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3つの傑作と愛蔵コレクションで織りなす彫刻家
佐藤忠良の世界

「生誕110年 傑作誕生 佐藤忠良」展が神奈川県立近代美術館 葉山にて開催中

展覧会レポート

会場風景より 佐藤忠良 《帽子・夏》 1972年 ブロンズ 宮城県美術館蔵
会場風景より 佐藤忠良 《帽子・夏》 1972年 ブロンズ 宮城県美術館蔵

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彫刻家・佐藤忠良(さとうちゅうりょう 1912-2011)は、98歳という長い生涯の中で一貫して具象彫刻、特に人物像を作り続け、戦後の日本彫刻史に大きな足跡を残した。神奈川県立美術館葉山で開幕した「生誕110年 傑作誕生 佐藤忠良」展 は、佐藤の代表作として高く評価される3点に焦点を当て、その傑作誕生の背景に迫る。本展では、その手がかりとして佐藤自身が蒐集したロダンやエミリオ・グレコ、ピカソといった巨匠たちの作品を併せて展示し、佐藤忠良が何を見て、感じ、制作の糧にしていたかをひも解いていく。

美術館・展覧会情報サイト アートアジェンダ 展覧会情報
「生誕110年 傑作誕生・佐藤忠良」
開催美術館:神奈川県立近代美術館 葉山
開催期間:2023年4月22日(土)~7月2日(日)
会場風景
会場風景

宮城県に生まれた佐藤忠良は、幼少期を北海道夕張町(現・夕張市)で過ごし、中学校卒業後に画家を目指して上京する。しかし当時雑誌で見たロダンなどフランス近代彫刻に魅了されて彫刻家を志し、1934年に東京美術学校(現・東京藝術大学)の彫刻科に入学。在学中、卒業後も精力的に制作を行うが、第二次世界大戦が始まると1944年に召集され入隊、旧満州に渡った。終戦後1948年までの約3年間、捕虜としてシベリアでの抑留生活を余儀なくされるが、復員後に制作を再開。一貫して具象表現を探求し、瑞々しく気品溢れる独自の作風を確立した。彫刻家として制作を続ける傍ら、雑誌や文芸書、絵本の挿絵や紙芝居の作画など画家としても活躍し、また学校や大学での指導、美術教科書の編纂など、教育にも熱心に携った。

日本人の手で初めて日本人の顔を作った《群馬の人》

会場風景より 佐藤忠良《群馬の人》ブロンズ 1952年
会場風景より 佐藤忠良《群馬の人》ブロンズ 1952年

そうした佐藤の経歴の中でエポックメーキングとなる傑作が、本展で取り上げる3点の作品だ。一つ目の傑作として、1952年、40歳の時に制作した男性の頭部像《群馬の人》を挙げる。面長で、重そうな一重まぶたで口を真一文字に結んだ無骨な顔貌は決して美麗とは言えないが、つつましく堅固に生きる人間の逞しさが表されている。本作は発表当時から「日本人の手で初めて日本人の顔を作った」と評価され、同年に開館した国立近代美術館(現・東京国立近代美術館)に彫刻の蔵品番号1番として収蔵された。美術評論家・本間正義による「日本の彫刻史の上の一つの里程標となった」という評は、本作を語る上で繰り返し引用され、佐藤の代表作、そして日本の彫刻史における重要作としての位置付けを確固なものにしている。

会場では、本作の他にも同時期に制作された頭部像が並ぶ。当時「佐藤の首狩り」と言われたように、家族など身近な人物や、取材した常盤の大工など市井に生きる人物の頭部像を制作した。いずれの作品も、寡黙で慎み深い表情を見せ、モデルとなった人物の内面や、苦楽を経験した人生を物語るようだ。

詩的情緒に溢れ「佐藤忠良スタイル」を象徴する1点、《帽子・夏》

会場風景より 佐藤忠良《帽子・夏》ブロンズ 1972年
会場風景より 佐藤忠良《帽子・夏》ブロンズ 1972年

佐藤の代表作として最も引用される機会の多い、1972年制作の《帽子・夏》を傑作の2点目として取り上げたい。つばの広い帽子を目深にかぶった女性の全身座像で、ズボンと帽子のみを身に着けた女性の姿は、気品と夏の爽やかな雰囲気、若い女性の瑞々しさを感じさせる。上半身はやや前傾で肩の力は抜け、そのまま流れるように腕を下げた姿が優美である。一方で、足は左右に開き、踵を上げてつま先の一点に力が集中している。ほぼ左右対称で均整のとれたポーズには、軽やかさを感じさせつつ、全身に緊張感が巡り、清々しく凛とした趣を湛える。この時期の洋服を身に着けたスレンダーな女性の全身像は「佐藤忠良スタイル」となった。本作は1974年に東京国立近代美術館に収蔵され、1981年にフランスの国立ロダン美術館別館で開催された佐藤の個展では、この作品がポスターとなり、パリの街を飾った。

会場風景より 同時期に制作された帽子シリーズや女性の全身像が並ぶ。
会場風景より 同時期に制作された帽子シリーズや女性の全身像が並ぶ。
会場風景より また本作のトレードマークの帽子も展示されている
会場風景より また本作のトレードマークの帽子も展示されている


3世代にわたり愛されるベストセラー『おおきなかぶ』

会場風景より 佐藤忠良『おおきなかぶ』絵本原画 紙、水彩・インク・コンテ・鉛筆
アレクセイ・トルストイ(作)、内田莉莎子(訳)、佐藤忠良(画)『おおきなかぶ』〈1962年5月刊『こどものとも』74号、福音館書店〉
会場風景より 佐藤忠良『おおきなかぶ』絵本原画 紙、水彩・インク・コンテ・鉛筆
アレクセイ・トルストイ(作)、内田莉莎子(訳)、佐藤忠良(画)『おおきなかぶ』〈1962年5月刊『こどものとも』74号、福音館書店〉

そして3点目に挙げる傑作は、時代は前後するが1962年刊行の絵本『おおきなかぶ』だ。佐藤忠良の名を知らなくても、多くの人がこの絵には見覚えがあるだろう。ロシア人一家の庭に生えた大きな蕪を引き抜くため、父、母、娘…と次々に人数を増やし、最後は動物たちも協力して全員で蕪を引き抜くという単純なストーリーだが、蕪を引くシーンと休むシーンが繰り返される展開、そして軽快な訳文と佐藤の緩急ある人体表現の相乗効果によって飽きることなく、親から子、子から孫へ、およそ3世代にもわたり読み継がれるベストセラーとなった。福音館書店の編集者・松井直(ただし)は、この絵本は「人体の動きと力とが表現の要」と考え、彫刻家として人体の動きを熟知した佐藤忠良こそ相応しいとして依頼した。佐藤はこの挿絵を3度書き直した末に完成させ、「私にはたいへんむずかしい作業であった」と振り返っているが、コンテの太く柔らかい質感は穏やかな家族の雰囲気を感じさせ、蕪の根元を支点に体全身を使って後方に引っ張る力の入れ具合を直感的に感じさせる表現は、佐藤のデッサン力の高さがうかがえる。

会場風景より 『おおきなかぶ』の原画。本作は時代、国境を越えて愛されている。
会場風景より 『おおきなかぶ』の原画。本作は時代、国境を越えて愛されている。


佐藤に影響を与えた巨匠たち

「私は、あるものから何らかの影響をうけなかった芸術はなかったのではないかと思っています。いいものがあったら、なぜそうなっているのかをよく見て、恐れずに影響されていい」と語るように、佐藤のアトリエには、西洋の芸術家たちのデッサンや彫刻、日本人作家の作品、古美術など古今東西の様々な芸術作品が置かれていた。

例えば50年代に制作された《群馬の人》をはじめとする頭部像は、ロダンをはじめ、ブールデル、マイヨール、デスピオといったフランス近代彫刻からの影響を受けている。これらの作品から佐藤が培ったものは、モデルの人物を美化したり誇張したりすることなく、ありのままの姿を真摯に表現しようとするリアリズム、そして市井の人々の生き様に目を向けるヒューマニズムの精神であった。佐藤はロダンについて「這いずり回って生きている人間の切なさを抉り出して見せてくれた」と語っている。こうして、いわゆる“美男美女”ではなく、庶民や過酷な労働に従事する者の顔を生々しく表した佐藤の頭部像は「佐藤忠良のきたな(穢な)作り好み」と評されるほどであったが、決して必要以上に無骨に作るのではなく、その人の過去・現在・未来といった人生全体を凝縮する、あるいはその内面性を「えぐり出す」ことを追求した結果の造形であり、その姿は物静かながらも重厚さに満ちている。

会場風景より 佐藤忠良《常盤の大工》セメント 1956年
本展には、シャルル・デスピオの《ベルト・シモン嬢》(ブロンズ 1928年)なども展示されている。それらの作品からは滑らかな質感、目元の表現や寡黙で上品な雰囲気など多くの点で共通しており、佐藤に与えた影響が感じられる。
会場風景より 佐藤忠良《常盤の大工》セメント 1956年
本展には、シャルル・デスピオの《ベルト・シモン嬢》(ブロンズ 1928年)なども展示されている。それらの作品からは滑らかな質感、目元の表現や寡黙で上品な雰囲気など多くの点で共通しており、佐藤に与えた影響が感じられる。

1950年代後半からは佐藤の関心は現代彫刻としての量や空間、動勢といったものへとシフトする。そこにはマリーニやマンズー、グレコといったイタリア近代彫刻が大きな指針となった。手足を投げ出すポーズの女性像など、それまで作品(モデル)の内側に向っていた作家の熱情が、作品を起点に外へと向かって解放され、のびやかで溌剌とした作品が生まれるようになった。

佐藤忠良《足なげる女》ブロンズ 1957年
体に接した手の表現を簡略化するなどの表現はグレコと共通性が見られ、頭と足で引っ張り合うようなポーズなど重力感のコントロールにはマリーニの作品と通じる。また、佐藤は1973年にムーアやマリーニらのアトリエを訪問している。特にマリーニは佐藤のコレクションの中でも最も多い作家である。
佐藤忠良《足なげる女》ブロンズ 1957年
体に接した手の表現を簡略化するなどの表現はグレコと共通性が見られ、頭と足で引っ張り合うようなポーズなど重力感のコントロールにはマリーニの作品と通じる。また、佐藤は1973年にムーアやマリーニらのアトリエを訪問している。特にマリーニは佐藤のコレクションの中でも最も多い作家である。

また、この時期の作品群で注目したい点は、着衣の像が作られるようになることだ。《ボタン(大)》(1967-69年制作)は、少女がマントのボタンを取り付けようと俯くさりげない仕草を表した作品だが、静謐な佇まいからはまるで修道女が祈りを捧げるかのような印象さえ受ける。

佐藤忠良 《ボタン(大)》1967 – 69年 ブロンズ 宮城県美術館蔵
佐藤忠良 《ボタン(大)》1967 – 69年 ブロンズ 宮城県美術館蔵

この作品はジャコモ・マンズーの《枢機卿》シリーズの大きな特徴であるカトリックの祭服から着想を得たものと佐藤は語っている。モデルのポーズは極限まで動勢が抑制されたものだが、マントの量塊処理やシルエットで動きをつけ、それによってボタンに手をかけるという最小限の仕草が際立っている。またボリューム感あるマントと華奢な身体の対比が作品全体に緩急をもたらしている。

自由で躍動感を感じさせるポーズ、衣服と身体の対比、静と動、象徴的な仕草など、イタリア近代彫刻の作品群を道標にした新たな表現の追求は、やがて《帽子・夏》へとつながっていく。

佐藤の制作の根底に根付く「シベリア抑留」

佐藤の生涯を語る上で欠かすことのできない出来事がシベリア抑留だ。1944年に召集された佐藤は、旧満州に渡ると、ソ連、朝鮮国境近くの東寧に配属された。1945年に戦争が終わるも、佐藤は終戦を知らないまま約1ヶ月逃避行を続けるも遂にソ連軍に投降し、約3年間、シベリアのイルクーツク州の収容所に抑留される。捕虜として死と隣り合わせだった過酷な生活であったため、まともな制作活動はできなかったが、そうした環境下でも佐藤は異国ロシアの自然や風俗、必死に生きる人々の姿をその眼に焼き付けてきた。

その経験を復員後の佐藤は、直接的、間接的に制作の糧としていった。例えば代表作『おおきなかぶ』も、シベリア抑留期に現地に住む人々を見てきた佐藤にとって、ロシア人家族という題材は思い入れの深いものであった。依頼主の松井も佐藤がロシアで生活していたことも抜擢の理由の1つに挙げており、佐藤もロシアを題材にした絵を描きたいと望んでいたそうだ。佐藤は自身の過酷な経験を、多くの人々の記憶に残る名作『おおきなかぶ』の誕生へと昇華させたのだ。

また、1950年代に度々行った炭鉱や漁村でのスケッチ旅行では、厳しい労働環境の中で強く生きる人々の姿に、シベリアでの経験を重ねたことだろう。「シベリアの大地に投げ出されると一人の人間になってしまった。顔のよしあし、肩書のあるなしなどに関係なく、行きずりの人間の中にかえって生きている素晴らしさを語りかけてくれる人がたくさんいた」と語るように、“行きずりの人間”の生きていくための強さ、切実さを、佐藤はシベリアでの生活からその身をもって体得していた。その経験は、50年代の頭部像に見られる、人物の内面性、人生そのものを「えぐり出す」かのような迫真的な表現へ佐藤を向かわせた。

漁村や常盤炭鉱を取材した際のスケッチ、手前は佐藤忠良《土》ブロンズ 1956年
漁村や常盤炭鉱を取材した際のスケッチ、手前は佐藤忠良《土》ブロンズ 1956年

神奈川県立美術館葉山でみる佐藤作品の魅力

本展では、一色海岸を臨む神奈川県立美術館葉山ならではの展示にも注目したい。

会場風景
会場風景

《帽子・夏》をはじめとした衣服を身にまとう女性像が並ぶ展示室は、部屋の一角がガラス張りの窓になっており、そこから相模湾の景色が広がる。窓から見える海を借景にした《帽子・立像》や《若い女》は、帽子やジーンズを身に着けた姿と相まって、夏の心地よい風を感じさせるようで、作品のもつ瑞々しさ、品格ある佇まいが一層際立つ。 

佐藤忠良《ふざけっこ》ブロンズ 1964年
佐藤忠良《ふざけっこ》ブロンズ 1964年

レストルームに展示されている《ふざけっこ》は、画家・朝倉摂の娘が風呂上りにバスタオルを巻いた姿で駆け回る姿をほぼ等身大で表した作品だ。外の木々の新緑を背景に、片足を上げてはしゃぐ子供の姿がなんとも愛おしい。

これから夏に向かうこの時期に、空と海の青、日差しに照らされて鮮やかに映える木々の緑を取り込んだ展示室で見る佐藤忠良の作品は、より一層、詩情豊かな世界を見る者に与えてくれるだろう。ぜひとも天気の良い日に葉山まで足を伸ばし、佐藤忠良の作品世界を全身で味わってみてはいかがだろうか。

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