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日本最初の私立の美術館は神戸にあった‼「よみがえる川崎美術館-川崎正蔵が守り伝えた美への招待-」@神戸市立博物館

海辺老松図襖 円山応挙筆 12面 天明7年(1787) 東京国立博物館

本稿掲載の写真画像は、主催者の許可を受けて撮影したものです。展示場内は撮影禁止です。

神戸市立博物館開館40周年記念特別展「よみがえる川崎美術館-川崎正蔵が守り伝えた美への招待-」が始まりました。本展につきましても記者発表にも参加させていただき、既にブログでもご報告しております。本展の記者内覧会にも参加させていただき、今回はじっくり展示も拝見し、作品の写真も撮らせていただきました。展示作品ももちろん名品ばかりですが、本ブログに掲載できる画像数が限られているため、作品については私のへぼい写真よりも”実物”をご覧いただくとして、私が特に興味深いと感じたなかなか目にすることのない参考資料や本展関連の表などの写真画像を掲載することにしました。

この展覧会の準備は、現存しない美術館の建物と散逸したコレクションの1つ1つを発掘し、照合しての地道の仕事ではなかったでしょうか。


「日本の主な美術館・博物館史における川崎美術館の位置」

「日本初の私立の美術館」として、大倉集古館を思い浮かべられる方も多いことと思いますが、大倉集古館さんでは、「現存する日本最古の美術館」として、概要、沿革をHPに掲載されています。詳しくは⇒コチラから。同館で「企画展 合縁奇縁~大倉集古館の多彩な工芸品」明治から昭和にかけての美術品収集の軌跡を辿る展覧会が開催され、注目すべき展覧会としてレビューを読みました。

川崎造船所(川崎重工業株式会社の前身)や神戸新聞社などの創業者である川崎正蔵(1837-1912)は、明治23年(1890)9月6日に神戸市布引、現在のJR新神戸駅近くにあった川崎邸内に「川崎美術館」を開館しました。幕末に生まれて明治維新後に成功した「近代数寄者」に代表されるような財界人の共通の認識の中に、急速な西洋化と廃仏毀釈によって海外へ流出する国内の東洋・日本美術品を守らねばならないと強い思いがありました。つまりそれほどまでに廃仏毀釈と美術品の海外流出が凄まじかった現れです。関西においては、川崎正蔵と親交のあった藤田美術館の創業家である藤田傳三郎(1841-1912)や神戸の香雪美術館の創業家である村山龍平(1850-1933)もしかりです。彼らは、時代・地域・ジャンルを問わず美術品を収集した点でも共通しています。川崎正蔵もその美術品が良ければ出来るだけ買いもとめました。

川崎正蔵の美術館開館時の「館主挨拶」にも(以下図録p102-103より引用)

「・・・正蔵、前きに之を思へ、数十年以来美術品にして優美なりと信ずれば、其価の高下に拘わらず力の及ぶ限りは之を購求し、今や集めて千数百の数に昇れり、而して、惟ふに之を秘蔵しかく格納し置けば、独り其道に益なき耳ならず、国の宝も埋没するに似たり 於是、去年の夏初めて此美術館の新築に掛り、今や漸く成るを告ぐ 爾来、時々開館して広く美術家の参考に供し、以て其道進歩の一助と為すも、豈に国家に裨益なしとせんや・・・」と

開館時には千数百のコレクションがあり、個人で楽しむのは有益でないので、美術館を建てて、美術家の参考にしたいとまで述べており、美術館建設とコレクション公開の強い意図がヒシヒシと伝わってきます。


長春閣鑑賞 川崎芳太郎編 6冊 大正3年(1914) 川崎重工業株式会社

川崎正蔵自身による蔵品目録は見つかっていないのですが、遺言としてコレクションの集大成となる書籍の刊行を養嗣子・川崎芳太郎に託しました。大正3年(1914)12月、川崎正蔵の三回忌に國華社から豪華図録『長春閣鑑賞』全6冊が刊行されました。松方正義が第一集巻頭に題字を寄せています。386図を掲載し、作品の選定にあたったのは、朝日新聞社社主、収集家の村山龍平、上野理一と川崎家出入りの古美術商(お蔵番だったか?)の山中吉兵衛です。岡倉天心と高橋健三が、明治22年10月に創刊した東洋と日本の美術を紹介する月刊美術雑誌「國華」を村山龍平は一個人として生涯支援しており、その縁もあったかもしれません。『長春閣鑑賞』は、仏画・やまと絵・肉筆浮世絵(第1集)、水墨画・狩野派(第2集)、円山・四条派(第3集)、中国絵画(第4集)、仏像・漆器(第5集)、陶器・玉器・青銅器(第6集)に分類されています。時代・地域・ジャンルを問わず幅広いコレクションですが、狩野探幽、円山応挙、東山御物を多く所蔵しており、川崎正蔵の好みも見えそうです。岡倉天心は『日本美術史』に「世に探幽を蔵する人多くあれども、最も多く蔵するは松方伯及び神戸の川崎正蔵氏なり」と書いているそうです。

※岡倉天心は、九鬼隆一らと明治21年の「美術取調」で川崎邸を訪れ、正蔵は審査に際し長持3棹分を用意したとあります。明治21年に九鬼と一緒に・・・九鬼、天心の関係性のややこしい時期に一緒にとはちょっと複雑・・・と個人的感想です。※

中国絵画の収集、「東山御物」への憧憬。正蔵が命の次に大切にしたとも伝わる

国宝《寒山拾得図》伝顔輝筆 2幅 元時代・14世紀 東京国立博物館蔵

を含め少なくとも「東山御物」を6件は所蔵していたと確認されています。うち5件を本展で展示。

(※《宮女図(伝桓野王図》)伝銭舜挙筆、と《鴨図》伝徽宗筆 五島美術館蔵 と本展では展示はないが「東山御物」かもしれないの伝牧谿筆《蘿蔔蕪菁図》宮内庁三の丸尚蔵館蔵の3件が、京博の「茶の湯展」前期に展示中※)

《古銅鴨香炉》は所在不明です。川崎旧蔵の中国絵画には、松江藩家老、乙部久兵衛の旧蔵品が22件確認され、本展展示の国宝3件のうち2件《宮女図》と直翁筆 偃谿広聞賛《六祖挟担図》大東急記念文庫蔵 が乙部家旧蔵品です。この乙部家の旧蔵品も時代の波と共に散逸しています。

川崎正蔵の古美術品収集は、明治の8-9年頃から、40歳の頃からで、実業家としても正蔵にとって大きな存在であった同郷薩摩出身の松方正義の存在は大きく、古美術品収集にも松方の影響を受け、松方の古美術品収集の相談役でもあった狩野探美を紹介されたのか、探美が川崎の作品の鑑定を行い、箱書きもした作品が伝わっています。開館時には千数百もあったコレクションですが、現在確認されているのは、国内外でわずか約200件。本展第2章『収集家・川崎正蔵とコレクション』では『長春閣鑑賞』各集の各分類から作品がほぼ展示されています。

『長春閣鑑賞』は、国立国会図書館のデジタルコンテンツとして閲覧が可能です⇒コチラから

出品目録・展示替予定表は⇒コチラから


よみがえる川崎美術館

第3章よみがえる川崎美術館

2階展示は、よみがえった川崎美術館に誘導されるように始まる。

川崎正蔵は、現在のJR新神戸駅周辺に広大なお屋敷があり、その敷地の北端に「美術館」と「長春閣」はありました。当時の敷地建物配置図や写真から美術館があった場所や外観を知ることができます。美術館は、品川御殿山にあった益田鈍翁(1848-1938)や飛鳥山にあった渋沢栄一(1840-1931)の日本建築も設計した柏木貨一郎(1841-1898)が設計した、瓦葺二階建で、文明天文時代(室町8代将軍足利義政の銀閣寺を造営から13代足利義輝の時代)の建造物に擬えと図録にはあり、「陳列品目録」から障壁画や床の間、違棚、入側を備えた書院造だったようです。ハッと思い浮かんだのは神戸御影の山の手にある「白鶴美術館」です。「長春閣」は、明治32年(1899)の皇太子神戸行啓の際に川崎邸で休憩することになりそのために建てられた瓦葺一階建の建物で、行啓以後はここでも展観が行われました。正蔵は晩年この長春閣で余生を送ったと伝わっています。

昭和13年(1938)夏の阪神大水害で川崎邸内は甚大な被害を受け、翌昭和14年に神戸市が布引公園を開設して、美術館(長春閣)を川崎家から取得し、美術館の修繕を行って、戦時中は市長公邸として使われたそうです。昭和20年(1945)6月5日の神戸大空襲で10棟あった旧川崎邸は、茶室、不動閣を残して焼失してしまいました。


川崎美術館開館式列品目録 1冊 明治23年(1890)9月6日 願成寺/川崎美術館第九回陳列品目録 1冊 明治34 年(1901)以降 島根大学附属図書館(桑原文庫)

川崎美術館も長春閣も、図面や館内写真も見つかっていません。川崎美術館で用いられていた円山応挙の障壁画(東京国立博物館蔵)が現存しており、『陳列品目録』の記述と照合することで、展示室内の構成が明らかになってきました。美術館の1階は、寺院の方丈のような六室うちの、上之間、広間、三之間の三室を本展で再現展示することになりました。『陳列品目録』には、各部屋の展示作品が列挙され、応挙の障壁画の前に絵画や仏像、工芸品が陳列され、それはまるで寺院の「曝涼」のような空間であったと説明されています。さすがに本展では、応挙の障壁画の前に展示はされていませんが、第8回(明治32年)と第12回(大正12年)の『陳列品目録』に掲載の三之間に展示された作品を同じ展示空間に展示して、約100年ぶりに甦ります。

この応挙の障壁画は、元は南禅寺塔頭帰雲院の方丈に嵌められていたもので(通称「旧帰雲院障壁画」)《雪景山水図襖》の款記と印章から、天明7年(1787)3月に制作されたものと分かります。天明7年に応挙は香川・金毘羅宮と兵庫・大乗寺障壁画のそれぞれ第1次制作も行っていた年でもあり、応挙を代表する障壁画を制作していた時期です。「旧帰雲院障壁画」が風景を描いた水墨画であることにも特徴が認められます。一見静かな水墨画は強く主張することもなく、前に置かれた展示作品はすんなりとおさまっていたのではないでしょうか。川崎正蔵はこの「旧帰雲院障壁画」を美術館開館前には入手していたようです。応挙筆《雪景山水図》掛幅と襖、応挙お得意の隈取りで塗り残しのふぉあふぉあの雪の表現にもご注目ください。川崎正蔵の孫、武之助から一括して東京帝室博物館に寄贈されています。

※この応挙の障壁画ありきの美術館の建物で、品川御殿山に移築された鈍翁の「応挙館」を訪ねる機会があって、鈍翁の日本邸宅も設計した柏木に依頼したなーんてこともあったかもと思ってしまいました。※


川崎美術館第四回展観招待状及び縦覧券(池長通宛) 招待状1枚、 縦覧券2 枚、 封筒1通 明治26年(1893)5月25日 神戸市立博物館(池長孟コレクション)

明治23年9月6日の開館式には、「川崎美術館」と扁額を揮毫した伊藤博文(当時・初代貴族院議長)をはじめ、約200名が招待され、川崎邸正門前で「賓客章標」「列品目録」「縦覧人心得」を受領して、美術館を観覧したと当時の新聞が報じています。昼夜には花火も打ち上げられたそうです。花火が上がり、新聞報道で知って一般客も入れるのかと間違えてやってくる人も居たそうです。開会式に欠席した九鬼隆一が「・・・我国にて私立の美術館を設けたるは川崎美術館を以て嚆矢とする」と祝詞をよせたと当時の新聞が伝えています。

川崎美術館は、「縦覧券」を送られた招待客だけが観覧できる「限定的な公開」でした。川崎邸内にある美術館であったため、防犯的なこともあったでしょう。現在、長池通宛ての第4回展観の招待状と縦覧券が唯一残っています。長池通が何らかの事情でこの展覧に出かけなかったために今日に伝わっています。この招待状と縦覧券から、縦覧券は2枚あり、一人一枚の利用で、他の縦覧者の場合には、招待者の認印か添書(招待状)が必須であること、公開は期間中の第1・第3日曜日で、雨の日は順延されることが明記されています。


川崎美術館で行われた展覧会

展観は、明治23年9月の第1回から大正13年11月の第14回まで開かれています。当初は年に1度、会期を定めて開館し、会期も数日だけで、雨天の場合は公開は中止となったようです。第1,8,9,12,13回の5回分の陳列品目録が現存しています。新聞記事によれば、鑑賞後は川崎邸でのガーデンパーティのようです。第1回展観では244件の所蔵品を展示し、明治32年の皇太子行啓で「長春閣」が竣工して以降、第9回からは川崎美術館と長春閣で毎回600点ほどの作品が展示され、大正元年(1912)に川崎正蔵が没してからも、その追福のために展観は続けられ、大正13年の第14回まで活動は続けられました。展示件数が600点とはとても多い。明治32年(1899)11月9日に皇太子の神戸行啓があり、川崎邸内の新築なった長春閣で休憩されました。皇太子が川崎美術館の2階から神戸の眺望をご覧になった後に、川崎正蔵親子は陳列品目録を奉呈して、美術館を案内したそうです。第8回展観はその直後の11月12日から始まっています。第8回陳列品目録は、大判で、「長春閣」「川崎美術館」とパリ万博へ出品予定の「宝玉七宝香炉・花瓶」の3枚の写真が貼付された、皇太子への献上を念頭に置いた特別仕様となっています。展示も北宋・南宋、元の画家の絵画と玉器と唐物に特化した展示となっていました。当初は、11月26日までを会期としていましたが、ペスト流行に伴う「祭礼、供養、興行、集会等多衆の群集」を禁ずる県令の発布に伴い、11月19日で閉幕しています。なんと100年以上も前にも感染症の流行によって美術館が臨時休館していました! 大正2年(1913)5月2日から5月11日まで行われた第12回展覧は、前年に没した川崎正蔵の追福のため、10日間美術館と牡丹園が公開され、530件の作品が展示されました。上之間は応挙づくしの空間となり、各所の床の間や違棚には東山御物と陳列品目録の内容を図録で知ると川崎正蔵への追福の気持ちが強く伝わり胸が熱くなりました。


牧馬図屏風 左隻 狩野孝信筆 8曲1双 桃山時代~江戸時代・16世 紀後期~17世紀初期 個人蔵

近代を代表するコレクターたちは、美術家たちのパトロンでもありました。大原孫三郎や住友春翠など留学を支援したり、原三溪は自邸に招いて惜しげもなくコレクションを見せて語り合ったりと。川崎正蔵も七宝工の梶佐太郎を尾張から神戸に招聘し、中国明代の七宝焼を模倣再現した「宝玉七宝」の製作にあたらせました。作品はパリ万博で大賞を受賞しました。受賞作は皇室へ献上したほか、「宝玉七宝」は船にゆかりのある寺社へ奉納したり、知人、友人へ贈呈したりしました。川崎正蔵は皇室へも収集品を献上してきました。

明治35年11月の明治天皇行幸では、有栖川宮舞子別邸(現在その跡地にホテル舞子ビラが建つ)が行在所とされ、新聞記事によれば「川崎正蔵は古美術の屏風を行在所に差し出すよう仰せを受け、古名画の屏風五双を用意した。これらの屏風は明治天皇の叡覧の栄に浴した作品として『名誉の屏風』と称賛された。」とあり、つまり当時は天皇のご宿泊所に古い立派な屏風を自費で用意せよと命令を受けるだけでも光栄なことでしたが、天皇が直にご覧になった屏風は名誉なことなので「名誉の屏風」と呼ばれたということ。五双の全貌は明らかになっていないらしいですが、展覧会後半に 伝狩野孝信筆《桐鳳凰図屏風》林原美術館蔵、狩野探幽筆《桐鳳凰図屏風》サントリー美術館蔵、狩野孝信筆《牧馬図屏風》個人蔵 三双が揃って展示されます。伝狩野孝信筆《桐鳳凰図屏風》は、『長春閣鑑賞』には「傳狩野永徳筆」とあり、川崎正蔵とその周辺ではこの屏風の筆者を永徳(または伝永徳)と考えていたようで、永徳と探幽が描いたおめでたい《桐鳳凰図屏風》を用意したかったようです。狩野孝信筆《牧馬図屏風》も永徳筆と認識されていた作品で、第13回展観で展示されました。いつ海を渡ったかは分かっておらず、近年海外で発見され、2019年にアメリカの美術館で展示されて、初の里帰りとなります。保存状態も素晴らしくてさすが「名誉の屏風!」この機会をどうぞお見逃しなく!


神戸川崎男爵家蔵品入札目録 1冊 昭和3年(1928) 神戸市立博物館

大正元年(1912)に川崎正蔵が亡くなり、遺言通り『長春閣鑑賞』も刊行され、美術館での展観は開催されていました。昭和2年(1927)の金融恐慌をきっかけとして、神戸川崎男爵家は、昭和3、昭和6、昭和11年と3回の売立を企画、実施します。が、昭和11年の第3回目の売立は”二・二六”事件により無期延期となって実施されず、目録のみが13年に刊行されたことが確認されています。昭和6年にも藤田家と合同で売立が行われたことも分かったそうです。売立は、下見を川崎本邸で行われ、入札は大阪美術倶楽部でなされたようです。


長春閣蔵品入札会展観入場券 1枚 昭和11年(1936) 神戸市立博物館

川崎造船所を引き継いだ松方幸次郎も、「共楽美術館」も現実味を帯びてきた矢先に関東大震災や金融恐慌に遭い、社長を辞任し、コレクションも売立にだされコレクションは解体され、散逸してしまいます。売立は7回にも及んだそうです。

明治期に「売立」で大名たちのコレクション引き継いだ財界人たちのコレクションも次の世代へと引き継がれていきました。

神戸の地は、1995年には「あの神戸で」と誰もが信じられなかった「阪神大震災」が起こり、あの時の三宮や神戸を私たちは決して忘れることは出来ません。大切に守り伝えられてきて今わたくしたちの目の前に再び姿を現してくれた展示品と引き継いできた人たち、開催してくださった方々に感謝です。

「よみがえる川崎美術館-川崎正蔵が守り伝えた美への招待-」が今回開催されたことをきっかけとして、川崎正蔵の旧蔵品や川崎美術館に関する資料の新たな発見があることを期待しています。


【イブニングレクチャー】毎週土曜日に学芸員による展示解説会を開催

  • 時間:17時~17時30分(受付、開場は16時30分~)
  • 場所:神戸市立博物館 地階講堂
  • 定員:80名(先着順、当日16時30分から地階講堂前で整理券を配布)
  • 参加費:無料(ただし、当日ご使用いただける本展観覧券が必要です。)

【音声ガイド】ナビゲーターは俳優の新納慎也さん 新納慎也さんは、神戸市ご出身です。大河ドラマ『鎌倉殿の13人』で頼朝の異母弟・阿野全成役を演じられました。「全成ロス」になった方もおいでになるかも。※

  • 解説ナレーター:恒松あゆみ
  • 貸出料金:お一人様1台 ¥600(税込)

【開催概要】よみがえる川崎美術館-川崎正蔵が守り伝えた美への招待-

  • 会 期:2022年10月15日(土)~12月4日(日) ※会期中一部の作品は展示替えあり。
  • 休 館 日:月曜日
  • 開館時間:9時30分~17時30分(金・土は19時30分まで) ※入場は閉館の30分前まで
  • 会 場:神戸市立博物館 〒650-0034 神戸市中央区京町24番地
  • 観覧料(当日券): [一般]1,600 円 [大学生]800 円 [高校生以下]無料
  • 展覧会公式サイト : https://kawasaki-m2022.jp/index.html
  • 展覧会公式 Twitter : @kawasaki_m2022 
  • ※巡回はありません!神戸市立博物館だけの展覧会となります。




プロフィール

morinousagisan
阪神間在住。京都奈良辺りまで平日に出かけています。美術はまるで素人ですが、美術館へ出かけるのが大好きです。出かけた展覧会を出来るだけレポートしたいと思っております。
かつて関西のアートサイトに読者レポートとしてアートブログを掲載して頂いていたご縁で、展覧会担当の広報会社さんから私個人に内覧会や記者発表のご案内を頂戴し、「アートアジェンダアートブログへ投稿」という形を広報会社さんに了解頂いて、アートブログを投稿しています。アートブログは全くの素人の個人としての活動です。
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