FEATURE

藤田嗣治の心情が細かく綴られた自筆の手帳が
「戦争の時代の藤田嗣治 1936-1945年」にて初公開

軽井沢安東美術館にて、夏の特集展示「戦争の時代の藤田嗣治 1936-1945年」が9月12日(火)まで開催

展覧会レポート

軽井沢安東美術館 展示室 (写真左)《勇敢なる神風特攻隊》1944年頃 油彩・キャンバス (写真右)藤田のポートレイト写真資料 いずれも土門拳撮影 1941年
軽井沢安東美術館 展示室 (写真左)《勇敢なる神風特攻隊》1944年頃 油彩・キャンバス (写真右)藤田のポートレイト写真資料 いずれも土門拳撮影 1941年

展覧会レポート 一覧に戻るFEATURE一覧に戻る

現在、軽井沢安東美術館にて、「戦争の時代の藤田嗣治 1936-1945年」と題した特集展示が開催されている。第二次世界大戦下を日本で過ごした藤田が、この時代になにを思って制作をしていたのか、所蔵作品とともに藤田自身の文章や言葉も紹介しながら、「戦争の時代の藤田嗣治」を考える機会としている。

日中戦争が勃発した1937年、日本に帰国していた藤田嗣治は、そのまま定住をする決意とともに、東京・麹町六番町に自宅兼アトリエを構えて、精力的に制作をつづけていた。1939~1940年、藤田は一時的にフランスと往復はしたものの、戦中戦後の動乱の世を日本で過ごしていた。

本展では、タイトルにある通り、1936年から1945年までの戦時下における藤田の作品や資料を取り上げている。主な見どころは、1944年頃に描かれた、100号のポスター原画《勇敢なる神風特攻隊》の初公開や、写真家 土門拳による藤田のポートレイト写真、そして、本展の準備段階で、遺族から寄贈を受けて今回初披露されるという、藤田の心情が綴られた貴重な手帳も見逃せない。

美術館・展覧会情報サイト アートアジェンダ 展覧会情報
夏の特集展示「戦争の時代の藤田嗣治 1936-1945年」
開催美術館:軽井沢安東美術館
開催期間:2023年8月3日(木)~9月12日(火)

様々なエピソードや藤田の心情が細かく綴られた貴重な自筆の手帳

軽井沢安東美術館 展示室 藤田嗣治 自筆の手帳(1939年9月~1940年4月)
軽井沢安東美術館 展示室 藤田嗣治 自筆の手帳(1939年9月~1940年4月)

藤田は、生涯にわたって日々の出来事や、制作している作品のことなどを細々とつづる習慣があった。残された日記帳は最後の妻である君代夫人が所有しており、夫人亡き後は、そのほとんどが東京藝大に寄贈され、年譜形式の記録集『日々の記録』という形で公開されている。

軽井沢安東美術館が所蔵する、1939年9月~1940年4月までの藤田の手帳は、日記よりもさらに詳しいエピソードや時々の心情などもつづられており、『日々の記録』を補完するかたちで、藤田が別につけていた手帳だと考えられている。

今回展示されている手帳は、パリに滞在していた藤田が戦況の悪化によりパリを離れることとなった1940年5月23日の直前、同年4月14日までの記録で、藤田が肌で感じとったヨーロッパのリアルな情勢や、戦時下のパリでの生活の様子など、藤田独特の手書きの文字でびっしりとページが埋められており、当時の藤田の心情を読み取ることができる貴重な資料である。

本資料は君代夫人の遺族関係者から、軽井沢安東美術館に寄贈された貴重な資料の一部だという。ほかの資料とあわせて、今後、調査・研究を進めていく、とのこと。今後の研究によるさらなる展示の機会にも期待していきたい。

若き写真家 土門拳による、藤田嗣治に密着したポートレイト写真

1937年に新築した東京麹町六番町のアトリエで、藤田は戦中戦後の日々を過ごしたが、その日常に密着して藤田の姿を撮影したのが、当時まだ若き写真家 土門拳(どもんけん 1909-1990年)だった。

《猫とくつろぐ》1941 撮影:土門拳 土門拳記念館所蔵(協力:土門拳記念館)
《猫とくつろぐ》1941 撮影:土門拳 土門拳記念館所蔵(協力:土門拳記念館)
《額縁を作る》1941 撮影:土門拳 土門拳記念館所蔵(協力:土門拳記念館)
《額縁を作る》1941 撮影:土門拳 土門拳記念館所蔵(協力:土門拳記念館)

「土門君の出来上がった写真を見て私は驚いたのであった。私の表情をこれ程迄つかんだ写真を写した人は土門君より外にないと思った事であった。私の性格を捕らえることに成功したのは全く土門君であった。」(『写真文化』1943年3月)

トレードマークのおかっぱ頭を丸刈りにして、自らの変容と祖国の非常時への覚悟を示した藤田の1941年当時の姿と、画家の日常を切りとった貴重な写真の数々が紹介されている。

軽井沢安東美術館 展示室 藤田のポートレイト写真資料 いずれも土門拳撮影 1941年
軽井沢安東美術館 展示室 藤田のポートレイト写真資料 いずれも土門拳撮影 1941年


特攻隊が生まれた戦争末期に描かれた作品か。
藤田嗣治によって1944年頃に描かれた《勇敢なる神風特攻隊》

軽井沢安東美術館 展示室 (中央)《勇敢なる神風特攻隊》1944頃、油彩・キャンバス(左)《群犬》1936頃、水彩、墨・紙(右)《佛印・河内、安南人町》1943、油彩・キャンバス
軽井沢安東美術館 展示室 (中央)《勇敢なる神風特攻隊》1944頃、油彩・キャンバス(左)《群犬》1936頃、水彩、墨・紙(右)《佛印・河内、安南人町》1943、油彩・キャンバス

藤田の父嗣章は、小説家で医師の森鵡外の後任として陸軍軍医総監の地位に就いた人物であり、藤田の兄嗣雄の妻モトも陸軍大将児玉源太郎の娘であった。

このように藤田家は陸軍と深い繋がりがあったため、藤田が軍部に協力した背景には家柄の影響もあったと考えられるようだ。

《勇敢なる神風特攻隊》のポスターに描かれた、日本刀を傍らに構えた航空兵の姿を描いた図像は、当時、陸軍省によって掲げられた「撃ちてし止まむ」という標語を載せた広告に、しばしば見られた図像であるという。

また、画中の文字「日本に一億の特攻隊あり」から、特攻隊が生まれた戦争末期に描かれた作品と推測されている。

戦時下の藤田嗣治

軽井沢安東美術館 展示室
軽井沢安東美術館 展示室

1938年、藤田は軍部から正式に協力を要請され、中国戦線を取材している。その後1939年から1年あまりはパリに戻って滞在、精力的に制作を行うが、第二次世界大戦の勃発とナチス・ドイツのフランス侵攻により、1940年5月、帰国の途に着く。7月には東京に到着、麹町のアトリエで、戦線取材と戦争記録画制作にのめりこんでいくこととなる。

日本軍の南進と太平洋戦争の開戦にともなって、南方の戦場への取材の旅がつづくなか、藤田は緻密な風景表現から、次第に芸術的な表現を求めて、ヨーロッパの大壁画や歴史上の戦争をテーマとした絵画の研究にも力を注いでいる。

1943年初夏、有名な《アッツ島玉砕》(東京国立近代美術館蔵/無期限貸与作品)を描いたのちは、戦車や戦闘機など近代兵器の登場しない、「取材に基づく記録ではなく、西洋絵画の図像と古典の巨匠を範にフィクションとして生み出される」作品を発表するようになっていく。
※林洋子監修『旅する画家藤田嗣治』新潮社刊

終戦後の藤田嗣治

太平洋戦争が終焉したあと藤田が直面したのは、美術界における戦争責任をめぐる問題だった。画家としての技量を発揮して軍部に協力したことが、一転して戦争協力者という烙印を押され、さまざまな誹謗中傷にさらされることになったのである。

終戦後間もなく結成された「日本美術会」が、1946年7月に公開した「戦争の責任を負ふべき者」のリストのうち、「自粛を求める者」として名前をあげた8名のなかには、藤田の名前があった。1947年2月にGHQが発表した戦争犯罪者リストに藤田の名前は入っていなかったものの、日本画壇に対して強い不信感と失望感を抱いた藤田は、やがて日本を離れてフランスに戻る決心を固めた。1949年に渡仏した藤田は、その後二度と日本に戻ることはなかった。

「戦争の時代の藤田嗣治」を考える

美術界における戦争責任をめぐる問題、ということを考えた時、日本を去り、フランスに帰化した藤田の存在を抜きに考えることはできないであろう。渡仏後の藤田が「私が日本を捨てたのではない。日本に捨てられたのだ」と語っていたことが知られているが、その言葉からは藤田の無念さが伝わってくる。

藤田に、日本を永久に去る、という決断をさせたものはなんだったのか?

敗戦に至った日本で、日本人自らが、個人を戦争協力者と名指して貶め、誹謗中傷で攻撃する、といったことが起こった。そのことは、過去の歴史に過ぎないとは言い切れないのではないだろうか。歴史を経て今に至った日本は同じことを繰り返さないだろうか?愚かな戦争を繰り返さず、世界にとってより良い未来を手繰り寄せることは、そう簡単ではないのかもしれない。そんな思いが実感としてある時代だ。

「戦争の時代の藤田嗣治」を考えながら、日本のあり様や世界の未来に思いを馳せずにはいられない。

FEATURE一覧に戻る展覧会レポート 一覧に戻る

FEATURE一覧に戻る展覧会レポート 一覧に戻る