血の置き去り

京セラ美術館「日本画アヴァンギャルド」を観たあと、京都国立近代美術館コレクション展が展示替えされているので観に行くことにした。

高橋史光「宵」。奥に曲がっていく道がいい。
1月に行った京セラ美術館のコレクション展の時も思ったけど、絵画は平面のはずであるが、屏風は角度をつけて開いて展示する。屏風絵は角度がつくことがあらかじめ想定されて描かれているのか気になった。

日本画アヴァンギャルド出品作家の作品が展示されているのが粋だなぁと思う。
三上誠「作品 1964-は」。

輪切りにされた木が画面に貼り付けてある。パンリアルは造形意識が感じられるような気がするが、この作品も木になすりつけられた黒に意識的な操作を感じる。

映画のチケットを買ったあと京都芸術センター「ふるえのゆくえ」に再訪。

「FREWAKA/フレワカ」を観に行った。
母親を自死で亡くしたシューが、アイルランドの人里離れた村に住む老婆ペグを介護するため派遣される。認知症を疑われるペグは「ヤツら」の侵入を恐れて暮らしていた。
(以下含ネタバレ)

ホラー映画を初めて観た。レーティングなしでどうやって怖くするんだろう?と思ったが、観終わった感想は怖かったというよりも「?????」という感じだった。
認知症を患うペグと精神を病むシューたちによって現実と非現実の境界が曖昧化しており、作中で起こる非現実な出来事にも説得力が生まれていた。物語のどこからどこまでが現実なのか? それをシューの婚約者の視点から検証していける強度を持った作品でありそうだし、アイルランドの民俗を知っていたらちゃんと考察もできるのだろうがあまりそういう細かい考察には興味がない。
ペグの論理(「ヤツら」はこれを嫌うから、こうしていたら「ヤツら」は寄ってこない)はどれだけ確かだったかわからないし、孤独死や介護、女性と土着、宗教二世、虐待、同性婚など社会問題風味をかすりつつ、最終的にはすべてを置き去りにして物語はグリム童話のような「ヤツら」の物語(誘拐と取引)に回収され、一面の緑のなか血の涙を流すシューを描きたかったんだと思う。
音楽がやたらかっこよかった。

「フレワカ」の公式サイトにネタバレ解説があった。作中で出てきたアイルランド知識が補足されている。
本作のラストではシューが「ヤツら」に連れて行かれてしまうが、シューが首に巻くチョーカー、モノが吊るされた妖精の木は縊死した母親とリンクしており、シューが母親と同じ道を辿ることは約束されていたことだった。ホラー映画を観たことがなかったので、(フォーク)ホラーっていうのは予定調和なものなのかと思いつつ、てっきりそのラストシーンでは社会問題的、ジェンダー的なものは脱色されて不条理な土着の世界に呑み込まれてしまうことを表現しているのかと思ったのに、それは解説によるとシューがアイルランドの女性たちが抱えてきたトラウマを継承することを表しているらしい。もう21世紀だというのに、女性の抑圧は続いていきますでいいんだろうか? いいのかな?
シューが女性同士の新しい関係を築こうとしていたのに加えて、本作では男性の影が薄く、その見えない男たちが姿を現さない「ヤツら」と重ねられていたようだが、ペグもシューも「ヤツら」に対抗しようとしない。せいぜい自衛するだけだ。それは「ヤツら」の絶望的な強大さを描いているのかと思う一方で、残念ながら「ヤツら」に対抗できそうな手段(火、ハサミ)は女性同士の関係を断ち切るのに使われている。婚約者のミラによって届けられたシューの母親のドレスはハサミによって切り刻まれ、炎によって焼かれるのだ。(ストローボーイなんてよく燃えそうなのに。ケルトロックに乗せて家を燃やすべきだった。針と糸で戦ったバーバラと対照的だなと思う。家を燃やすのって大事なんだな)
この映画は女たちが連帯して男たちと向き合ってこなかったことを衝いているのかなと思った。
