大阪から始まりました フィンセント・ファン・ゴッホ亡き後のファミリーヒストリー
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- by morinousagisan

フィンセント・ファン・ゴッホ(1853-1890)様々なテーマで展覧会が開かれ、多くの人たちを魅了してきました。ゴッホ作品を所蔵する美術館は彼の作品が所蔵品を代表する作品の1つとなり、ゴッホの作品を所蔵していることがステータスともなっていると云っても過言ではないでしょう。海外の美術館展でも所蔵のゴッホ作品がその展覧会の注目作品として紹介されてきました。
日本でのゴッホ人気は今に始まったことではなく、1910年森鴎外が文芸雑誌『スバル』に寄稿した記事に初めてファン・ゴッホの名前が現れ、同年『白樺』が刊行されて、ゴッホに関する記事や作品の複製図版が掲載されて、広く知られるようになり、多くの日本人画家たちがオーヴェール巡礼をするようになりました。ガシェ博士の元には日本人用の芳名録が用意されているほどでした。1920年には日本人が《ひまわり》を購入し日本へやって来ましたが、1945年の空襲で焼失してしまいました。1987年安田火災海上保険(現:損害保険ジャパン)が、イギリスのクリスティーズのオークションで、ゴッホの「ひまわり」を当時の絵画史上最高額となる約53億円で落札したことは大きな話題となったのでした。
フィンセント・ファン・ゴッホは37歳で亡くなり、彼を物心両面で支えた弟テオも半年後に亡くなってしまいます。しかし、フィンセント・ファン・ゴッホの作品は世界でも有数の美術館へ収蔵され、その名声は広まります。今日までその多くの作品はどのように受け継がれてきたのでしょう。
1. ファン・ゴッホ家のコレクションに焦点を当てた日本初の展覧会
2. 30点以上のファン・ゴッホ作品で初期から晩年までの画業をたどる
3. ファン・ゴッホが集めた作品や、初来日となるファン・ゴッホの手紙4通を展示
5章構成です。音声ガイドは、松下洸平さん。本展のサブタイトル「家族がつないだ画家の夢」の通り、落ち着いた語りで、フィンセントの手紙を読みながフィンセント亡き後のファミリーヒストリーを辿ります。

第1章 フィンセント・ファン・ゴッホ(以下「フィンセント」)が1890年7月29日37歳でこの世を去った後、作品を受け継ぎ、世界へ広めることに貢献した3人の家族の概略を紹介する。
・フィンセントの弟、テオドルス・ファン・ゴッホ(愛称テオ、1857-1891)兄を経済的、精神的に支え続けました。兄の作品の大半と兄のコレクションを相続しました。フィンセントは生前ほとんど絵が売れなかったからこそ作品の大半がテオの元に残されました。
・フィンセントの義妹・テオの妻、ヨハンナ・ファン・ゴッホ=ボルゲン(愛称ヨー、1862-1925)兄の友人のテオと結婚して美術への造形を深めました。フィンセントを追うように夫テオが亡くなり、テオの財産の半分を相続し、成人するまで息子の相続分も管理しました。フィンセントを世に広める大きな役割を果たした立役者です。
・テオとヨーの一人息子、フィンセント・ウィレム・ファン・ゴッホ(愛称エンジニア、1890-1978)成人して父テオの財産の半分を相続し、ヨーの死後全てのコレクションを相続しました。エンジニアとして働いていましたが、1945年以降一家のコレクションが散逸しないように尽力し、1949年に最初の財団を設立、後新たな財団として設立。コレクションの大部分の所有権を財団に移譲、財団は美術館へコレクションを永久貸与することを約束して1973年国立フィンセント・ファン・ゴッホ美術館(現ファン・ゴッホ美術館)が開館。
【ゴッホ展 × 松下洸平 011】松下洸平さんが学芸員さんに聞く「ファン・ゴッホの家族が果たした役割とは?」⇒◆
第2章 フィンセントとテオのコレクション
フィンセントもテオも伯父の画商のもとで働き始め、フィンセントは23歳で解雇されてしまいますが、テオは1880年代のパリの前衛的な美術を扱う画商となっていきました。フィンセントは画商で働いた時代も、またテオを通しても多くの作品を目にし、弟と語り合いながら、芸術観を深めてったでしょう。二人は多くの作品を収集しており、彼らのコレクションには彼らが生きた時代が反映されています。フィンセントの交友関係やどのような画家を参考にし、学んでいたかも見て取れます。
フィンセントとテオのコレクションには
・主にテオが購入した近代美術の油彩画と素描。フィンセントがプレゼントされた作品や自らの作品と交換した作品。
テオは、マネの版画やスーラの素描、アルマン・ギヨマンやゴーガンの大作も収集していました。フィンセントは、当時のパリの前衛芸術家の間ではすでに評価を得ており、決して孤高の画家ではありませんでした。フィンセントの肖像画の中では一番気に入っていた《フィンセント・ファン・ゴッホの肖像》を描いたピーター・ラッセルやエミール・ベルナールやゴーガンと自分が描いた画を交換していました。フィンセントとテオのコレクションには、ルノワールやピサロ、ルドンなどの作品も含まれ、同時代の芸術家による80点ほどの油彩画と素描も80点ほど、70点ほどの版画を収集していました。
・ハーグ時代にフィンセントが収集した作品、イギリスやフランスの挿絵入り新聞の木口木版を主としたモノクロ版画。
木口木版画は、版画家が原画を描き、彫師が木を横に切った断面を版木として彫り込み、細かい線や点描で繊細に表現されています。フィンセントは版画に記されたイニシャルを見ただけで版画家がわかる程に熟知していたそうで、「インスピレーションの『バイブル』とみなしていた」と説明されています。ファン・ゴッホファッミリーコレクションとしてゴッホ美術館に所蔵されるこの種の版画は、およそ1400点もあるそうです。
・日本の浮世絵版画。1886年初頭から88年初頭まで、パリでテオと一緒に暮らしていた時期にフィンセントが収集しました。
フィンセントの日本びいきは有名なお話で、アルルを日本とみなして引っ越ししていきました。これまでもゴッホと日本の関係性をテーマにした展覧会も少なくありません。フィンセントが確立した作風には
①大胆な画面の切り取りや広く鮮やかな色面など、浮世絵と出会うまでにはなかった構図を生み出しました。
②フィンセント自身の自然や人間に対する見方にも影響を及ぼしました。
「ジークフリート・ビングの店の屋根裏には日本の版画が1万枚も山積みになっているらしい」と手紙に書き、ビングの店はフィンセントにとって浮世絵が見つかる宝の山でした。最終的に500点を超える浮世絵がファン・ゴッホ家のコレクションに残り、ファン・ゴッホ美術館に所蔵されています。

第3章 ゴッホの画業を時系列で作品と共にたどり、描くモチーフ、色彩表現や筆触の変遷を見ていきます。
フィンセントが画家になると決心したのは27歳です。37歳で亡くなってしまうので彼の画業はたったの10年、ファン・ゴッホ家が受け継いできたのは、200点を超える絵画、500点以上の素描と版画で、現在はファン・ゴッホ美術館に保管されています。
ゴッホは何故画家になろうと思ったのだろう。
【ゴッホ展 × 松下洸平 012】松下洸平さんが学芸員さんに聞く「なぜファン・ゴッホは画家に?」が公開されています。⇒◆
フィンセントは、ミレーやブルトンのような「農民画家」を志し、生涯「ミレーこそ鑑とすべき画家」と考えていました。
ハーグでは、まず素描の技術を磨きます。収集していた新聞の挿絵版画の影響が伺えます
⇒ニューネンで油彩に取り組みます。静物画も描き始め、ドラクロアの色彩理論も研究していました。
⇒1886年パリに出ると、新しい前衛画家たちの作品を目にして色彩は一気に明るくなっていきます。モティセリの厚塗りの技法を知り、筆触を強調するようにもなっていきました。
パリでの2年間は、テオと一緒に暮らしました。テオにとっては大変な2年間だったでしょう。パリ時代には、同居していたので書簡が存在しない空白の時期とも言えそうです。今日まで伝わった自画像の8割がパリ時代に描かれています。経済的にモデルを雇う事が難しく、自らの姿を繰り返し描きました。色彩や筆づかいの実験として、新しい技術と様式の独自の表現へと昇華させていきました。またそれは自分を見つめる行為でもあったでしょう。
⇒1888年南仏アルルへ向かいます。フィンセントに残された時間は少ない。明るい光と色彩表現を追究した作品を描きました。「黄色い家」を借り、ゴーガンとの短い共同生活の中でお互いに影響を与え合いましたが、強い個性は衝突し破局、耳切事件。生活について、制作について、自分の心情をテオに手紙を送ります。ミレーの《種まく人》と同じモチーフの作品は、構図に浮世絵の影響もありながら、フィンセントらしいエネルギッシュな表現となっています。
⇒1889年サン=レミの療養院へ入院。数点の肖像画と自画像、《木底の木靴》などの数少ない静物画を描きました。症状が落ち着くと、糸杉やオリーブ園などプロヴァンスに典型的なモチーフを落ち着いた色調で描き、筆つかいは画面に調和をもたらすリズムと動きの感覚を探究しました。アーモンドの木々が青空を背景に花咲く作品を描いてテオとヨーに息子の誕生を祝って贈りました。
⇒1890年パリを経由して終焉の地オーヴェール=シュル=オワーズへ。パリに立ち寄ったフィンセントと初めて会ったヨーは、メインヴィジュアルとなっているパリ時代に描いた《画家としての自画像》につて、「あの頃の彼に一番似ている」と語っています。予想に反してガッチリした体格の義兄に驚いた様です。フィンセントの妹宛の手紙には、本人はこの自画像を気に入ってはいなかったようですが、筆触や色彩表現にもパリ時代の自画像の集大成のような本作を評価したヨーの確かな目がありました。
ポール・フェルディナン・ガシェ博士と逢い、オーヴェール=シュル=オワーズを気に入り新しい手法も模索していました。バルビゾン派の影響下に自分があることに気づき、周囲に広がる麦畑に魅了され、フィンセント独自の作品を残しながらも、3ヶ月で自らの命を絶ってしまいました。
第4章 ヨー・ファン・ゴッホ=ボルゲルが売却した絵画
第4章は、本展の最も重要な章です。ヨーは、オランダの中流階級の家庭で育ち教養高く、教師や翻訳家として自立した女性でした。大都会パリで美術商の妻として、現代アートに囲まれ、芸術家たちと交流が始まり、新婚生活は刺激的な日々だったのではないでしょうか。テオとヨーは、「階級社会に反対する考えを共有し、家庭でも『社会問題』について話し合う夫婦だった」と解説されています。夫はパリの画商の支店長として十分の収入があったとは言え、義兄への決して少なくない額の経済的支援をどう受けとっていたのでしょう。
新婚当時からつけていた「会計簿」が展示されています。テオ存命中は、①夫婦の財務状況、②テオが兄のために購入した画材や毎月送金していた金額、③日々の支出などの記録でした。
ヨーは、テオとの暮らしのなかで近代美術についての知識も得て、テオから膨大なコレクションを相続し、個人収集家や美術館や美術取引の仕組みについても精通していきました。梅毒だったと言われるテオは亡くなる前からかなり酷い症状だったでしょう。同時代のニーチェも死因は梅毒とあるのでこの時代では決して珍しい事ではなかったのかも。ヨーは、生まれたばかりの赤子を抱えてどんなに大変だったか。定期的に作品を売却しますが、それは幼い子どもを抱えての生計を立てるためだけではなく、フィンセント・ファン・ゴッホの評価を確立するためでもあり、どの作品を展覧会に出品し、何を残し、何を売却するか明確な価値観を持って戦略的に実行しています。パリ時代からの会計簿には、「どの作品を誰にいくらで売却したか」を詳細に記録し、ファン・ゴッホ研究の貴重な資料となりました。2002年にはこの会計簿の注釈付き学術書が出版され、フィンセントが描いた170点以上の油彩画と44点の紙作品が特定されました。
アムステルダム市立美術館所蔵 フィンセント・ファン・ゴッホ《モンマルトルの菜園》は、ヨーの会計簿に、1917年4月6日、12,000ギルダーで売却された記録が残っています。
もう1つのヨーの大きな功績は、テオが残したフィンセントからの大量の手紙を『弟への手紙』としてフィンセント・ファン・ゴッホ書簡集を1914年に出版したことです。フィンセント・ファン・ゴッホの調査・研究、展覧会の開催のよりどころとなっています。テオに制作中の作品を伝えるためにペンで描いた小さな素描も掲載しました。これによりフィンセント・ファン・ゴッホの作品の背景や彼の芸術観、人生観を知る事が出来るようになりました。
フィンセントの作品に囲まれて育った一人息子のフィンセント・ウィレムは、成人してテオの相続分の半分を自分で管理するようになりますが、エンジニアとして働き続け、1918年には1年間神戸に住んでいたそうです。伯父フィンセントが憧れた日本から母宛に広重の浮世絵の絵葉書を送りました。この母と子は、1924年手元に残っていた2点の《ヒマワリ》のうち1点と《ファン・ゴッホの椅子》をロンドン・ナショナル・ギャラリーへ売却しました。「家計簿」にも記載されています。1925年大きな仕事をなし終えてヨーは亡くなりました。フィンセント・ウィレムは、一家のコレクションが散逸しないよう作品を売却することを止めていきました。55歳を迎えた1945年以降ファミリーコレクションに深くかかわるようになり、財団を設立し、国立フィンセント・ファン・ゴッホ美術館開館までこぎつけました。
第5章 コレクションの充実 作品収集
フィンセント・ファン・ゴッホ財団コレクションの展示を目的として「国立フィンセント・ファン・ゴッホ美術館」と名付けて1973年に美術館が開館しました。その後美術館が新たに収蔵した作品を紹介しています。1980年代後半から1990年代前半にかけて、フィンセントと関連あるバルビゾン派、やハーグ派や象徴主義の作品が新たに収蔵されました。やがて「フロート・スポンサー・ロテレイ」つまり収益が美術館にも分配される宝くじの恩恵を受け、これまで購入が難しかった作品が購入できるようになり、コレクションは充実していきました。1999年に開館した新たな展示棟は黒川紀章の設計によるものです。
テオ宛ではない手紙もコレクションにくわわりました。2006年に個人コレクションで発見されたフィンセントがブリュッセルで出会った先輩画家、アントン・ファン・ラッバルトに宛てた4通の直筆の手紙が展示されています。手紙にはスケッチも添えられ絵手紙風です。手紙は質の悪い紙に書かれることが多く、色褪せしやすいインクで書かれており、絵展示されることはまれでとても貴重な機会となっています。
展覧会の終わりは、大規模空間でフィンセント・ファン・ゴッホ作品を題材にした没入体感型デジタルアート、いわゆるイマーシブアートにどっぷり浸ってゴッホ作品を全身で受けとめてください。
ヨーは、本当に忍耐強く優秀で聡明な女性でした。本展は、この女性から繋がれたファミリーヒストリーを知る意義ある展覧会だと思いました。様々な絵本にもなっているゴッホ、夏休みにお子さんともぜひ一緒にお出かけ下さい。
本展の図録は、図版と同じ見開きページに解説があり、ほか論考もとても読みやすかったです。ヨーについての解説は特にお薦めです。

【開催概要】
- 会期:2025年7月5日(土)~2025年8月31日(日)
- 会場:大阪市立美術館
- 時間:9:30~17:00 毎週土曜日は19:00まで(最終入場は閉館30分前まで)
- 休館日:月曜日、7月22日(火)※ただし、7月21日(月・祝)、8月11日(月・祝)、8月12日(火)は開館
- 観覧料:一般2,200円(2,000円) / 高大生1,300円(1,100円) / 小中生500円(300円)
※土日祝日は日時指定予約優先制。平日の予約は不要 ※( )内は20名以上の団 体料金
- TEL:06-6771-4874
- URL:https://gogh2025-26.jp/
巡回情報
東京都東京都美術館 会期:2025年9月12日(金)~2025年12月21日(日)開催予定
愛知県愛知県美術館 会期:2026年1月3日(土)~2026年3月23日(月)開催予定
【参考】
・明治安田火災美術館(現:SOMPO美術館)
1987年10月 安田火災海上が同年に購入したゴッホ《ひまわり》を一般公開
「ゴッホとその時代展」開催、1997年まで毎年ゴッホ展を開催
2003年9月 「ゴッホと花」展を開催
以下、記憶に残った関西で開催されたゴッホの展覧会
・1976年「ヴァン・ゴッホ展」@京都国立近代美術館 2026年開催から50年になります。
「日本におけるゴッホの展覧会は、1958年に大規模な展観があって以来久々であるが、今回はオランダ国立ヴァン・ゴッホ美術館の所蔵品の中から素描と水彩に主眼をおいて選択された。わずか10年の活動期間しかもたなかったゴッホは、約1700点の作品を描いているが、そのうちの100点が、最初期のエッテン時代から、ハーグ時代、ヌエネン時代、アントワープ時代、パリ時代、アルル時代、サン・レミ時代、オーヴェール・シュル・オワーズ時代と年代を追って展観された。 ヴァン・ゴッホの芸術の変遷の姿を通覧できるように、素描と水彩を中心に構成された本展は、従来、強烈な色彩をもつ油絵の圧倒的な魅力のかげに、ともすれば見過されがちであったゴッホの線による表現力のすばらしさを味わう上でまたとない機会であり、好評のうちに終了した。」
・2013年「ゴッホ展 空白のパリを追う」@京都市美術館 ゴッホの自画像が8点も展示されていました。
・2018年「ゴッホ展 巡りゆく日本の夢」@京都国立近代美術館
・2020年「ゴッホ展 ハーグ、そしてパリ。ーゴッホへの道」@兵庫県立美術館
コロナ禍で翻弄され途中で開催が中止となった。