藤田嗣治×国吉康雄: 二人のパラレル・キャリア―百年目の再会
兵庫県立美術館|兵庫県
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兵庫県立美術館・林洋子館長の講演会「藤田と国吉 パラレルなキャリアへ」を聴講してきました
今年は藤田嗣治の展覧会が多いと思っておりましたら、「藤田嗣治 生誕140周年記念」でその特設サイトもあり、本展の他、「軽井沢安東美術館開館3周年記念企画 ランス美術館コレクション 藤田嗣治からレオナール・フジタへ」「生誕140周年 藤田嗣治 7つの情熱」「藤田嗣治 絵画と写真」があり、それぞれに特色ある展覧会となっています。
2023年に兵庫県立美術館の館長に就任された林洋子さんは、藤田嗣治の研究者でもあり藤田についての著書も多く、日本で開催されてきた藤田嗣治展にも監修者として携わってこられました。兵庫県美で藤田の展覧会が開催されると知り「満を持して」の開催だと楽しみにしていました。
私が学生の頃から(ものすごく昔々)藤田の作品はよく目にしてきたと思っていたのですが、実は藤田の最後のミューズにして妻である君代夫人が存命中は、彼女のフィルターを通した展覧会が開かれていたそうです。藤田の作品のイメージが、かの象徴的な肖像画と乳白色の裸婦像と猫でした。美術には何の関心もなく育った田舎の中学生が初めて買った額絵が藤田の「カフェ」で、長く実家の部屋に飾ってありました。1990年代後半から2000年代初めまで私は藤田の展覧会を観ていません。2009年に君代夫人が亡くなります。
・2006年「生誕120年 藤田嗣治展」@京都国立近代美術館
京近美のHPを見ると「『藤田嗣治展』は開かれてきました。けれどもそのすべての展覧会は、代表作のいくつかは出品されていたとはいえ、藤田の画業の全貌を回顧するというものではありませんでした。しかし、このたびその生誕120年を記念して開催される『藤田嗣治展』は、藤田の画業の足跡をふりかえることのできる、まさに待ち望まれたはじめての機会といって過言ではありません。」とあり、この展覧会開催中にあった国際シンポジウムにも林洋子館長は登壇者のお一人として参加されていました。
※2015年「所蔵作品展 MOMATコレクション特集:藤田嗣治、全所蔵作品展示。」@東京国立近代美術館 この展覧会が日曜美術館(日美)で紹介されました。「作戦記録画」が、1970年「無期限貸与」の形で日本に戻され、東京国立近代美術館が保管先となっていました。特集展示として、所蔵する藤田嗣治の全作品25点と特別出品の1点、計26点を展示し、初めて戦争画14点が一挙に展示されました。
・2016年「生誕130年記念 藤田嗣治展 ―東 と 西 を 結 ぶ 絵 画―」@兵庫県立美術館
日美の印象も残っていて、藤田の戦争画への思いを強く持ち出かけたのでしたが、藤田の作品とフラットな気持ちで向き合ってほしいと学芸員解説かで伺ったように思います。オダギリジョー主演の「FOUJITA―フジタ―」も上映され、ちょっと年上の女性が興奮気味に話されていたことが記憶に残り、やはり多くの女性ファンで盛況な展覧会だったかもしれません。
・2017年「アメリカへ渡った二人 国吉康雄と石垣栄太郎」@和歌山県立近代美術館
国吉については茶色っぽい絵を描くアメリカに住んでいた画家くらいにしか知らなかった私にとって、本展のもう一人の主人公である国吉康雄の作品を初めて“ちゃんと”見た展覧会で、強く印象に残っています。その後、岡山県立美術館のコレクション展に国吉の作品が多くあり、あぁそうだった岡山出身の画家だったと思い出すのです。
・2018年「没後50年 藤田嗣治 本のしごと -文字を装う絵の世界-」@西宮市大谷記念美術館
藤田がこんなにも「本」に関わる仕事をしていたことを知り、本の内容にそった装幀や挿絵が強く印象に残りました。また、戦後日本を出て、君代夫人と合流するまでにニューヨークで不自由ながらも快活に暮らす様子を生き生きとユーモアたっぷりに描いた絵手紙も多く展示され、これまで思い描いていた藤田とはまた違う面を知ることになった展覧会でした。この展覧会でも林館長の講演会を聴講しました。
・2018年「没後50年 藤田嗣治展」@京都国立近代美術館
内外の代表作が展示された大回顧展でした。この展覧会の監修も林館長です。
今回の講演会で、林館長はこの2018年の藤田展以上の藤田の個展を開催するのは今後難しいかもしれないとお話になっていました。あの大回顧展以後藤田の展覧会をするならテーマ展になると既に考えられていたようです。藤田が亡くなって半世紀を経て藤田を直々に知る人も鬼籍に入り、漸く藤田の大回顧展が開催できるようになったのです。
1. アーカイブ研究 藤田と二回りも年が離れていた君代夫人は、藤田の死後40年を生きました。1950-60年の藤田の大作群は、パリ市立近代美術館へ寄贈、2009年の彼女の死後には、多くの作品がランス美術館へ遺贈されました。晩年の家も地元エソンヌ県に寄贈され、2000年に「メゾン=アトリエ・フジタ」として藤田研究の拠点となっています。彼女の元にあった藤田の蔵書は東京国立近代美術館アートライブラリーへ、日記類は藤田の母校東京藝術大学に収蔵され、アーカイブ化が進み始めました。一方、国吉康雄についてもアメリカや故郷の岡山大学などでアーカイブの整理が進み、ネットで情報が収集できるようになってきました。
2. 修復による絵画技法の調査研究 作品も100年を過ぎて劣化が進み、2018年から東京国立近代美術館所蔵の藤田作品の修復に向けた調査が始まりました。藤田の代表作の1つである《五人の裸婦》も修復が行われました。修復による調査では、藤田が使っていた画材、「乳白色の下地」の画肌、マチエール、表面の仕上げについて明らかになりました。
3. 写真の研究 藤田も国吉も二人が写った写真が多く残されそこから読み取れるものも少なくありません。写真も趣味の1つであった藤田が撮影した写真を基にした展覧会が東京ステーションギャラリーで開催されますが、国吉もアート・スチューデンツ・リーグで教鞭をとるようになる前、写真家として生計を立てていた時期もあり、本展では国吉が撮影した写真も展示されています。彼の興味の先にあったもの、写真で撮影して絵画で表現していったことなどが判ります。日米開戦で敵性外国人となった国吉のカメラは没収の対象となった悲しい事実もありました。
画家たちを取り巻く柵も消え、歴史的な存在になったからこそ、膨大な資料を調査、研究、精査して、作品の裏付けを調べ、作品本位の客観的な立場で国際的に研究を進める展覧会が漸く出来るようになったと言えるでしょう。コロナ禍を経て微妙な世界情勢、極端な円安で海外から作品を借りての展覧会はとても難しい状況になってきています。本展は、豊富な関連資料と国内の藤田と国吉の重要作を集結した展覧会になっています。藤田の展覧会はあっても、私が積極的に見てこなかったのか、なかなかまとまって観る機会のなかった国吉康雄については、福武コレクションからたくさん出品されています。
同時代を生きた日本出身の画家の二人展ですが、「回顧展」×2ではないと解説されていました。
展示への工夫についてのお話はとても興味深いものでした。当たり前のように観ている展示も様々な工夫がなされていました。重要作品を対比するようなプランに基づいた展示になっています。
林館長は、本展では単館開催の開催館の館長として、また直接展覧会にも関わられたそうです。事前に展示場を図面で起こしていても、実際に作品を展示してみると、隣同士の作品のバランスや、展示室での位置関係具合など変更箇所が見出されるそうです。
本展では、展示室を角、角と曲がりながら進んで行くごとに最初に目につくところにアイストップな作品を展示したと話され、ほーっ成程そうだったと思いました。(これからお出かけの皆さんは気にして見て下さいね)
本展で最初に目に入る作品が、国吉の自画像(1918年)です。本展では、藤田と国吉の「自画像」や彼らを写した写真を時代ごとに展示し、その時々の二人を表しています。
「仮面」も二人の中にモチーフとして現われてきます。丸い眼鏡はこの時代流行したものなのか、国吉は帽子を被った写真が多いようです。
本展は、20世紀の前半日本からフランス、アメリカへと渡り、同時代を移住者として生きた二人の画業の中に接点を見出そうとするものです。
1. 「現代装飾美術・産業美術国際博覧会(アール・デコ博)」が開かれていた100年前の1925年パリと1928年の国吉が再訪したパリ
2. 藤田が日本へ一時帰国後個展開催のために渡米した1930-31年のニューヨーク
3. 戦後藤田が1949年日本を出国してフランスへ戻るまで約10か月滞在したニューヨーク
二人の出発点はあまりにも違います。東京の軍医の家で生まれ育った藤田は、東京美術学校西洋画科に入学し26歳でパリへ私費留学します。在学中に留学を希望したが、父親が森鴎外に相談して大学を卒業してからの方がいいだろうとのアドバイスを受けたと読んだことがあります。当時のフランスは多くの日本人が住んでいました。一方、国吉は、16歳で労働移民として単身渡米し、西海岸で働きながら通っていた公立学校の先生の薦めで画家を志し、ニューヨークへ転居して1916年アート・スチューデンツ・リーグで本格的に絵を学びました。二人に幸いしたのは、移住した先で同業者の現地の人を妻としたことも大きかったとのこと。特に国吉の妻は、同じ画家で国吉と結婚することでアメリカ市民権を失ってしまうのでしたが。1920年代には、それぞれに自分のスタイルを確立していきました。
「乳白色の下地」、日本画風の平面的で薄塗り、押さえた色彩に面相筆で引かれた均一な輪郭線、タルクが塗られた下地に浮かび上がる女性像、日本人としての藤田が生み出した独自の絵画技法で、藤田は「エコール・ド・パリの寵児」となり、1925年の「現代装飾美術・産業美術国際博覧会」では日本からの来賓を案内するなど忙しく過ごしていました。第2章に展示された2作品、1923年サロン・ドートンヌに発表した藤田初めての裸婦群像の大作《五人の裸婦》と藤田の女性群像の到達点と説明される《舞踏会の前》です。同時期、国吉は妻と共に初めて渡欧してパリにも滞在します。パスキンの影響もあってモデルを用いて描くようになり、現実の身体感覚を伴った人物表現への転換のきっかけをつかみ、またマチエールの美しさに気づかされました。後に国吉は哀愁を帯びたようなユニバーサル・ウーマンを描くようになり、マチエールに拘り背景を何年もかけて塗り重ねています。1928年国吉はパリを再訪しますが、翌年開館予定のニューヨーク近代美術館の企画展「19人の現存アメリカ人による絵画展」への選出もあり、ニューヨークを終の棲家として戻っていきました。
人生折り返しの1929年の藤田の日本への一時帰国は、フランスで大成功した画家の凱旋帰国だったでしょう。1930年、ニューヨークのラインハルト画廊での個展のために渡米します。本展の準備期間中、藤田の歓迎会での藤田と国吉と近藤赤彦の共作の色紙が発見され、本展に展示されており、二人が1930年に出会っていた確証となりました。この年に二人がともに親しかったパスキンが自殺し、二人にとっては大きな衝撃だったことでしょう。
藤田は日本画壇に知り合いがいない国吉のために有島生馬などに紹介状を書き、有島が国吉について書いた記事も展示されています。藤田の手帳から藤田が国吉のアトリエも訪ねたことも知る事が出来ます。国吉はアメリカでの評価が高まる中、父の見舞いと日本での個展開催のために1931年に一時帰国しました。しかし、この帰国が国吉生涯唯一の帰国となりました。私は多感な時期に渡米した国吉には当時の日本は受け入れがたかったのではないかと思っていました。しかし展示されている国吉の手紙にはまた帰国したいとありました。
第4章にある国吉の《サーカスの女玉乗り》と《休んでいるサーカスの女》越しに見る奥の壁面の白い肌の藤田の《眠れる女》と《横たわる裸婦と猫》は、1930年と1931年に描かれた二人の作品を対比して眺めるアイストップとなっています。
世界恐慌のあおりを受けて絵も売れなくなり、藤田はパリを離れ中南米を旅行して、東京に定住します。この時期藤田は色彩豊かに描いています。日本の家屋で小道具を細々と描き込んでお洒落だった藤田が着物を着て寛ぐ1936年の《自画像》は、このまま日本に暮らそうと思っていたかもと思わせる作品でした。国吉の代表作である《逆さのテーブルとマスク》を展示する壁面には、藤田が戦争中にも渡仏して描いていた猫の作品が並び、二人の静物画が並置されています。私が今回初めて見た石橋財団アーティゾン美術館蔵《猫のいる静物》は、今回の一推し藤田作品です。
1941年日米開戦が始まり二人を別つことになります。藤田はすでにかなりの年であったにもかかわらず軍部から作戦記録画を委嘱され、おかっぱ頭を丸めて、従軍して一変させた色合いの「玉砕図」を描きあげていきました。西洋での歴史画を描くようであったかもしれません。作戦記録画を描いていた宮本三郎の場合、晩年の女性像を先に観た私は、似た名前の画家だと思ったほどで戦後の戦争責任問題を考えさせられます。国吉は「敵性外国人」となり行動も制限されます。日本に反対してアメリカの民主主義支持を明確に表明し、軍国主義を批判する活動や制作をします。
藤田に戦前の日常は戻らず、1949年フランスへ戻ろうと日本を出国して、アメリカに約10か月滞在します。藤田は「カフェ」など戦後の代表作を精力的に制作して個展を開きます。その個展へ国吉も訪れますが、二人が出会った痕跡は見つかりませんでした。本展では、「眼差しの復元 1949年藤田嗣治個展再現プロジェクト」として、藤田が残した日記から1949年ニューヨークのマシアス・コモール画廊で開催された藤田の個展の追体験を目指したプロジェクトも紹介され、7/21にアーティストトークも開催されます。
戦後、アートの中心はフランスからアメリカへ移っていきます。国吉は《祭りは終わった》を描き、「祭りは終わった。戦争も終わった。新しい世界を待ち望んだけれど、何もやっては来なかった」と語っていたそうです。大学で教鞭をとり、1948年ホイットニー美術館で、現存作家としては初めてとなる国吉の個展が開催され、1952年のヴェニス・ビエンナーレではアメリカ代表として選出されます。しかし、一方でアメリカの保守派から批判を受けることもありました。移民法改定でアメリカ国籍取得の手続き中に63歳で亡くなってしまいます。
1950年にフランスに戻った藤田ですが、パリも藤田の記憶にある街ではなかったでしょう。フランス国籍を取得し、カトリックに改宗してパリを離れて郊外に住み、宗教画を中心に描きながら、ランスの礼拝堂の建設と装飾に没頭し、1968年に没し、ランス大聖堂で葬儀が行われました。二回りも年下の君代夫人のために藤田は小さな作品をたくさん遺しました。
最後の展示作品は、国吉の《ミスターエース》です。仮面をあげ顔を見せた国吉の自画像のようです。
二人を写した作品が上映されており、二人の肉声を聞く事ができます。藤田は日本語ですが、渡米後一時帰国以外はアメリカに住んでいた国吉は英語で話し、英語が母語になっていました。
私は、これまで国吉の画業を追って作品を観ることがなかったので、藤田の作品と並置されることでより国吉が生きた状況や彼の画業が浮かびあがる展覧会でした。
本展はイベントも盛りだくさんで、7/6には記念シンポジウムも開催されます。
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- BY morinousagisan