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短い生涯の中で洗練され昇華されていくモディリアーニの肖像画  モディリアーニ―愛と創作に捧げた35年―

大阪中之島美術館開館記念第2弾「モディリアーニ」展が始まりました。

内覧会に参加してきましたので、ご報告します。

※掲載の展示場内の写真は主催者の許可を受けて撮影したものです。

 

オープニングは開館までの長いコレクション形成期の作品群のお披露目の展覧会でした。

そして、第2弾は「モディリアーニ展」です。《髪をほどいた横たわる裸婦像》は大阪中之島美術館所蔵コレクションを代表する1点であり、最初の重要な作品です。これまで何度も国内外の展覧会へ貸し出されてきた作品で、それ故、開館が見えた時点で美術館の企画展としてすぐに「モディリアーニ展」が決定したそうです。

海外では、毎年のように開催されている「モディリアーニ展」ですが、日本では14年ぶりの展覧会となります。

 モディリアーニは驚くことに贋作も多い画家らしく、科学的調査によるモディリアーニ研究の動向も紹介し、日本でモディリアーニの受容についても考察します。それぞれについては図録にも掲載されています。

展覧会はほぼ年代にそって3章構成です。

プロローグ「20世紀前期のパリ」としてモディリアーニがパリで過ごした時代背景を大阪中之島美寄託のサントリーポスターコレクションで紹介します。

特集展示「日本とモディリアーニ」では、モディリアーニ作品がいつ頃日本に紹介され、どう受け入れられ、日本の画家たちにどのような影響を与えたかなど、日本とモディリアーニとの関係を作品と資料で紹介します。

エコール・ド・パリの夭折の画家 アメデオ・モディリアーニ(1887-1920) 酒と女と麻薬で荒んだ生活、細長い顔、極端ななで肩、長い首、塗り潰されたアーモンド形の眼をした彼が描く女性像は少し寂しげです。日本でもよく知られたモディリアーニのイメージは、多分にジェラール・フィリップ主演の映画「モンパルナスの灯」や彼を題材とした小説から影響されているかもしれません。

モディリアーニは、イタリアトスカーナの港町、リヴォルノにスペイン系ユダヤ人の次男として生まれました。幼少期より病弱で、その分教養高い家庭環境で文学にも親しみ、フィレンツィエやヴェネツィアで美術を学びました。療養を兼ねてイタリア各地を回り、イタリア美術に触れたことは生涯彼の根幹をなすものでした。


前列左からコンスタンティン・ブランクーシ《眠れるミューズ》1910-11年頃 石膏 大阪中之島美術館蔵、《接吻》1907-10年 石膏 石橋財団アーティゾン美術館(旧ブリジストン美術館蔵)

第1章    芸術家への道 1913年ごろまでのモディリアーニについて

1903年ヴェネツィア・ビエンナーレで新印象派などのフランスの最先端の美術に衝撃を受け、友人からも世界中の芸術家が集まる前衛の都パリの話を聞き、モディリアーニは移住を決心し、1906年21歳でパリにやって来ました。

セーヌ川右岸のモンマルトル界隈に暮らし始めます。画塾「アカデミー・コラロッシュ」の人体写生教室に登録します。毎日通うのではなく1回ごとにお金を払うシステムのようで、後にここで妻となるジャンヌと出会うことになります。ルーブルなどの美術館はもちろん、画廊や展覧会を巡って多彩な美術を吸収したようです。1910年頃モディリアーニの関心は彫刻へと移り、古代以前の美術や当時はやりかけていたアフリカ彫刻や東洋美術など非西洋的な美術にも影響を受け、ルーマニア出身の彫刻家ブランクーシに導かれて彫刻に没頭することになります。彫刻の中でも「カリアティード」(古代建築に用いられた女性の姿をした柱)に特に関心があったようです。彫刻のためのデッサンや習作のための油彩画は後の裸婦像に通じるものを感じます。モディリアーニの彫刻はもろくて運搬できないため、この章では彫刻作品の写真やブランクーシの作品、関心を持ったアフリカのお面などが展示されています。

《ポール・アレクサンドル博士の肖像》が2点展示されています。1907年に出会った研修医ポール・アレクサンドルはモディリアーニを援助した最初のパトロンでした。

再びモディリアーニは、絵画へと戻っていくのですが、それは粉塵が飛び散り健康上良くなかったとか、体力のない彼には彫刻は向いていなかったとか、絵画ほどに彫刻は売れないからとか、素材に費用がかさむとか健康上、経済的な理由が考えられるとされていますが、本当の所はどうだったのでしょう。

絵画への回帰へ背中を押したのが画商ポール・ギヨーム。彼に残された時間は限られていました。


モディリアーニ人物相関図

第2章 1910年代のパリの美術

モディリアーニは、セーヌ川右岸のモンマルトルと左岸のモンパルナスを行き来しながら短い人生の後半をほとんどパリで過ごしました。そこは「洗濯船」(バトー=ラヴォワール)、「蜂の巣」(ラ・リューシュ)やシテ・ファルギエールなどの集合アトリエや酒場やカフェに世界中から芸術家が集まり交流しました。彼らは特定の芸術理論を掲げたわけでもグループ展を開催したわけでもないが、彼らを総称したのが「エコール・ド・パリ」、1925年美術評論家のアンドレ・ワルノーが書いた記事に由来します。この章ではモディリアーニと交流のあったエコール・ド・パリの個性豊かな画家たちの作品が展示されています。ヴァン・ドンゲン、パスキン、キスリング、スーティン、シャガール、そして藤田嗣治と綺羅星のごとく集まったエコール・ド・パリですが、その何倍もの芸術家たちや画商や詩人や文学者たちがこの時代ここに居たことでしょう。ジャン・コクトーが撮影した写真にはピカソと一緒に写るモディリアーニがいます。ピカソは「青の時代」から「バラ色の時代」を終え、1907年には《アヴィニョンの娘》を描きあげて、キュヴィズムそして「新古典主義」とドンドン先へ走る前衛画家だったことでしょう。キスリングとモディリアーニが描いたキスリングの妻ルネの肖像画が並んでいます。キスリングを描いたデッサンと妻ルネの肖像画は似ていて、二人ともに目は左右はちぐはぐに描かれています。藤田を描いたデッサンや藤田がモディリアーニを懐かしく思い出して書いた文も紹介され彼らが親しい中であったことを物語っています。教養が高く、フランス語も流暢なモディリアーニは、仲間に恵まれ彼らの中に確かな自分の居場所もありました。この時代モディリアーニの周りで次々と新しい絵画の潮流が生まれますが、モディリアーニはそのどこにも属することなく自分独自の絵画制作を目指します。モディリアーニの友人たちが再び集うのはモディリアーニのお葬式で、やがて彼らは裕福になってモンパルナスを出ていき、「狂乱の時代」を迎えます。


左からアメデオ・モディリアーニ《髪をほどいた横たわる裸婦》1917年 油彩・カンヴァス 大阪中之島美術館蔵、《座る裸婦》1917年 油彩・カンヴァス アントワープ王立美術館/ベルギー

第3章 モディリアーニ芸術の真骨頂 肖像画とヌード

私たちが思うモディリアーニの肖像画が並び圧巻です。第1次世界大戦が始まった頃に絵画制作へ戻ったモディリアーニには、新進の画商から支援も受けるようになります。もう迷うことはなかったのか、作風が整っていきます。モディリアーニの人物像の特徴とされる塗りつぶされた瞳のない眼や細長い首もこの頃から登場するようです。モディリアーニの描く人物像は形体がだんだん伸び、絵具は薄く塗られ、色彩は明るく透明感が増していきます。手指が描かれ表現が加わり、男性像よりも女性像が増えて、顔を傾けてS字曲線(マニエリスム的)を描くようになっていきます。戦火のパリを逃れ南仏に滞在していた頃に描いた《少年の肖像》と荒い筆触で描かれた《ドリヴァル夫人の肖像》は日本初公開の作品です。1917年に描かれた裸婦像《座る裸婦》(アントワープの裸婦)と《髪をほどいた横たわる裸婦》(大阪の裸婦)は、同じモデルを描いた作品で、ここ大阪で再会しました。この時期の女性の肖像画に比して、この2作品の瞳は黒々とし、量感に溢れ、肉感的です。大阪の横たわる裸婦のポーズは、西洋絵画によく見られるもので、ティツィアーノ《ウルビーノのビーナス》やマネの《オランピア》にも通じゴヤ《裸のマハ》も思い起こさせます。大阪の裸婦は、1989年の購入時には19億3千万というお値段にも、挑発的にも見えるヌードであったことにも物議を醸しましたが、2015年と2018年のオークションでは同様の裸婦像が200億円で落札されたそうです。大阪中之島美術館の始まりが山本發次郎コレクションからですが、この裸婦像の旧蔵者のお一人も山本發次郎氏でなんとお目が高い!もう1点の裸婦像《横たわる裸婦(ロロット)》も日本初公開の作品です。1917年12月ベルト・ヴェイユ画廊でモディリアーニ生涯唯一の個展が開かれましたが、窓越しに見える大胆な裸婦像に人だかりとなり警察沙汰となってしまいました。このロロット像のような作品が展示されていたのでしょう。

展示室を埋め尽くすモディリアーニ作品の中とりわけ目を惹くのは妻ジャンヌ・エピュテルヌを描いた作品です。展示室にもジャンヌの写真がありましたが、大きな目をしたはっきりとした顔だちで、とても似ているとはいいがたい。ジャンヌは、モディリアーニにとってミューズそのものであり、最高のモデルだったでしょう。若いジャンヌにとってはモディリアーニが全てだったのですね。モディリアーニは、身近な人をモデルとして繰り返し描いており、モデルがないと描けなかったとも伝えられています。南仏滞在時に4点ほど風景画を描いていますが、ほぼ肖像画です。モディリアーニ様式とも言えるようにどれも似ているようでいて、誰を描いたかが判る。デッサンを繰り返し、同じモデルを繰り返し描くことで自分の中の理想の像へと作り上げていきました。

第一次世界大戦が終結して、1919年5月にパリの戻ったモディリアーニですが、病魔は体を蝕み翌年1月に息を引き取り、身重のジャンヌは彼を追って自殺してしまうという衝撃的な結末となりました。自分の作品を管理できなかったばかりか、彼の遺族も絵画を相続しませんでした。長女ジャンヌは14ヶ月、作品を渡された主要ディーラーのズボロフスキーとポール・ギョームも1932年と1934年に43歳という若さで死んでしまいます。画家の死後名声は高まり高騰し、贋作が出回り始めます。モディリアーニ作品の真贋問題は映画にもなっており、図録のケネス・ウェイン氏による『モディリアーニ絵画の真贋判定と後世への遺産の継承』に詳しいので一読をお薦めしたい。

展覧会の最後の1点は、大女優グレタ・ガルボが最期まで手元に置いていた《少女の肖像》、小品ながら優しく微笑みかけるこの少女像がお気に入りだったのですね。

彼が描く洗練され静謐な作品たちはモディリアーニその画家を雄弁に語っています。


【開催概要】モディリアーニ―愛と創作に捧げた35年―

会期:2022年4月9日(土)~7月18日(月・祝)

会場:大阪中之島美術館 5階展示室

休館日:月曜日(5/2、7/18をの除く)

開館時間:10:00-17:00(入場は16:30まで)

特設サイト:https://modi2022.jp/

関連イベント⇒https://modi2022.jp/event/

【参考】

・展覧会図録「モディリアーニ―愛と創作に捧げた35年―」

・島本英明著『もっと知りたいモディリアーニ 生涯と作品』株式会社東京美術 2021年

・宮下規久朗著『モディリアーニ モンパルナスの伝説』小学館 2008年



プロフィール

morinousagisan
阪神間在住。京都奈良辺りまで平日に出かけています。美術はまるで素人ですが、美術館へ出かけるのが大好きです。出かけた展覧会を出来るだけレポートしたいと思っております。
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