危惧感の表明、あるいはアール・ブリュットなんてラベルをつけずにただただアートとして受け止めるべきだという提言などです。」
もともとアール・ブリュットというのは、硬直化しつつあった美術、美術史、美術館のあり方に対する異議申し立てのように生まれた概念であることから、そういった意見が出てくるのはある意味当然のこと、と保坂氏は捉える。
「アール・ブリュット」というのは、そもそも何だろうか?そういう言葉は必要なのだろうか?美術館というのはいったいどんな作品のための場所なのだろうか?――
そんな疑問への回答ともなるように企画された意欲的な展覧会であり、あらためて考えを深めていく場として、「起承転結」の4章で構成されている。
日本のアール・ブリュットは、まず海外で注目され、評価されてきた。本展で紹介されている作家も、スイス・ローザンヌにある美術館アール・ブリュット・コレクションで開催された「ジャポン展」(2008年)、フランス・パリのアル・サン・ピエール美術館で開催された「アール・ブリュット・ジャポネ」展(2010年)に作品が展示された、澤田真一、喜舎場盛也のほか、オランダ・スイス・イタリア・イギリス・フランス・ドイツなどの各地で、澤田、喜舎場をはじめ、古久保憲満、冨山健二、藤岡祐機、岡崎莉望、井村ももか らの作品が出展されている。鵜飼結一朗は、2020年、アメリカン・フォークアート・ミュージアムが作品を購入したことが「The Art Newspaper」で報じられている。
上記に挙げた8名の作家に続いて、上土橋勇樹の作品が展示されている。上土橋は、今後注目を集めるであろう作家であり、デジタルネイティブ世代らしい作品を作る作家として、今回の企画展で紹介している。
アール・ブリュットの定義について、保坂氏が引用しているジャン・デュビュッフェのテキスト(1949年、パリの画廊で開催した企画展で発表した)の一部を紹介すると、
(末永照和『評伝ジャン・デュビュフェ アール・ブリュットの探究者』青土社、2012年、118-119頁。)
※下線は、本記事筆者による。
ハイデルベルク大学(ドイツ)の精神科医であり、ウィーンで美術史を学んだという経歴も持つハンス・プリンツホルン(1886-1933)が1922年に世に問うた著書『精神病患者の造形(Bildnerei der Geisteskranken)』に23歳の頃に出会ったジャン・デュビュッフェが、そこで紹介されていた作品に深い関心を覚え、のちの1945年頃に生みだした言葉=概念が、アール・ブリュット(なまの芸術)であった。
たとえば、キュビズムや印象派、シュールレアリズムなどといった時代の流れの中で生まれた新たな表現方法や芸術運動などが、芸術家らに影響を与え、いつしかその時代の美術の流れを形作ろうとも、そういった周辺のできごとに感化されたり、影響を受けることはなく、また既存の造形物を模倣することもほとんどあるいはまったくない。作品への評価を求めたり、対価を求めたりすることもなく、「自分の衝動から」のみ作品がつくりだされる点で、独創性がある。
本展の前半部で紹介されている、日本のアール・ブリュットの作家の代表作から、いくつか見ていきたい。
先にも《妖怪》の画像を紹介した、滋賀県生まれ、在住の鵜飼結一朗(やまなみ工房)は、図鑑やアニメで見知った動物、恐竜、昆虫、キャラクター、侍、骸骨たちが練り歩くイメージを描く。現在彼が所属するアトリエのスタッフが、制作を始めた当初に12色の色鉛筆を渡してみたところ、恐竜や動物の形を描いても色を塗ることはあまりなく、画面の多くが空白として残されていた。そのことを不思議に思ったスタッフが200色のセットを渡してみると、どんどん色を塗っていったという。
彼が作品を完成させるためには、色彩が重要であったこと、またそうした周囲の人との関わりによって、新たな潜在能力が引き出されたり、作品に変化が生じていく様子も興味深い。
意味を捉えきれない不思議な綴りのアルファベットを含む、コマ割りの漫画のような作品を描いたのは、先にも会場風景写真を紹介した、岐阜県生まれ、滋賀県在住の上土橋勇樹である。3歳頃から描き始め、小学1年生の頃からパソコンを使うようになる。展示作品は次の3種に分かれる。①手描きの文字、いわゆるカリグラフィ。②パソコンを使った、架空の本の表紙やDVDのジャケットのグラフィックデザイン。③人の出てくる、コマ割りの絵、といったものだ。それらに書かれている単語は見たことのない綴りになっているが、同じ綴りはほとんどなく、英語のほか、中国語やロシア語やジョージア語、韓国語、タイ語などの世界各国の言語と思われるアルファベットも用いられている。彼はしゃべらないので、基本的にこちらが想像するほかないようだ。
ジャン・デュビュッフェによるアール・ブリュットの定義の一つが、「芸術的文化によって傷つけられていない人たち」によるものだとすると、デジタルネイティブ世代の上土橋が作りだすような作品は、その定義からはかけ離れている。
しかし、アール・ブリュットの概念が生まれた1945年には、パソコンは存在していなかった。70年以上を経た現在、絵筆や粘土と同様に、造形物を生み出すツールとして、パソコンが活用されている。例えば、パソコンやスマホのOSが、時代の変化・技術の向上とともにバージョンアップを繰り返すように、アール・ブリュットの定義もバージョンアップが必要なのかもしれない。
こちらは、ハサミを用いて、極細く紙に切り込みを入れていった作品。美しいうねりができあがる。熊本県生まれ、在住の藤岡祐機がはさみと出会ったのは、5〜6歳の頃。当初は、家中の紙を思うままの形に切り続けていた。小学3年生の頃、熊本市現代美術館の開館記念展「ATTITUDE2002」に壁一面の切り紙作品を出品。紙に櫛の歯状の切り込みを入れる現在のスタイルへと変遷を始めたのは、小学4年生の頃だ。当時の切り込みは間隔が広く平面的だったが、はさみが紙を走る音と手に伝わる感触を楽しむうちに、次第に極微化を遂げ、近作では1mmにも満たないほどである。
制作の終わりには、こちらの作品の左側にもあるように、斜めに入った切込みを入れるようだ。そして、完成品には関心を失い、ぽいと放ってしまうという。現在に至るまで、1万点を優に超える作品が彼の家族の手によって保存されている。
鹿児島県生まれ、在住の冨山健二は、動物や乗り物や建物を網目で描く。あらゆるものが、網目となって描き出される造形方法だとわかると、お茶碗のようなものまで網目で描かれているため、まるでざるのように見える。
モチーフが複数となる場合は、それらを描く網目=線を躊躇なく重ねていく。線は淡々としたスピードで引かれ、色の変更も間断なく行われる。彼が顔を描いたシリーズ(本展不出品)では色や線を重ねない、という独自の造形理論があるようだ。
冨山の制作は、鹿児島県のある福祉施設で日中に行われている。施設のスタッフが止めたりページをめくったりしないと彼は同じ紙の上でどこまでも描き続けてしまうらしい。施設のスタッフが、ここら辺で次のページに行った方が良いのでは、と判断して、ページをめくってあげたり、あるいは次のモチーフを渡してあげるなどして、次の作品に移るそうだ。
京都府亀岡市にある、重度の知的障害者のための入所施設「みずのき療」に絵画教室ができたのは1964年のこと。指導を担当したのは、京都市の高校で美術教育に携わっていた西垣籌一(1912-2000)だった。彼は様々な試みを実践し、1980年から81年にかけてはトヨタ財団から助成を受ける形で画材を充実させ、集中的に造形テストを行っている。こうした指導がなされる中で生みだされた作品は高い評価を得て、1994年にはスイス・ローザンヌのアール・ブリュット・コレクションに小笹と吉川を含む計6名32点の作品が収蔵された。
本展ではレッスンを受けていた者の中から4名を選び、造形テストが行われた結果が展示されている。上の画像では、一番左にある2つの作品を観て、4名が同じように描くテストだが、その結果は、4人それぞれの個性が現れている。それ以外にも彼らの絵画作品が合わせて展示されているが、上の造形テストに現れる造形やタッチにも通じるそれぞれの個性が光っている。
「芸術的文化によって傷つけられていない」ということもアール・ブリュットの定義とされているが、美術の教育者が関わった場合、どのように考えればよいのか。そういった考察材料ともなる展示となっている。
これらのような、アール・ブリュットといわれる作品によく観られる、模倣無き独創性の魅力を考えるとき、作品に現れるインスピレーションの源を辿りたい衝動に駆られる。
保坂氏は、ブリンツホルンが「芸術性」を扱わず、「造形」を中心概念においていること、精神病患者がつくったものの造形を、感性論(美学)や文化の観点から分析することで、人間の核となる「心的な表現」という問題圏にたどりつこうとしていた点を紹介している。そして、「その100年後の今・ここに立つ私たちがすべきこと。それは多分、造形を分析して心的な表現に迫るという方法論をもっと深掘りすることだろう。」と指摘する。
ブリンツホルンは著書の中で、心的現象が直接姿を見せ、直接把握される「表出運動」という言葉も用いている。それによると、いわゆるインスピレーションといった、瞬間的なひらめきのようなものによる独創性ではないといえる。
「どの表出運動もそれ自体、一つの目的以外のいかなる目的にも本質的に服していない。その目的とは、すなわち、心的事象を具現化し、そしてそのことで私と君との懸け橋を築くことである。そして、これが自由かつ完璧に行われることが、それ自体の価値を成している。」※
そして、心的事象に形を与える段階を、「ただ独りで自己自身の造形だけを目指す衝動的な生命の過程」※と説明している。
註:ハンス・プリンツホルン「精神病者はなにを創造したのか -アウトサイダー・アート/アール・ブリュットの原点 -」ミネルヴァ書房、訳:林 晶,ティル・ファンゴア、2014年、19頁。
パウル・クレーやマックス・エルンストなどの画家らもハンス・プリンツホルンの著書によって影響を受けたようだが、芸術家らにとっては、「生きること」と「生みだすこと」が一体となった、“衝動的な生命の過程”の表出といった境地には、憧れるものがあったのではないだろうか、と想像する。
保坂氏が、「これはアートなのか、アール・ブリュットなのかと問うのではなくて、人間の才能に基づく心的な表現として分析する」ことの意義を伝えている点はここに書き留めておきたい。まずは、作品と鑑賞者の間に築かれた懸け橋を渡り、心に響いたり、心をゆさぶったりするものは何か、造型そのものをじっくり見つめることからはじめてみるのはいかがだろうか?
最後に、本展の起承転結の「結」の章における、鑑賞者への問いかけを紹介したい。
今後「人間の才能」は、どこで、どのようにして(なにを評価基準にして)、誰によって評価されていくべきなのか。新しい概念は必要になるのか。「アート」という概念をもっと変えていくべきなのか。美術館はその時どのように寄与すればよいのか。皆さんのご意見を、ぜひお聞かせください。
この章には、誰でも自由にそれぞれの思いを書き込むことができるミラー状の壁が設置されている。展覧会を鑑賞された皆さんには、鑑賞を通じて感じた思いをぜひ届けて欲しい。
参考文献:
「人間の才能 生きることと生み出すこと」図録 発行:滋賀県立美術館
「精神病者はなにを創造したのか: アウトサイダー・アート/アール・ブリュットの原点」ハンス・プリンツホルン著 出版社:ミネルヴァ書房
参照ウェブサイト:
滋賀県立美術館ウェブサイト