ナニワで道を切り開いた女性画家らの描いた
日本画に宿る想いとは?
「決定版! 女性画家たちの大阪」が、大阪中之島美術館4階展示室で2024年2月25日(日)まで開催中
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大正時代から昭和初期に、京都の上村松園(しょうえん)、東京の池田蕉園(しょうえん)と共に「三都の三園」と並び称された女性画家がいたことは、広くは知られていない。大阪出身の島成園(しませいえん)は、絵を志す者の憧れの的だった。そんな成園と、後に続いた若き女性画家たちの展示が、大阪中之島美術館で開催中だ。華やかで美しい作品、ぞっとするような心の内面を映し出す作品もあり、見応え十分だ。
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開催美術館:大阪中之島美術館
開催期間:2023年12月23日(土)〜2024年2月25日(日)
先駆者である島成園の活躍
会場に入って目についた《祭りのよそおい》は、色鮮やかな晴れ着を着た子どもたちと、粗末な身なりの子どもとの一瞬を切り取った作品だ。当時21歳の成園の瑞々しい感性が評価されて、第7回文部省美術展覧会(文展)に入選している。この前年にも幼い舞妓を描いた《宗右衛門町の夕(そえもんちょうのゆうべ)》で初入選を果たし、若き女性画家は注目を集めていた。こうして成園の実力は、広く知れ渡っていき、同世代の大阪の女性画家たちの大きな刺激となった。
成園の父は絵師で、母は鎌倉・室町時代から続く遊里の大茶屋の娘で、道具商として働いていた。兄が1人いる。その兄は弟子入りをして絵師となったが、成園は特に誰とも師弟関係を結んではいない。子どもの頃から絵を描くのが好きで、兄の手伝いなどで自然と習得したとの談話を残している。
作品からほとばしる情念
成園は愛らしい子どもを題材にした作品だけでなく、美人画でも評価を受けている。しかしそれだけではなく、内面の感情を表した作品も発表して、世間を驚かせた。
大胆に上半身をはだけた裸体の姿を描いた《おんな(原題・黒髪の誇り)》は、当時としては挑戦的な試みだったことだろう。思いつめたような表情と、女性の内面を代弁するように、迫力ある般若などの能面が着物の柄に取り入れられている。
大きなあざのある作品は成園の自画像といわれる。実際の成園にあざはないが、敢えて描いたのには理由があった。「あざのある女の運命を呪い世を呪う心持ちを描いた」と成園は語っている。男性日本画家が主流の時代に挑戦を続ける成園に対して、女性ということから心ない新聞記事も多く掲載されていた。傷ついた女性の心情と、抗えない運命を受け入れて、強く生きる様を自身の姿で表現している。
成園の代表作の1つと言われる《伽羅の薫(きゃらのかおり)》は、島原の紫君太夫と、太夫に扮した母の両者をモデルに描かれた作品だ。太夫の頭からは後光が差し、細長くデフォルメされた身体からは、デカダンな雰囲気が漂う。成園が「痛ましい濃艶さ」をテーマにした本作は、第二回帝展※に入選し、新たな境地を生み出した。ただおどろおどろしく、特異な作品だっただけに賛否両論も巻き起こったようだ。
※帝国美術院美術展覧会のこと。大正8年に文展から改組。
成園の作品の変化
《伽羅の薫》を発表して、画家として自立して生きていくかに思われた成園だが、父と兄の計らいで出会った相手と結婚を決める。この結婚がきっかけで、成園の画家としての人生は大きく変化してしまう。銀行員の妻になった頃から、スランプに陥ってしまったのだ。
その後、夫が上海支店勤務になったことから、成園も初めて海外生活を体験する。大正13年から昭和3年までの5年間は、大阪と上海を行き来する日々を送り、現地女性をモデルにした作品を多く描いた。《上海にて》は、異国文化と出合った驚きや、喜びが凝縮されていて、当時の代表作ともいわれる。以降も制作を続けるが、内面を描き出したような作品ではなく、あっさりとした作風へと落ち着いていく。
注目された「女四人の会」
成園の文展初入選後、絵画熱が高まり、女性が職業画家を目指して大阪に集う現象が起きていた。成園の後に続いた岡本更園(こうえん)、吉岡(木谷)千種、松本華羊(かよう)の3人は、大正4年までに全員が大阪から文展に入選の快挙を成し遂げる。千種と華羊は、元は蕉園の門下で東京在住だったが、それぞれ転居して在阪画家としてデビューしたことは、成園の影響もあったのだろう。
大正5年に成園を含む4人が井原西鶴の「好色五人女」をテーマにグループ展を開くと、大きな反響を集めた。皆20代前半で容姿端麗なことから、アイドル的な人気もあったようだ。
集合写真のバックに写っていた作品も、今回の展示で見ることができる。成園の《西鶴のおまん》は、男装をしている娘の色気を表現した耽美的な秀作で、注目を集めた。メンバーの先頭を走っていた片鱗が伺える。
結婚後も自由な創作を続けた木谷千種
「女四人の会」の1人である千種は、当時の女性としては珍しく10代の頃に2年未満の渡米生活を経験している。大阪出身だが、自分の意思で上京し、紹介状無しで蕉園の弟子入りを申し出た才女だ。そんな帰国子女としての一面とは裏腹に、絵のテーマに選んだのは歌舞伎や人形浄瑠璃など日本の伝統芸能や、伝統行事に関するものが多かった。
女形の歌舞伎役者をモデルにした《芳澤あやめ》は、舞台上ではなく、楽屋で台本を読む姿を描いている。役作りのために普段から女性として生活したあやめの、退廃的な雰囲気が漂う作品だ。
《をんごく》は当時20歳の千種が文展に二度目の入選を果たした作品で、わずか3歳で亡くなった異母弟への追悼の思いが込められている。盂蘭盆会(うらぼんえ)の夜の行事を、格子越しに覗いて「をんごく」の歌を聞き入る若い女性。この姿は、千種自身を投影したと明かしている。
千種は25歳で近松門左衛門研究家の木谷蓬吟(ほうぎん)と結婚し、その後も精力的に活動を続けた。家事や子育てもこなしながら、画塾を開いて後進を育て、自身も展覧会の出品と八面六臂の活躍ぶり。芸術とは無縁の銀行員と結婚して、創作に苦しんだ成園とは対照的な人生を送った。
作品に宿る若き女性画家たちの思い
千種が結婚後に自宅で開いた画塾「八千草会」には、多くの女性が集い、門下生として活躍した。ただ、活動が一時的だった人も多かったようだ。今回展示している《淀殿》は、作品に記された「喜代子」の名前から、千種の門下だった西口喜代子作品と判明した。孔雀の羽を手に持つ姿と、着物の柄に「太閤桐」の文様があることから、描かれた女性は淀殿だろうと思われる。完成度の高い作品は、公募展への応募作だったのかもしれない。
「八千草会」には、良家の夫人や令嬢の弟子も多かったが、三露千鈴もその1人だった。日本画家の母(三露千萩)と、妹と共に画塾に通い、制作に励んだ。しかし病に倒れ、22歳の若さで亡くなってしまう。《秋の一日》は、その数か月前に描かれたという。抱かれている幼女は千鈴自身で、丸髷を結う母は千萩の若き姿のようだ。病弱な千鈴を慈しみ育ててくれた母への気持ちを込めた作品が、遺作となった。《お人形》で描いた少女は、千鈴の9歳下の妹をモデルとしている。
トップランナーの役割を果たした成園の葛藤
成園の後に続いた若き女性画家たちの作品が並ぶ後に、成園の作品が1点のみ展示されている。32歳を迎えた自画像は表情に生気がなく、疲れた様子を表している。結婚を決める前は、40名もの弟子を一斉に指導できるようにと大邸宅の借家を借りていた。職業画家として生きていく決意を想像できる。結婚したのは、老いた父の気持ちを慮ったからなのか。
成園が第一線で活躍した期間は、とても短い。しかし、成園がトップランナーとして道を切り開かなければ、後に続く者は生まれなかった。50名を超える女性日本画家の足跡を辿る展示は、現代を生きる私たちに感動と共に、深いメッセージを与えてくれる。
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- 大阪中之島美術館|NAKANOSHIMA MUSEUM OF ART, OSAKA
530-0005 大阪府大阪市北区中之島4-3-1
開館時間:10:00〜17:00(最終入館時間 16:30)
休館日:月曜日 ※ただし2月12日は開館