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特別展「生誕140年記念 石崎光瑤」

特別展「生誕140年記念 石崎光瑤」

京都文化博物館|京都府

開催期間:

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もっと知られてほしい花鳥画家 石崎光瑤

北陸以外ではほぼ初めてとなる花鳥を描いた近代京都の日本画家・石崎光瑤(いしざきこうよう 1884-1947)の初期から晩年までを網羅した大回顧展が京都文化博物館へ巡回しています。
★4階会場は撮影可です。

明治17年富山に生まれた光瑶は、12歳の時、金沢に滞在していた江戸琳派の絵師・山本光一に師事し、江戸琳派の画風と写生の基本を学びました。(実は師の山本光一も興味深く、どこかで展覧会、小企画展してくれないだろうか)石崎光瑤の「光」は師の一字を「瑶」は故郷を流れる小矢部川に砡石が採れるところから名付けたと説明があります。
光瑶が12歳から19歳までに描いた昆虫類の写生は、書き写した日付、昆虫の名称、時には別称や生態特徴までも書き込まれています。まるで図鑑の様で、この頃からモノを観察する目の確かさが表れています。10代半ばで描いたと言われる《富山湾真景図》大きな六曲一双屏風で、近くで観ると波の表現も上手い。上方に雪の立山が描かれていて、故郷富山の風景は、光瑶にとって原風景ではなかったでしょうか。師の山本光一が富山県工芸学校を退職して転居、父の事業の持ち船が沈没して事業がうまくゆかなくなり、兄のいる神戸へ転居します。光瑶はその間も富山に戻っては、故郷の知人の家に身を寄せて、絵を描いて絵を学ぶ資金を稼いでいました。
若い日本画家石崎光瑤を「画伯」として故郷富山の人々は後々も支援し続けました。

1903年19歳で神戸から京都に出て竹内栖鳳の門下に入ります。門下生の個性を尊重する栖鳳、光瑶が学んだ琳派をいかし「君の特色を成長させる上の相談相手と思って学ぶが良い」と話したと伝えられ、なーんて良い先生なんでしょう。当時の画塾「竹杖会」は、錚々たるメンバー揃いで、切磋琢磨という雰囲気だったでしょう。同時期に入門した土田麦僊とは生涯交友が続きました。
日露戦争のために福知山の隊へ入隊します。京都へ戻った光瑶ですが、神戸で父が亡くなり、富山に戻ります。立山に登ったのをきっかけに登山に熱中し、やがて民間パーティとしては初めて剣岳登頂に成功しました。山で光瑶が撮影した写真も展示されています。大きな機材も持って登山していたのですね。登山家としても(山岳)写真家としても足跡を残しています。当然ながら登山をしていると可憐な高山植物にも目が向きます。高山植物の絵には、花と根がある植物標本のように描かれているものがあります。根っこを引き抜いて標本にすると花は萎れていたはずで、咲いている花をスケッチした上で標本用に採取して、花も根もある図を描いています。昆虫と同様に博物学的な関心、観察眼の持ち主で、後々の花鳥画に生かされていきます。
27歳の時、後援者が集まり盛大な送別会で見送られて栖鳳の画塾へ復学し、麦僊に代わって栖鳳宅へ寄宿します。1914年第8回文展で2作が入選し、《筧》は褒賞を受けて宮内省買い上げとなりました。鏑木清方がこの作品を褒めています。

1916年11月(32歳)郷里の多くの人の支援を受けてインドに向けて門司港から旅立ちます。その支援の大きさは展示されている南砺市立福光美術館蔵『光瑶渡印百画会 金銭出納簿』や『石崎光瑤画伯画会人名簿』からも伺われます。
コロンボまでの船中は渡欧する黒田重太郎と一緒で、黒田とは後のヨーロッパ旅行で再会します。
この時期に光瑶をインドへ向かわせたのは何だったのでしょう。
① 花鳥が大大好きな光瑶にとって、熱帯の色彩溢れる動植物はとても魅力的で、それを実際に見て写したいと思った。
② エローラやアジャンタなどの古代の宗教遺跡の建築、絵画、彫刻を直接観たい。
③ 登山家、山岳写真家としては当然世界最高峰のヒマラヤの山々は憧れでもあり、見たいし、出来れば登頂したいと思った。
熱帯のジャングルから万年雪の寒冷地まで約9か月もかけてインド各地を旅しました。
日本登山家として初めてヒマラヤのマハデュム峰(3966m)の登頂に成功しました。4000m級の山の登頂って凄いです。さらに先を目指そうとしましたが、悪天候のために諦めたそうで、その資金も大変なものだったと推察します。
展示されているヒマラヤスケッチ帳、絵葉書アルバムも貴重ですし、光瑶が撮影し作成した《幻燈用色硝子板》も美しく、とても興味深い。写真家としてもプロですね。帰国後、山岳幻燈講演会でヒマラヤ行の講演会もしています。旅行記を大部の『印度窟院精華 附記行』としてまとめ、渡印の際にお世話になった方々へも贈りました。

インド旅行の成果として制作した《熱国妍春》は、大正7年(1918)の第12回文展で特選を受賞しました。木々が生い茂る熱帯のジャングルを鮮やかな色彩で描きあげました。右隻は輪郭線をはっきり描き(鈎勒法)ビンロウの巨大な葉が垂れさがり、左隻は輪郭線を描かず(没骨法)モワ~んとするような高温多湿の熱帯の密林を表現し、当時の画壇に大きな反響を呼びました。ゴクラクチョウがまさに極楽鳥、姿も色も美しい。
同年に土田麦僊らによる「国画創作協会」に光瑶は参加しませんでした。開校した京都市立絵画専門学校に家庭の事情で入学しなかったことに負い目を感じていたのかもしれません。
翌年第1回帝展に出品した《燦雨》も特選を受賞し、官展での連続受賞によって近代京都画壇での地位を確立していきます。《燦雨》金色のスコールがジャングルに降り注いでいます。突然のスコールに飛び立つ鳥たちの鳴き声がジャングルに響き渡っていそうです。10代の上村松篁がこの絵をみて強く感動したのも納得です。松篁は後に同じ画題で額装作品を描きました。
実際に見たヒマラヤの峰を描いたモノクロの風景は同じ国でありながら熱帯のジャングルとは対照的な世界です。

★京都会場限定!インド三部作ともいえる《熱国妍春》《燦雨》《白孔雀》が10月1日(火)~10月14日(月・祝)の2週間だけ揃って展示されます。お見逃しなく!

大正11年(1922)12月、ヨーロッパへの旅に出ます。当時は多くの画学生が滞在していおり、彼らと一緒にイタリア、フランス、イギリス、オランダ、スイス、スペインなど各国を巡りました。西洋絵画にじかに触れ、最初に訪れたイタリアで特にフレスコ画へ関心が深まったようです。ルーブルではエジプト美術に興味がわいた様です。街も建築も絵画も観るもの触れるもの全てが刺激的で新鮮だったことでしょう。渡欧の日本人たち恒例のゴッホ巡礼にも参加していました。(ゴッホ巡礼にはいつも里見勝蔵が登場します)

明治45年(1912)の第17回新古美術品展で若冲の《動植綵絵》を観て以来若冲に強い憧れを抱いていました。《動植綵絵》は、花鳥を描いていた光瑶に衝撃的で惹きつけない訳がありません。絵専(京都市立絵画専門学校)の助教授をしていた光瑶は、教え子から池田のお寺に若冲が描いた襖絵があると聞き、西福寺を訪れます。傾倒していた若冲も研究していた光瑶にとって一目見た瞬間に真筆と確信しました。1925年に若冲筆《仙人掌群鶏図屏風》(重要文化財 西福寺蔵)を見出し、美術雑誌に発表した、光瑶のこの功績も大きい。

大正9年(1920)第二回帝展出品作《雪》は、若冲からの影響を強く感じさせる濃密な画面です。若冲特有のねばるような雪を表現し、《動植綵絵》の《雪中鴛鴦図》を右隻に、左隻は《雪中錦鶏図》を想起させます。
光瑶の古画学習は、若冲だけでなく永徳や狩野山楽・山雪の京狩野、等伯、探幽などの障壁画や古絵巻や蒔絵なども研究していました。古画研究においても奈良も近いし、寺社仏閣だらけの京都は地の利がありました。
高野山金剛峯寺が、奥殿を新築することになり、光瑶にその襖絵の揮毫の依頼がきます。当時として名の知れた日本画家であったのでしょう。これまでの東西の絵画研究が、この金剛峯寺奥殿襖絵に結実します。

★通常非公開の高野山金剛峯寺奥殿の襖絵20面が立体展示されて、うち《雪嶺》は寺外初公開です。こちらもこの機会をお見逃しなく!!
「金剛峯寺」の「金剛」が、「金剛宝土」の異称があるダージリンと思い当たり、シャクナゲ咲く頃に再び渡印し、ネパール近くまで出かけて写生しました。ヒマラヤの雪嶺を遠景にヒマラヤシャクナゲが咲いた古木に鳥が遊ぶ風景を描きました。
シャクナゲは岩絵具を盛って立体的に表現し、水平垂直に伸びる古木の枝は、妙心寺天球院方丈の狩野山雪からの影響が伺えます。《雪嶺》の濃い緑の土坡に描かれた可憐な白い花には、イタリアで光瑶が観たボッティチェリ《春》やフラアンジェリコ《受胎告知》から着想を得ていそうです。残念なことに、金剛峯寺奥殿全8室の襖絵を完成することは出来ませんでした。遠く上方にに見えるヒマラヤの峰々は、故郷富山の立山の遠景にも通じるように思いました。

昭和10年代になると、余白を大きくとり、細く繊細な線で描く静かな作風になっていきます。中国の花鳥画へ関心を抱くようにもなります。
50代となった年齢的なことや、戦争へ向かう時代背景もあったかもしれません。
戦時には時局を託した作品を官展に出品しています。
菊や牡丹は好きなモチーフだったようです。特に高貴で気品ある牡丹は、庭に植えて朝4時から写生を繰り返す日々だったそうです。

応挙以来京都画壇の底流には「写生」があります。ひたむきに「写生」をし、やがて装飾的な作品になっていく。今年になって観た福田平八郎も、奥村厚一 もそうでした。
石崎光瑤の晩年の洗練されていく様は、鋭くて息を詰めて眺めてしまう。気品があって端正で凛とした静謐な作品です。
余白の美、省略の美、均整の美と説明されています。
師・栖鳳が亡くなって5年後の戦後に石崎光瑤も他界し、法然院に葬られました。点景としても人物が見当たらない光瑶は、本当に花鳥が大好きだったのですね。

石崎光瑤のご子息からの多くの寄贈を受けて設立された美術館、コレクションを形成し研究を続けてこられて素晴らしい。
今回の様な大回顧展が全国規模で開催され、石崎光瑤が多くの方に知られることとなり本当に良かったし、私にとっても日本画家石崎光瑤を知る事が出来、日本画家に新たな1頁が加わりました。まだまだ画力はあるが知られていない画家が居そうです。石崎光瑤作品で所在不明となっている作品がこの展覧会を機に見つかることも願っています。

★毎週水、金曜日は20:30まで夜間延長開館です。

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