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記者発表「よみがえる川崎美術館―川崎正蔵が伝えた美への招待―」@神戸市立博物館

神戸市立博物館開館40周年記念特別展としてこの秋に開催される展覧会の記者発表に参加してきましたので、ご報告します。

 

日本の私立美術館としては大正6年(1917)に大倉喜八郎(1937-1928)が設立した大倉集古館が最初として知られています。大倉集古館のHPによれば、明治35年(1902)に自邸内に開館した大倉美術館を前身として、大正6年に財団法人化した私立美術館です。それに先立ち今日の川崎重工業株式会社の前身である川崎造船所や神戸新聞社などを創設した実業家・川崎正蔵(1937-1912)によって明治23年(1890)に開館したのが「川崎美術館」です。

この「川崎美術館」は、現在のJR新神戸駅近く、神戸市布引にあった川崎邸の中にあり、展観(展覧会)は、所蔵の数百点を寺社の「曝涼」(虫干し)のように陳列されていたことが、当時の『陳列品目録』から伺えるそうです。年数日の展観日に招待客だけが観覧できる限定的な公開でしたが、「観覧券」が今も残っていて本展では展示される予定です。

「川崎美術館」の建物は、室町時代の建築を模した瓦葺2階建の建物で、伊藤博文揮毫の扁額が掲げられ、円山応挙の障壁画で飾られていたそうです。明治32年(1899)11月9日の皇太子啓行に際して瓦葺1階建の「長春閣」を川崎美術館の隣に竣工し、第9回展観以降は、川崎美術館と長春閣の2館で展観を開催し、大正14年まで計14回の展覧が行われました。川崎美術館と長春閣は、残念ながら昭和13年(1938)の阪神大水害や戦災の被害を受けて現存していません。

展覧会の見どころ

1.     名品ぞろいの「川崎コレクション」が神戸で再会します。

国宝2件、重要文化財5件、重要美術品4件を含む、絵画、仏像、工芸品80件と資料30件の計約110件を展示予定です。

2.     川崎美術館を飾った円山応挙の襖絵を再現展示し、当時の美術館での展観の様子に迫ります。

3.     明治35年(1902)の明治天皇の神戸行幸に川崎正蔵によって御用立てられた5双の金屏風(所謂「名誉の屏風」)のうち3双が展示されます。


本展は5章構成となる予定です。

第1章    実業家・川崎正蔵と神戸

川崎美術館の創設者である川崎正蔵とはどのような人物だったのか。

天保8年(1837)年に幕末の薩摩に生まれた川崎正蔵は、平瀬露香(1839-1902)や大倉喜八郎(1937-1928)、藤田傳三郎(1841-1912)など近代数寄者の第一世代と同時代に生きた実業家です。東京に開設した「川崎造船所」を明治19年(1886)神戸に造船所を集約して生活の拠点も神戸に移しました。この章では、神戸を拠点として活躍した「造船王」とよばれた大実業家・川崎正蔵の功績を紹介します。


川崎芳太郎編『長春閣鑑賞』國華社 大正3年(1914) 川崎重工業株式会社蔵

第2章    収集家・川崎正蔵とコレクション

川崎正蔵のコレクションは明治初期から始まりました。藤田傳三郎や益田鈍翁、村山龍平などこの時代の大実業家と同様に廃仏毀釈などで日本国内の古美術品が海外へ流出するのを憂いて、時代、地域、ジャンルを問わず、金に糸目を付けずに購入し、千数百点のコレクションを形成しました。

正蔵の三回忌に朝日新聞創設者の村山龍平、上野理一や古美術商の山中吉郎兵衛が作品選定に協力して、正蔵の養嗣子・川崎芳太郎が編纂し、國華社より刊行された豪華図録『長春閣鑑賞』に掲載された作品を中心とした旧蔵品の展示を通して、川崎正蔵の審美眼に迫ります。この『長春閣鑑賞』は、国立国会図書館のデジタルコンテンツとして閲覧が可能です⇒こちらから

第3章    よみがえる川崎美術館

川崎正蔵は、所蔵品を秘蔵することは「国の宝が埋もれること」との考えから、これを公開するために川崎美術館を明治23年に開館しました。かつて川崎美術館にあった円山応挙の障壁画から、館内の構成が部分的に明らかになり(凄い!)、1階の上之間、広間、三之間を応挙の襖絵(東京国立博物館蔵)で再現展示し、現存する『陳列品目録』を手がかりに美術館の展観の様子が100年ぶりによみがえります。

第4章    美術とともに

明治35年(1902)の明治天皇の神戸行幸に際して川崎正蔵が命じられ、舞子の行在所(有栖川宮舞子別邸、現在その跡地にホテル舞子ビラが建つ)に金屏風5双を御用立てました。当時は「名誉の屏風」と称されたそうで、5双のうち3双の屏風、重要美術品『桐鳳凰図屏風』伝狩野孝信筆 林原美術館蔵、『桐鳳凰図屏風』狩野探幽筆 サントリー美術館蔵と日本の展覧会では初公開となる 狩野孝信筆『牧馬図屏風』が奇跡の再会を果たします。

また、中国明代の七宝焼(景泰藍)の再現ために尾張の七宝工・梶佐太郎を神戸へ招聘して製作させその普及と交流に努めた美術家の支援者としての正蔵の一面も紹介します。


国宝『宮女図(伝桓野王図)』伝銭舜挙筆 (川崎芳太郎編『長春閣鑑賞』國華社 大正3年(1914) 川崎重工業株式会社蔵)

第5章    川崎正蔵が蒔いた種-コレクター、コレクション、美術館

川崎正蔵の3人の息子は早くに亡くなってしまい、後継ぎとして迎えた四男は家業を継ぐことを拒み、廃籍されました。そこで郷里薩摩の先輩である松方正義の三男の幸次郎33歳を株式会社川崎造船所の社長に迎え、娘婿の川崎芳太郎は養子縁組して副社長に据えました。正蔵の美術品への思いは、松方幸次郎に継承され松方コレクションの形成や共楽美術館構想に影響を与えたとも考えられます。川崎正蔵没後の昭和2年(1927)の金融恐慌をきっかけに、松方コレクションともどもコレクションは売却され、散逸してしまいました。川崎正蔵旧蔵品は、国内外で約200点の現存が確認されているそうです。

川崎正蔵は、東山御物も多く収集しており、 国宝『宮女図(伝桓野王図)』伝銭舜挙筆や重要文化財『寒山拾得図』伝顔輝筆 が含まれています。織田信長も所蔵していた『寒山拾得図』は、ことのほかお気に入りで、命の次に大切にしていたと伝わっています。


この『寒山拾得図』は、大阪の古美術商・山中吉郎兵衛が当初名だたるコレクターである松岡正義、益田鈍翁、藤田傳三郎へも声をかけたが、名品と知りながらも彼らとは値段が折り合わなかった品で、正蔵は密かにこの作品を入手したそうです。東山御物の所蔵も多かった川崎正蔵ですが、今回の展覧会には茶道具がみあたりません。当時の財界人の社交の場と言えば「茶の湯」のイメージもあったのですが、近代数寄者の中では半歩早い世代であったのか、実子3人を亡くして、なかなか人と茶の湯を愉しむまでではなかったのか、はたまた「道具茶」への抵抗があったのか、長春閣で余生を送った正蔵です

川崎美術館については、まだまだ分からないところもあるようで、この展覧会をきっかけに新しい発見があることも期待しています。


川崎美術館と長春閣の外観(川崎芳太郎編『長春閣鑑賞』第6集 國華社 大正3年(1914) 川崎重工業株式会社蔵)

【開催概要】よみがえる川崎美術館-川崎正蔵が守り伝えた美への招待-

  • 会 期:2022年10月15日(土)~12月4日(日) ※会期中一部の作品は展示替えあり。
  • 休 館 日:月曜日
  • 開館時間:9時30分~17時30分(金・土は19時30分まで) ※入場は閉館の30分前まで
  • 会 場:神戸市立博物館
  • 公式サイト:https://kawasaki-m2022.jp

巡回はありません!神戸市立博物館だけの展覧会となります。


プロフィール

morinousagisan
阪神間在住。京都奈良辺りまで平日に出かけています。美術はまるで素人ですが、美術館へ出かけるのが大好きです。出かけた展覧会を出来るだけレポートしたいと思っております。
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