秋の京都で茶道具を愛でる 名品、名物、名宝が繋がる 眼福の茶の湯展@京都国立博物館
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- by morinousagisan
※掲載の写真画像は主催者の許可を受けて撮影したものです。本展覧会では、展示室内での写真撮影は禁止されています。
現在に生きる私たちがこれまで経験したことがないコロナ禍は世界中が辛い時を過ごすことになりました。京都に目を向ければ、日本屈指の観光地ということもあり震災で観光客が激減した時期以上に大きな打撃となりました。コロナ禍の収束を見越し、国内外からの観光客も戻る頃と文化庁の移転を来春に控えて、京都ならではの多分野に関連する文化的テーマ、建築から京料理や和菓子までをも内包する”総合芸術”のとして、”茶の湯”にスポットが当たったのも当然と言えば当然のことでした。
京都国立博物館(以下「京博」)では、過去2回茶の湯をテーマとした展覧会を開催しています。1990年春の「京都国立博物館特別展覧『400年忌千利休展』--わび茶の系譜」と2002年秋に「特別展覧会 日本人と茶 -その歴史・その美意識-」です。残念ながら私はどちらも観ていません。しかしながら「茶の湯」と関連した展覧会ということで言えば、2016年春の「臨済禅師1150年 白隠禅師250年遠諱記念 禅ー心をかたちにー」、2019年秋の「特別展 流転100年 佐竹本三十六歌仙絵と王朝の美」切断されたこの歌仙絵にお声が掛かったのは当時の近代数寄者と呼ばれた人たちでした。
昨2021年秋の「特別展 畠山記念館の名品─能楽から茶の湯、そして琳派─」では、即翁さんの審美眼に叶った豪快な茶道具を多く拝見しました。
他館へ目を転じても熊倉功夫先生が館長となられてからのMIHO美での「大徳寺龍光院 国宝 曜変天目と破草鞋」や「百の手すさび 近代の茶杓と数寄者往来」も強く印象に残った展覧会でした。
本展の記者発表については、ブログでご報告しました。
そして待ちに待ったプレスビューにももちろん満を持して参加させて頂きました。
ところが、内覧の時間が全然足りず、初めの3階をボーッと観ているうちにお時間となってしまい(単眼鏡は使わず、各階20分と事前に決めていたはずなのに)、音声ガイドさえ聞き終えられず、展示場内の写真なんぞも全く撮影できないままに京博を後にすることになってしまいました。呆然としてしまいました。のっけから国宝《法語(破れ虚堂)》 虚堂智愚筆 東京国立博物館蔵 や国宝《大井戸茶碗 銘 喜左衛門》京都・孤篷庵蔵 が現れて、オタオタする始末です。作品を目の前にすると、ついキャプションを読んで来歴を読んだり、宋時代の僧院の暮らしが描かれている 重要文化財《五百羅漢図周季常・林庭珪筆》中国・南宋時代 淳熙5─15年(1178─88)京都・大徳寺蔵 なら目を凝らして南宋の喫茶の様子を見たくなったりする。ということで、自分の眼でしかと確認すべく再度出かけてきました。これは大変な展覧会になっているが正直な気持ちです。展示数245件のうち国宝23件、重要文化財74件です。2017年に開催された「開館120周年記念 特別展覧会 国宝」で展示されたものも確かに多く含まれています。しかし、国宝や重文でなくとも茶道具として、各分野として観ても名品、名物、名宝が連なり、それらを繋ぐ展覧会で、茶の栽培や隠元禅師が黄檗宗と共に持ち込んだお煎茶にも言及しつつ、他館なら各章ごとでも1つの展覧会が成立しうる内容となっていました。
本展は「序章 茶の湯へのいざない」から始まります。
展示室には、京都大山崎町の妙喜庵にある国宝の茶室「待庵」の写真パネルが一面にあり、展示の茶道具に目をやると二組ずつ用意され、展示も銘やお軸の内容や所蔵先を知ると・・・茶道具の取合せも・・・成程、これはもしや秋の京での利休のわび茶の茶会に招かれた風なのか。そう言えば展示の順序も茶会の順なのか。なんとも“にくい”仕掛けで始まります。
第1章 喫茶文化との出会い
第2章 唐物賞玩と会所の茶
第3章 わび茶の誕生と町衆文化
第4章 わび茶の発展と天下人
第5章 茶の湯の広まり 大名、公家、僧侶、町人
第6章 多様化する喫茶文化 煎茶と製茶
第7章 近代の茶の湯 数奇者の茶と教育
と本章は、世界最古の茶の専門書である中国、唐時代の陸羽の《茶経》から始まり、明治の近代数寄者まで、歴史的展開を軸に7章構成となっています。
本展のご担当である降矢哲男研究員は図録において「今回の展覧会では、日本人が海外から取り入れた喫茶文化を各時代の要請に合わせて変化させていき、それぞれの時代の人に親しまれるものとしながら、茶の湯という独自への文化へ形成していった過程を体感できるように展示構成を行っている。」と説明されています。
遣唐使などを通じて日本にもたらされた「茶」は、入宋僧や渡来僧らによる仏教とともに広がっていきました。歴史の授業では建仁寺を開山した明庵栄西が茶をもたらし、高山寺に茶の木を植えたと習ったような記憶が残っています。栄西が著した日本最初の茶書『喫茶養生記』には医学的効能も書かれています。厳しい禅の修行においては眠くなることもあって覚醒作用もあったでしょう。足利将軍たちは、「唐物」を蒐集賞玩し、「会所」と称する接待の場に座敷飾として掛け並べられました。足利将軍家のコレクションは「東山御物」と称され、唐物の管理、鑑定を行い、会所の座敷飾の選択・プロデュースを行ったのが能阿弥や相阿弥ら法体者の「同朋衆」です。本展で知って驚いたのは、足利将軍たちは賞玩用に「唐絵」や「墨蹟」も切断したりしてお軸用に改幅していたことでした。一方で南北朝時代の『闘茶表』も伝えられており、なんと「喫茶」がギャンブルの対象にもなっていました。戦国時代には「御茶湯御政道」つまりは政治利用されちゃいます。本業は別にありながら、茶匠として天下人や戦国大名たちと深くかかわった千利休は、村田珠光、武野紹鴎以来の「侘び茶」を理論的にも大成していきました。天正19年(1591)の利休切腹で戦国的な下克上の茶の湯は終焉を迎え、「へいげもの」と呼ばれた古田織部の自刀で慶長という時代も終わりを告げたのでした。江戸時代になって世の中が落ち着いてくると寛永文化を背景として広いネットワークを持った小堀遠州が、「きれい」という美意識による「綺麗さび」の茶の湯を楽しみ、繊細で優美な「姫宗和」と呼ばれた金森宗和は、陶工・野々村仁清をプロデユースして彼の作品を茶会で披露しました。各階層に広まった茶の湯は、喫茶や茶屋、娯楽の場、茶の栽培の様子などが絵巻物や屏風にも描かれ当時の風俗を今に伝えています。承応三年(1654)に渡来した隠元隆琦が京都宇治に黄檗山萬福寺を創建します。それと共に新しい中国の文化も流入し、茶葉を鉄釜で煎って薬罐で煮出す「煎茶」ももたらされました。「煎茶」は、「売茶翁」に象徴され、「自娯・去俗」に憧れる文人趣味と結びつきました。近代になると大名や大町人の庇護を失って茶の湯の家元も苦境に立たされます。政府への申立て、内部からの時流に合った茶の湯への革新、子女教育に茶の湯が取り入れられるようになりました。大名家の売立てなどで他の美術品と共に海外へ流出する茶道具もあり、それの阻止もあって後に「近代数寄者」と呼ばれる政財界人たちにとって「茶の湯」は社交の場であり、趣味と蒐集の対象となって行きました。近代数寄者の茶道具の蒐集は、道具の域を越えて「美術・工芸」の分野となり、投機の対象ともなったようです。蒐集は、仏教美術や中国の青銅器、朝鮮の石造物、日本の絵巻物、古筆や琳派の絵画まで広がり、蒐集品もお披露目する茶の湯の会を披きました。戦後これらの東洋日本の美術工芸品の多くは、財団法人の美術館に展示されて私たちも拝見している訳です。
日本の文化に浸透していった「茶の湯」は、小説、大河ドラマや映画にも描かれることも多く、歴史的な場で使われた茶道具が、様々な人の手を渡り、特異なエピソードを持ち、それぞれの歴史的背景を背負って目に前に次々と現れてきます。
茶道具やお軸を自分の判断基準で拝見するのはもちろんありなのですが、茶道具はどうしてもかつての茶人たちの審美眼や好みにどう映ったのかも気になり、それがどう伝えられてきた(来歴)も気になるところです。数ある茶道について書かれたもののうちで、特に気になるものとして以下をあげておきたい。
① 足利将軍に近侍した同朋衆が、室礼や鑑定のために編纂した規定書が『君台観左右帳記』です。本展では最古の写本である『君台観左右帳記』1巻 室町時代 永禄2年(1559)東北大学附属図書館蔵 を展示。掲載されているのか?画家としてのランキングは?どのように飾られていたの?などなど。
② 利休自身が、自分の茶の湯に関して書き残したものは伝わっていません。利休の孫、宗旦(1578-1658)は利休の死まで一緒に暮らして利休の側近くで利休の茶の湯を見て育ちました。茶道具も手放さねばならない程で、「わび茶」を極めて清貧な日を送り「乞食宗旦 」と称されました。三人の息子たちには大名家に出仕させ、江岑・仙叟・一翁は三千家の祖となりました。利休の曾孫に当たる江岑宗左が利休の茶の湯について父宗旦から聞き書き留めたものが『江岑夏書』です。利休の弟子の一人である山上宗二が編述した茶の湯の伝書が『山上宗二記』。本展では((天正十六年二月廿七日付 雲州岩屋寺宛) 1巻 桃山時代 天正16年(1588) 京都・不審菴蔵を展示。山上宗二は、利休が心配していた通り、秀吉の勘気に触れて、耳と鼻を削がれて殺されてしまう、ドラマなどでも必ず出てくる悲話の人です。『山上宗二記』では「古人の名物であっても、当世では不用」と断じ、人気のあった牧谿を高く評価することはなかったようです。
③ 『松屋会記』『天王寺屋会記』『宗湛日記』『今井宗久茶湯日記抜書』の四大会記、本展では展示はありませんが、実際に披かれた茶会について、いつ披かれ、誰が披き、誰を招待して、どんな茶道具の取合せで、どう感じたのかなど情報量は多い。多忙な近代数寄者たちまで茶会記をこまごまと書き残していることも凄い。
④ 誰が所持していたのか?箱書きからも伝わる来歴。利休、織部、遠州所持もさることながら「雲州名物」と呼ばれる茶道具の大コレクションを形成した松平不昧「おっ、おぉー」不昧公所持なら確かと特別のお墨付きがついたのではないでしょうか。
本展では建水や蓋置の展示はなく、2階奥に展示されている彫漆の香合は、香炉に焚くための香木用で、他の素材の香合は炭手前の時に客の前で香を炷くようになってかららしい。1階に野村美蔵《青花有馬筆香合》の展示があっただけかと。香炉も仏前具として金堂や講堂に備え付けられていたものとして、花瓶、花台、香炉がセットとして展示されていました。重文《井戸香炉 銘 此世》1口 朝鮮半島・朝鮮時代 16世紀 東京・根津美術館蔵 は、小さくて香炉とは気づかず形も色も良いなぁと足が止まりました。図録解説には「・・・いわゆる塩筍形をした小形の香炉」とあります。
記者発表やHPなどの見どころで紹介されている茶道具は、本当にほんの、ほんの一部にすぎず、各人各様に観たい、惹かれる、足が止まる茶道具やお軸は自ずと違ってくるように思います。私が出かけたのは始まってまだ間がない平日の午後でしたので、展示室もそれほど混んでなくラッキーでした。1F奥の展示室はほとんどが国宝だったにも関わらず、この辺りで時間も気になるし、疲れてきたもあってか、独立ケースで四方からじっくり拝見できる国宝《曜変天目》1口 中国・南宋時代 12─13世紀 京都・龍光院蔵 はすんなりとご覧になるだけの方が多くて、「コレ、この茶碗は、国宝展でこぞってみんなが見に来た世界に三碗しかない曜変天目です!中ももっと視て!」とその場に立って説明したいほどでした。
作品リストと展示替一覧は ⇒コチラから
なかなかお目にかかれない茶碗や茶入などには「これがかの・・・」となります。
《黒漆塗手桶水指および千利休書状》水指:記三作、書状:千利休筆 水指:1合、書状:1幅桃山時代 16世紀 京都・不審菴蔵、《黒漆塗中棗》宗旦在判1合、《黒漆塗尻張棗》利休在判 盛阿弥作 1合 共に 桃山時代 16世紀 京都・今日庵蔵、 水指に付属するのは塗師への利休注文書状です。黒一色の真塗は身も引き締まるようで、利休の厳しい審美眼に叶う道具を作り出す職人の技も見事!
めったに出ないという 重文《大井戸茶碗 銘 筒井筒》1口 朝鮮半島・朝鮮時代 16世紀、その大きな割れにも秀吉と細川幽斎の逸話が伝えられ、天正15年の北野大茶湯にこの茶碗と共に用いられたという 重文《唐物肩衝茶入 銘 新田》1口 中国・南宋─元時代13─14世紀 茨城・徳川ミュージアム蔵、これこそ「これがかの『天下の三肩衝』の「新田」なのかぁ」とまじまじと拝見。どこがどう他の肩衝とそれほどの違いがあるのかは(・・? ですが、大阪城落城の際に被災し、家康の命を受けた藤重藤元、藤厳父子が焼け跡から探し出し、家康が所持したという歴史的な結構重い背景を背負って現在に伝わっていることにも感動します。織部の鼠志野もええなぁと思いながらも、《大井戸茶碗 銘 須弥》朝鮮半島・朝鮮時代16世紀 東京・三井記念美術館蔵、 わざと割って割れを漆と鎹で繕い、高台も削ってしまう織部ってどうなんとも。渋い茶道具の中にあって白くて厳しさを纏わない《古三島茶碗 二徳三島》や火間と呼ばれる釉が掛かっていない一部がアクセントとなってちょっと洒落てもいる 重文《粉引茶碗 三好粉引》共に朝鮮半島・朝鮮時代16世紀 東京・三井記念美術館蔵、 にホッと一息する。Twitterに「青磁がスポット的に出てくるのでその美しさが際立ってた」と感想を読んで、「確かに確かに」青い釉薬が目に清々しい。
かくかように強く印象に残った茶道具を書きだすとあれもこれもと切りがないのです。内覧会の折に、国宝《煙寺晩鐘図》伝牧谿筆 中国・南宋時代 13世紀 東京・畠山記念館蔵、照明が暗くガラスも反射して見えにくく、畠山記念館展の時はもっと見えたのになぁと思いながら眺めておりましたところへ、どこかで見たことあるお方が、武者小路千家第15代家元後嗣、千宗屋さんです。宗屋さん日美の「瀟湘八景図」特集の時、京博で開催された「千利休展」で「瀟湘八景図」をご覧になって感動したとお話になっていました。何かの取材かもしれず、脇に離れて失礼とは思いながら耳をそばだてていると「このお軸にはこれしかない、万聲や千聲ではなく、これが最高の取合せ」とお話になっていました。そのこれとは 胴がぷっくり丸く、粉青色がとりわけ美しい砧青磁 国宝《青磁下蕪花瓶》中国・南宋時代 13世紀 東京・アルカンシエール美術財団、です。ご覧になるときは是非是非この取り合わせの妙もお楽しみください。
本展では、いつもは大きな仏像が展示されている1Fに秀吉の「黄金の茶室」と利休の「わびの茶室」(待庵)が再現展示されています。「わびの茶室」京博での再現の様子は2Fレファレンスコーナー奥のミュージアムラボラトリーで動画が視聴できます。利休「わびの茶室」の元となっているのは、大山崎の妙喜庵にある「待庵」です。お寺のHPもありますが、山崎観光案内所HPにも勿論掲載されており、Linkを貼っておきます。伺いたいと思いながら、予約が面倒で私も伺ったことはなく、2018年の大阪北部地震では被害を受けたとも聞いたような。阪急大山崎駅すぐ近くの大山崎町歴史資料館で、待庵を実物大復元した展示は見たことがあります。ここ大山崎の地は京都の紅葉の穴場かもしれません。大阪・堺にある「さかい利晶の杜」にも千利休作の茶室で唯一現存する国宝「待庵」の創建当初の姿を復元した「さかい待庵」があり、こちらは中に入ることが出来るようです。コロナ禍の前に訪れた際には「黄金の茶室」もあり、その前で撮った写真が残っていますが、現在HPでは掲載がないようです。実際に妙喜庵の「待庵」の中に座した感想を書いた本で面白かったのは、
『藤森照信×山口晃 日本建築集中講義』藤森照信・山口晃 (著) 2013年7月
『京都、オトナの修学旅行』山下裕二・赤瀬川原平(著) 2001年3月
次は、11/3-11/6の4日間限定で公開される
国宝《桃鳩図》伝 徽宗筆 1幅 中国・北宋時代・大観元年(1107)款
どのような作品なのでしょう。楽しみです。憧れの君と会えるような、今考えるだけでもドキドキします。連休中なので、ちゃんと見ることは出来るでしょうか。縦28.6 横26.0ですから、現在展示中の 伝徽宗筆《鴨図》よりも小さい。図録の解説によると落款と朱文方印は北宋第8代皇帝徽宗の筆であることを示し、画面に書かれた日付は徽宗26歳に当たるそうです。徽宗皇帝は、皇帝としては政治的能力にかけ、宋は混乱に陥ってしまい、徽宗自身も靖康の変で金に連行されてしまいます。書画骨董を酷愛しと書かれてあり、そののめり込みようが伝わってきます。自身も当時を代表する書画家であり、『君台観左右帳記』でのランキングも最上位の「上々々」です。が、さすがにこの《桃鳩図》は出来すぎであるらしく「花鳥は得意とする主題であったが、文人皇帝たる徽宗の筆とするにはこれほどの技量の高さはかえって首肯しがたく、むしろその周辺の一流の画家の手になると考えるべきであろう」と解説されています。なら誰が書いたのか。足利義満の「天山」印があり、義満愛蔵の品であったことが分かっています。明治になってから井上馨が所持したそうですが、現在は個人蔵なのでしょうか。この前に立つといつもの様にぼ―ッとなってしまいそうです。私にとっては“一生もん”になるかもしれません。多分、閉館前30分が狙い時か?悩ましい。
【記念講演会】豪華ラインナップによる毎週末土曜日に開催 詳しくは⇒◆
☆☆☆「京都ほっこりお茶マップ」×「記念スタンプラリー」詳しくは⇒◆
【特別展「京に生きる文化 茶の湯」 開催概要】
- 会 期 : 2022 年 10 月 8 日(土)~12 月 4 日(日)
[前期展示]10 月 8 日(土)~11 月 6 日(日)
[後期展示]11 月 8 日(火)~12 月 4 日(日)
- 会 場 : 京都国立博物館(京都市東山区茶屋町 527)
- 休 館 日 : 月曜日
- 開館時間 : 午前 9 時~午後 5 時 30 分(金・土曜日は午後 8 時まで開館、入館は閉館 30 分前まで)
- 観覧料(当日券): [一般]1,800 円 [大学生]1,200 円 [高校生]700 円
- 展覧会公式サイト :https://tsumugu.yomiuri.co.jp/chanoyu2022/
- 展覧会公式 Twitter : @chanoyu2022
【参考】
- 図録 特別展「京(みやこ)に生きる文化 茶の湯」2022年10月12日
- 「講座日本茶の湯全史」第1~3巻 茶の湯文化学会/編 思文閣出版 2013年6月
「茶の湯」に関連する本は数限りなくありますが、私個人的には、村井康彦先生や熊倉功夫先生のご著書を読むことが多いです。
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