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知っているようで知らない広重 広重作品だけの大規模展覧会です。

広重の浮世絵なら繰り返し観ているよ!という方にも是非是非お勧めしたい展覧会です。

北斎の展覧会は、繰り返し開かれているのに、さて、本格的な広重単独の展覧会ってありました?永谷園のお茶漬けについてくる広重の「東海道五拾三次」のカードで馴染みすぎて、良く知っている気になっていないだろうか?版画と言うこともあり、世に出回っている広重作品は物凄くたくさんあります。広重は依頼のあった仕事は余程の事がない限り断らず引き受けており、北斎ほどの長生きではなかったけれど、その守備範囲は広く、多様な形態で作品は残っています。

浮世絵研究家としても有名な浅野秀剛館長は、本格的な大規模な展覧会を開催したいと思っておいででしたが、初摺り、状態の良いもので代表作を一堂に集めて大規模展覧会(2017年の大英博物館で開催された国際展くらいだそうで)を開くとなるとなかなか容易な事ではないとお話になっていました。

(※主催にNHKが入っており、残念ながら私は視聴しておりませんが、阿部サダヲさん主演の「広重ぶるう」をご覧になった方も多いかもしれません。おそらく、広重の画業を知るという点でも参考になると思います。後期展示には間に合うかと、梶ようこ著『広重ぶるう』を図書館で予約しました)

あべのハルカス美術館は、開館10周年記念と銘打って、「広重―摺の極―」を巡回がない単館開催です。(単館開催は「絵金展」以来でしょうか?)そこで白羽の矢が立ったのが「レスコヴィッチコレクション」です。ポーランド出身パリ在住のジョルジュ・レスコヴィッチさんって誰?(ウィキペディアにも出てこない)なのですが、浮世絵コレクターとしては、かなり有名な方らしい。(※奈良・大和文華館 特別展「レスコヴィッチコレクションの摺物-パリから来た北斎・広重・北渓・岳亭」と連携開催で、この展覧会についてもレポートを書く予定です)

チラシにもあるキャッチコピーは「知っているようで、見たことない。日欧の至宝、大阪に集結。」

[見どころ]

  1.  風景画を中心に初期から晩年までの広重の画業を、摺り、保存状態ともに極上の作品で総覧します。
  2. 三大揃物、「東海道五拾三次(保永堂版)」「木曽海道六拾九次」「名所江戸百景」各シリーズの代表作を一堂に会します。
  3. 代表的揃物、「本朝名所(一幽斎がき)」(※「一幽斎がき」とは、作品にある署名に「一幽斎廣重画」とあるもの)、「近江八景」、「京都名所」、「浪花名所図会」、「江戸近郊八景」「東都八景 扇面」の全作品を前後期に分けて展示します。シリーズでセットになったものは、セットの全作品を見る事が出来ると言うことです。

作品リストによれば、展示件数は338件、《三代歌川豊国 広重の死絵》は通期展示、彩色摺絵本と『絵本江戸土産』彩色摺絵狂歌本『江都日千両日本橋之部』はページ替の他は、前後期で全部展示替となります。展示作品の8割がレスコヴィッチ蔵でこれまた凄い!

8章構成です。第3章のNo.111~No.131(「金沢八景」と「木曾海道六拾九次」の1部)は写真撮影OKです。章解説と主な作品にある作品解説も詳しく分かり易いと思いました。


最初に展示されている《三代歌川豊国 広重の死絵》には、追悼文も認められ生前の広重が偲ばれます。(解説に詳しい)その内容から、62歳で亡くなった年(安政5年(1858)9月6日)から逆算して、寛政9年(1797)の生まれとされています。定火消(江戸城の火災に対応するための組織)屋敷に生まれました。父は津軽家に仕えた士分で、火消同心職であった安藤家に養子に入り職を継ぎました。広重(幼名は徳太郎)は、幼い頃より画では評判があったようですが、13歳で家督を継ぐも母は既に亡く、父もすぐに亡くなってしまいます。この頃に重右衛門と改名し、その「重」と、15歳頃に歌川豊広に入門して、師の「広」とで「広重」と名乗ったようです。※私は安藤広重と習ったのに、何故「安藤」ではなく「歌川」が一般的になったのかが今回よく分かりました。

第1章      雌伏の時代 文政期(1818-30)

広重が浮世絵師として世に知れる前の作品を展示しています。絵師としてのデビューは22歳頃とされ比較的恵まれたスタートを切ったようですが、役者絵、美人画、武者絵や時事主題の作品、摺物など様々な画を描きながら自分独自の画風を模索していました。母方の祖父の子を養子にして家督を譲りますが、後見人として火消同心職の実務に当たり、天保3年(1832)に引退するまで絵師とのWワークをこなしていました。希少な最初期の作品も展示されているようです。美人画にこま絵を描いて部屋の内と外を描いているのが面白く、大名屋敷で座敷狂言が行われたらを想像して描いた《見立座敷狂言》描かれた役者が特定できるとは。

第2章 名所絵開眼 天保(1830-44)前期の名所絵

文政後期に広重は名所絵を描き始めます。最初のヒットは「東都名所」(横大判錦絵10枚揃)(署名が「一幽斎廣重画」とあることから「一幽斎がき東都名所」と呼ばれています) ペルシンアブルーと紅の協演が美しい作品群です。《東都名所 両国之宵月》を見てホイッスラーを思い浮かべる方もいるかもしれません。橋脚の間から見える景色は浮世絵の影響ですね。保永堂版「東海道五拾三次」(横大判錦絵55枚揃)は爆発的大ヒットとなります。これと並行して上方三部作、純粋風景画の「近江八景」(横大判錦絵8枚揃)、人物中心の「浪花名所絵図」(横大判錦絵10枚揃)、名所とそこで生活し楽しむ人を調和させた名所風俗画ともいえる「京都名所絵」(横大判錦絵10枚揃) が刊行されます。この三部作には、主とするところがそれぞれの土地柄が出ているように思います。「四季江都名所」(中短冊判錦絵4枚揃)や名所絵が次々と刊行されて、名所絵の広重として広く知られるようになります。

摺りの美しい保永堂版「東海道五拾三次」を眺めるに、詩情豊かで叙情的だけでなく賑わいや会話も聞こえてくる、まさに良―く知っているようでもここはこうなっていたのかなど惹き込まれ見入ってしまいました。






展示会場風景:左から《金沢八景 瀬戸秋月》《金沢八景 称名晩鐘》天保6~7年(1835~36)頃 横大判錦絵8枚揃のうち ジョルジュ・レスコヴィッチ氏蔵・・・

第3章 名所絵の円熟 天保(1830-44)中後期の名所絵

渓斎英泉が24図を描き、その後を引き継いで「木曽海道六拾九次」(横大判錦絵70枚揃)が刊行されます。「円熟した寂寥感の増した広重の魅力が遺憾なく発揮された作品であり、広重の名所絵の完成は『木曽海道』のシリーズで成し遂げられると言えるかもしれない。」と説明されています。この時期重要なシリーズが相次いで刊行されます。

・旅行スケッチが生かされた作品群である「本朝名所」(横大判錦絵15枚揃・全図前期展示)、

「江戸近郊八景」(横大判錦絵8枚揃・全図後期展示)は、初版は狂歌師の私家版で多くの狂歌が入っていました。「画面に満ちた詩情は非凡で、生涯の傑作の名に恥じない逸品揃い」と評されています。

・扇面枠「東都八景」(横間判錦絵8枚揃) 新しいものに挑戦しようという版元の意気込みを受けた意欲作。

「金沢八景」(横大判錦絵8枚揃)について、研究者間の評価は決して高くないけれど、「この揃物が、平板すぎてドラマがないと感じられるとすれば、それは無理に誇張することを嫌ったためということがいえるかもしれない。広重の素直な感性は、北斎流の操作を好まないと思うからである。」とあり、北斎と広重の魅力の違いを言いえているように思いました。

名所絵を次々と刊行していくうちに、当然のことながら新鮮味のない、自己模倣に陥っていると気づいていたようです。天保12年(1841)「甲州道祖神祭幕絵」(広重最大の作品)制作のため長期滞在し、甲州各地を写生して江戸に戻って大判錦絵竪2枚継(掛物絵)「甲陽猿橋之図」「富士川上流雪景」を制作します。縦長のこれまでの横大判とは違ったテイストで、新たな境地へ踏み出そうとしています。

第4章 竪型名所絵の時代 弘化から没年(1844-58)の名所絵

天保の改革の「贅沢禁止令」やそれに伴う文化統制で美人画や役者絵を描いていた浮世絵師は大打撃を受けましたが、風景画や花鳥画で知られていた広重は他の絵師ほどには大きな影響はなかったようです。

「不二三十六景」(横中伴錦絵36枚揃)は、北斎の「富嶽三十六景」に倣って、画の中に富士山を入れた名所絵の36枚揃です。版の大きさは北斎の半分サイズで、一図面に主題だけを描いています。どの作品も良くて「う~ん」と声が漏れてしまいました。

視点を極端に低く設定したり、近景の一部を拡大して描くようになり、「名所江戸百景」(大判錦絵119枚揃)で結実します。縦長の版だからこその俯瞰した構図も多い。

広重が意識した点が図録に説明されています。

作画の明確化:絵の見どころ(面白味)をどこに置くかを明確にする

構図の工夫と整理:俯瞰図を取るか近景拡大型構図(近像図)を取るか。近景と中遠景とのバランス、視点の高さをどうするかが重要となる。

版木法の取捨選択:色板の木目について摺師と入念な打ち合わせをしたのではないか。

広重ブルー

これらの点においてヨーロッパの画家たちは浮世絵に魅了され、ゴッホやモネのように自分で模写したり、構図に取り入れたりしたのでしょう。

「木曽路」が雪、「金沢」が雪、「鳴門」が花(波の花)の「雪月花三部作」(大判錦絵3枚続)は広重晩年の代表作で、「人物を排除し、俯瞰構図の雄大な景観を情趣たっぷりに表現した広重風景画の一到達点と言える」と説明されています。

第5章 広重の花鳥画

広重は花鳥画の名手でもありました。知らなかった!展示作品を見れば納得の美しさ愛らしさ。名所絵と同時期から描き始めて晩年まで、様々なサイズと形態で描いていました。短冊版の花鳥画は、広重花鳥画の代名詞となっているそうです。真ん中で裁断するのを忘れた?未裁断の作品には、賛の墨板を貼り込むスペースに「すみ板はり込み」との指示書きを彫って摺ってしまって今に残る点でも興味深い(前期展示)。「魚づくし」は最初は狂歌師連中の依頼で私家版として作られたものです。

第6章 美人画と戯画

広重は天保末頃から再び美人画を描き始めます。天保の改革の波が去ったのもあったのでしょうか。『東海道中膝栗毛』に題材を得た戯画など国芳とはまた違った滑稽味ある作品も手がけています。

第7章 多彩な活動

依頼されれば余程の事がなければなんでも制作した広重の守備範囲の広い作品を展示。狂歌本の挿絵などの絵入版本の絵本、絵手本。稀覯品とされる「和漢朗詠集」(大判錦絵8枚揃)や高評価の泉屋市兵衛版「忠臣蔵」(横大判錦絵16枚揃)、制作量が多い張交絵や団扇絵、絵半切(手紙用箋のうち絵(版画)入りのもの)と絵封筒、摺物、絵双六に、同好者間で交換するための鑑賞用(交換納札)の千社札までありとあらゆるものがり、それだけ注文もあり、人気もあったのでしょう。

第8章 肉筆画の世界

「天童広重」と呼ばれている出羽天童藩織田家の依頼を受けて制作した掛軸が肉筆画としては有名だそうです。藩内の豪商らに課した御用金に対して下賜され、100組200幅以上制作されたとあります。

最後は版画制作のために描かれたが版画が制作されずに残った版下絵の展示です。朱筆があるなど指示を書き込んだものもあります。


広重は幕末に流行したコレラで亡くなたったとが通説だそうです。

 

浮世絵、「浮世の絵」ですが、これを観るとなると当時の流行りもの、歌舞伎や浄瑠璃、狂歌や文学作品などそれなりの教養は必要とされそうです。広重作品は作品のサイズが重要なファクターともなっています。1枚なのか、3枚続なのか、横なのか竪なのか、短冊なのか団扇なのかなどなど。名所絵にしても何処をどう描く、トリミングするか、人をどう配置するか、季節、天候、色の配色。絵師の視点をどこに持っていくか、構図をどうとるか、知っているはずの作品を展覧会でまじまじと見入り、ブログを書きながらも図録に惹き込まれてしばしの時が経つ。

広重特有の詩情、情趣、寂寥感は日本人の琴線に触れる。絵師、版元、彫師、摺師が一体となって出来上がっています。

ミュージアムショップの広重画の団扇も素敵、ご当地のお茶漬けふりかけがあるのは知りませんでした。


ミュージアムショップ

【開催概要】あべのハルカス美術館開館10周年記念 広重 ―摺の極―

  • 会期 :2024年7月6日(土)~2024年9月1日(日) ※会期中、展示替えがあります

前期 7月6日(土)~8月4日(日)/後期 8月6日(火)~9月1日(日)

  • 会場:あべのハルカス美術館
  • 開館時間:火~金 10:00~20:00/月土日祝 18:00まで ※入館は閉館30分前まで
  • 休館日:8月5日(月)この日以外の月曜日は開館!
  • 観覧料:一般 1,900円(1,700円)/大高生 1,500円(1,300円)/中小生 500円(300円)
  • 展覧会サイト:https://www.aham.jp/exhibition/future/hiroshige/

プロフィール

morinousagisan
阪神間在住。京都奈良辺りまで平日に出かけています。美術はまるで素人ですが、美術館へ出かけるのが大好きです。出かけた展覧会を出来るだけレポートしたいと思っております。
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