FEATURE

キュレーターが語る
話題の展覧会の作り方
VOL.07 東京藝術大学大学美術館

東京藝術大学大学美術館 館長 黒川廣子氏

インタビュー

東京藝術大学大学美術館、エントランスにて。
Photo : Yoshiaki Tsutsui
東京藝術大学大学美術館、エントランスにて。
Photo : Yoshiaki Tsutsui

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構成・文 藤野淑恵

東京藝術大学のキャンパス内、
上野の森の一角に佇む
大学美術館の魅力を知る

アートを愛する人にとって、上野は芸術の街だ。いや、「街」というよりも「森」というべきか。JRの上野駅公園口から動物園方面にまっすぐ伸びる上野恩賜公園のプロムナードに足を踏み入れると、東京文化会館、国立科学博物館、国立西洋美術館、上野の森美術館、東京都美術館。さらには表慶館や法隆寺宝物館を抱く東京国立博物館―――そこに広がる芸術の森の充実度は、NYのミュージアム・マイルに勝るとも劣らない。

東京藝術大学大学美術館の南側全景。外装は赤砂岩、白御影、アルミキャストの3種類の素材で仕上げられ、ユニークな建築構成を際立たせる。設計した六角鬼丈は東京藝術大学建築学科出身。祖父の六角紫水は日本の漆工芸の草分けとして功績を残した著名な漆芸家。
東京藝術大学大学美術館の南側全景。外装は赤砂岩、白御影、アルミキャストの3種類の素材で仕上げられ、ユニークな建築構成を際立たせる。設計した六角鬼丈は東京藝術大学建築学科出身。祖父の六角紫水は日本の漆工芸の草分けとして功績を残した著名な漆芸家。

東京藝術大学大学美術館は、上野駅からはもっとも奥まった場所、地下鉄根津駅からも徒歩10分程の東京藝術大学上野キャンパス内にある。1999年に開館した美術館の歴史は1970年に発足した芸術資料館に遡るが、そのメインギャラリーだった陳列館のクラシックな建物をイメージして大学の美術学部正門をくぐると、全く赴きの異なるコンテンポラリーな美術館建築に目を見張る。2021年に東京藝術大学大学美術館の館長に就任した黒川廣子氏は、東京藝術大学、同大学院、東京国立博物館、そして東京藝術大学大学美術館と、この上野の森で学び、仕事をしながら研究者、美術教員、学芸員としてのキャリアを育んできた。
東京藝術大学大学美術館 館長 黒川廣子氏 プロフィールはこちら ↓

「大学院生のとき、現在の東京藝術大学大学美術館の前身である東京藝術大学 芸術資料館で、所蔵品の調査や大学の歴史に携わるアルバイトを経験しました。藝大の収蔵品や資料には、道具や手板(ていた)と呼ばれる教程見本、あるいは素材見本のような教育資料を含みます。実際に調査に携わってそれらを理解することで、作品の見方がすっかり変わるという経験が何度かありました。そんなことを自分も勉強しながら、それを教え、世の中に還元できる仕事をしたいと考えると、教員か学芸員のどちらかだろうと考えたんです。手っ取り早いという言葉を使ってはいけないのですが、お隣に東博(東京国立博物館)があり、最初はアルバイトからでしたが、東博の資料館に研究員として採用されました。だから私は大学時代から上野の外に出たことが一度もない。井の中の蛙とはこのことです(笑)。」

上野の森に囲まれた東京藝術大学大学美術館全景
上野の森に囲まれた東京藝術大学大学美術館全景

高校の芸術科目で工芸を選択。
佐賀錦を織っていた祖母の影響で
藝大で工芸を志す

生後10ヶ月から12歳直前までの幼少期、父の赴任先であるアメリカで育った黒川氏は、両親とよく訪れた美術館でアートに親しみながらも、特別な興味を持ったわけではなかったそうだ。藝大を目指すきっかけとなったのは高校時代、芸術の選択科目として選んだ工芸との出合い。美術、書道、音楽の3つから芸術科目を選択するのが一般的だが、進学した東京学芸大学附属高等学校には工芸という選択肢があった。火や炉を使い、銅板を加工したり、粘土の器を作って釉薬を施し、炉で焼いてもらったりを経験するなど本物の工芸に触れたことが直接の理由だが、九州の伝統織物である佐賀錦を織っていた祖母の存在も大きかったという。

「大学入学時の面接で“工芸をやります”と言っているんです。外国育ちということもあるのか、日本の文化や生活に根ざす独特なことを新鮮な目で見ることができました。そういうものを勉強して人に伝えることができる仕事につくことを、大学を目指す頃から漠然と考えていたのだと思います。美術史ではどちらかというと絵画が主流であり、その次に彫刻。絵画が圧倒的に強い世界なので、私のように最初から工芸を志す学生は珍しかったようです。祖母の影響で染織を勉強するつもりだったのですが、入ってみたら金工や漆芸などいろんなことが面白くなりました。」

大学美術館の本館ができるまでの間、芸術資料館のメイン・ギャラリーは昭和4年に竣工したこの陳列館だった。
現在も企画展会期中に限り建物が公開されている。
大学美術館の本館ができるまでの間、芸術資料館のメイン・ギャラリーは昭和4年に竣工したこの陳列館だった。
現在も企画展会期中に限り建物が公開されている。

大学院を経て就職した東京国立博物館(東博)では、資料館に勤務した。藝大では資料といえば、美術品も教育資料と呼ばれるが、東博の資料館で取り扱う資料とはいわゆる文献的な資料、写真資料、図書(印刷物)といったものを指す。黒川氏の東博での最初の大きな研究テーマは、「明治時代の博覧会事務局の資料の公開について」というものだった。19世紀後半に欧米で万国博覧会がたびたび開催され大変な人気を博していたが、博覧会事務局とは、1873(明治6)年のウィーン万国博覧会への公式参加要請を受けた日本政府が設置したもので、そこで扱われた資料が東京国立博物館に引き継がれた。

東博では、ウィーン万博(1873年)、フィラデルフィア万博(1876年)、パリ万博(1889、1900年)などその後の明治時代に開催された万博および、政府主導のもと国内でも開催された通算5回の内国勧業博覧会の資料も数多く保管しており、黒川氏は、それらの資料の公開に携わっていた。それらの資料の中から、工芸品の図案集を本にまとめたことは研究初期の代表作となった。産休、そして東博で初めての取得となった育児休業期間を含む11年間の勤務を経て、1998年に東京藝術大学に転職した。

「藝大に転職したのは、芸術資料館が大学美術館になり、大学美術館本館が開館した1999年。東博では、国立美術館・博物館を網羅する文化財情報システムの統合を目指す事業にも携わっていたので、情報システムのことができる人材が必要だったのでしょう。東博時代は情報システムを取り巻く環境が現在とは全く違って、まだインターネットもない頃。今では収蔵品の管理はデータベースなしでは機能しませんが、写真のフィルムをデジタル化してゼロからデータを入力するところからのスタートでした。博物館の情報システムの分野における経験が評価されたのだと思います。」

大学美術館設立の時期に母校へ。
美術館教員と学芸員、
二つの仕事を並行して担う

開館準備から開館へというエポックメイキングな時期から携わることになった東京藝術大学大学美術館では、さらに美術館教員としての仕事も加わる。最初は講師からスタートして助教授、教授という道を辿りながら、博物館学など学芸員を目指す学生のための授業を、学芸業務と並行して担ってきた。20数年の勤務の間には、博物館学だけではなく工芸理論、漆工史、金工史など4つも講義を持って授業に明け暮れているという時代もあった。

「工芸を教えることのできるスタッフがそんなにいなかったみたいで、ちょうどいいのがいる、みたいな(笑)。もちろん学芸業務もやっていたのですが、専門が工芸なので絵画よりも比較的出番が少ない、ということもあるんです。でも、あまりにも大変だから少しずつ講義を減らして最終的には半々くらいでした。現在は館長になったこともあり、講義を減らし、学芸業務と部局長業務を並行して行っています。」

「工芸の世紀」展 看板
「工芸の世紀」展 看板

黒川氏がこれまで手がけた展覧会の中で、最も記憶に残るもののひとつに「工芸の世紀」展(2003年)がある。これは東京美術学校・東京藝術大学に収蔵されている名品とともに、 国内外の博物館等が保管する一級品を加えて、 江戸末期から昭和まで約一世紀間にわたる日本の工芸の歩みを通覧するものだ。入場者数は予想の1.5倍に及び、カタログは完売。展示作品の半分が名品だが、残りの半分は道具、見本、手板といった技術を教えるための藝大の教育資料だったということも興味深い。

「工芸を中心とした展覧会としては、藝大美術館の歴史の中でも大規模なものでした。4室の展示室全てを工芸で埋め尽くすのは画期的で、工芸関係者はこぞって見てくださいました。でもそれ以降、このような展覧会はまだ開催できていません。工芸の展覧会は作品を保護するケースを製作する必要もあり、絵画の展示よりもどうしてもお金がかかる。費用がかさむ割に、入場者数は絵画の名品展よりも少なくなりがちなためにそこまで経費がかけられないというジレンマがあるんです。」

「工芸の世紀」の出展作品より。
海野勝珉《肉合彫松手板》 銅地 赤銅象嵌 金色絵 東京藝術大学蔵
「工芸の世紀」の出展作品より。
海野勝珉《肉合彫松手板》 銅地 赤銅象嵌 金色絵 東京藝術大学蔵

宮内庁三の丸尚蔵館との共同開催
「日本美術をひも解く」で、
皇室の美の玉手箱が開く

2022年8月から開催予定の 特別展「日本美術をひも解く―皇室、美の玉手箱」は久しぶりに4室すべての展示室を使う大規模なものになる。「皇室、美の玉手箱」の副題の示す通り、まさしく宝もののような珠玉の作品で日本美術の流れをたどる。2017年、今回と同様に宮内庁三の丸尚蔵館と共同で開催した「皇室の彩-百年前の文化プロジェクト」展は2室の展示室での展覧会だったが、行列ができるほどの人気を博した。

「皇室に献上されるからにはいいものを残そうとする成り立ちもあり、最高級のものを精魂込めて作っているのが皇室の所蔵品です。しかも、ただ名品を並べるだけの展覧会ではなく、三の丸尚蔵館が所蔵する完成品と、藝大が所蔵する制作段階の手板や文書類、図案などを持ち寄りふんだんに見せたこともあり、『皇室の彩』展では会期の後半に行列ができるほどでした。『日本美術をひも解く』では、人物、物語、花鳥、動物などのモチーフやテーマ毎に、歴史的な国宝や小さく愛らしい置物まで、多種多様な作品をご紹介する見応えのある展覧会になります。」

美術館・展覧会情報サイト アートアジェンダ 展覧会情報
特別展「日本美術をひも解く―皇室、美の玉手箱」
開催美術館:東京藝術大学大学美術館
開催期間:2022年8月6日(土)~9月25日(日)
※会期中、作品の展示替えおよび巻替えがあります。

2021年に国宝に指定された5つの作品を含む宮内庁三の丸尚蔵館が収蔵する皇室の名品・優品に、東京藝大のコレクションを加えた82件の作品から日本美術の流れをたどる今回の展覧会では、伊藤若冲の代表作である《動植綵絵》(国宝)や、桃山芸術を代表する狩野永徳の《唐獅子図屏風》(国宝)などの公開が話題だが、見逃すことのできない作品は他にもある。

「海野勝珉は藝大の前身である東京美術学校の開校当時からいた先生で、金・銀・銅・赤銅と様々な金属を色彩豊かに表現することを得意とした金工作家です。藝大美術館には作品はほとんどないのですが、教材である手板を所蔵しています。今回三の丸尚蔵館から出展される《太平楽置物》は代表作でありもっとも重要な作品。雅楽の一種である太平楽の筆頭の舞手が実際に舞う姿を取材し、踊っている姿を検証して忠実に装束を再現して作られたものです。正面だけではなく裏の部分や細部に至るまで、角度を変えて全部見てください。」

「石川光明の《古代鷹狩置物》は、象牙という素材の究極の表現といえる作品です。明治時代は象牙の彫刻が流行して大量に作られたのですが、その中でも秀逸な作品。早逝したために高村光雲ほど有名ではないのですが木彫作品も残した優れた作家です。同じ象牙作品では、《羽箒と子犬》(作者不詳)は手のひらに乗るような小さな作品ですが子犬の毛並みや羽箒の羽まで細やかに緻密に作られているもの。合わせてご覧いただきたいですね。」

所蔵品の中の特別な存在である
卒業生制作と手板。
「実験的な美術館」の解釈とは?

東京藝術大学大学美術館の所蔵する3万件の所蔵品の中で、黒川館長の専門である工芸の分野を代表する作品について尋ねてみると、教材として使用する目的で作られた手板の存在が大きいという答えが返ってきた。これまでも何度か言及されている「手板(ていた)」とは、技術の順番を覚えるため、段階ごとに工程がわかるように作られた教材のことだ。先生たちが学生に技術や手順を教えるため、こう切って、彫って、別の種類の素材をはめ込んで、押さえて、さらに金をあしらう、というような工程を示すために作られた。

「江戸時代は、親方がいて弟子がそれを真似るという徒弟制度によって工芸の技術が支えられていました。東京美術学校の初期の先生たちが、手板や道具を整備して教程を作っていくことに大変な苦労を重ねたという逸話が残っていますが、特に金工に関しては、明治時代の万国博覧会でヨーロッパを驚かせた日本独特の色彩豊かな金属の活かし方が小さな手板の中に見事に凝縮されていることは特筆すべきことです。漆工芸の手板も充実していて、三の丸尚蔵館の所蔵品である《菊蒔絵螺鈿棚》の作者の一人、川之邊一朝の蒔絵の手板のように、貴重なものもあります。」

川之邊一朝《初音蒔絵模造 手板》東京藝術大学蔵
川之邊一朝《初音蒔絵模造 手板》東京藝術大学蔵

「教材同様に大切な収蔵作品が卒業生制作です。松田権六の 《草花鳥獣文小手箱》は、金蒔絵に草花鳥獣文の蓋を開けると、裏側には獅子が吠えている様子が描かれている手箱。お隣の上野動物園から聞こえてくる鳴き声から着想を得たという創作のエピソードを作家本人が語っています。東京美術学校ができた当時の工芸の科目は漆芸と金工の2分野のみだったこともあり、漆芸の歴史は長く、存在感も大きいですね。」

松田権六 《草花鳥獣文小手箱》東京藝術大学蔵
松田権六 《草花鳥獣文小手箱》東京藝術大学蔵

藝大美術館の最大の特徴や他の美術館との違いはやはり、教育機関であることだ。大学での教育という大きな柱があり、一般公開の目的ではなく、学生のための教材として集められた所蔵品が、他の美術館との違いや独自の魅力となった。

「学生が良いものをたくさん見ることが、良い作品制作につながる。そのために名品を集めてきた。逆に、壊れかかっている仏像などは、一般の人に向けて展示する目的としては所蔵しなかったかもしれないけれど、壊れていて中が見えるということで作る側にとっては構造が一目瞭然であるという利点がある。良い教材を懸命に収蔵してきて、その結果、独自の展覧会ができるような内容のコレクションが形成されて現在に至るのだと思います。」

ところで、1999年の開館時に東京藝術大学大学美術館の基本理念には、収集・保存・公開の加えて、「制作と教育研究の現場である芸術大学という特質を合わせた、実験的な美術館として機能すること」とある。「実験的な美術館」を黒川館長はどのように解釈しているのだろうか。

「藝大はとにかくアイデア豊かな人間の集まり。新たなものを生み出すことがひとつの柱であり、何を実験的にやるのかは後進に託すという様な気持ちで掲げられた理念だと思います。でも、ひとつ確かなことは、この大学そのものが制作現場であるということ。完成作品が美術館に収蔵されているのは当然のことですが、その構想段階から合わせて展示することや制作実演的なことで、制作の現場ならではの視点を持つ展示ができる。まだ誰も思いつかないような “実験”を私たちに託したのだと思います。」


VOL.07 東京藝術大学大学美術館
東京藝術大学大学美術館 館長 黒川廣子氏

Hiroko Kurokawa The University Art Museum

1962年東京生まれ。専門は日本近代工芸史。2021年より現職。1985年、東京藝術大学美術学部芸術学科 卒業 。1987年、東京藝術大学大学院美術研究科修士課程芸術学美術教育専攻 修了。 東京国立博物館資料部主任研究官を経て1999年より東京藝術大学大学美術館へ。企画した主な展覧会に「工芸の世紀」(2003年)、「皇室の彩」(2017年)などがある。

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