スパイのジレンマ

京都国立近代美術館のコレクション展に再訪。
今回の目当ては、前回よくわからなかった「キュレトリアル・スタディズ16 荒木悠 Reorienting ─100年前に海を渡った作家たちと─」。移民、国籍、ナショナルアイデンティティというテーマは私にとってなじみが薄くなかなかぴんとこなかったし、国立国際美術館で観た飯山由貴氏「In-Mates」のように感覚的にも理解できなかった。

予習のために『美術手帖』にあった池上裕子氏の評を行きのバスで読んだ。京都国立近代美術館の近代アメリカ美術にまつわる所蔵品に、アメリカで育った経験を持つアーティスト荒木悠氏をぶつける展覧会だそうだ。日系移民作家の作品を扱うことによって、「近代アメリカ美術」の一側面に光を当てるという。
中心となるのは、今回の展覧会のために荒木氏が制作したという映像作品「南蛮諜影録」だろう。というわけで真っ先にこの作品を鑑賞したが、まぁよくわからない。前半は第二次世界大戦中のリスボンを舞台に、敵性外国人と見なされた非リスボン人の語り手が自身のスパイ活動について語り(しかし映像は現代の観光地リスボンの賑やかな様子が流れる)、後半では語り手は南蛮屏風中の一人物であったと明らかになる。わけがわからない。それでも何もわからないのは悔しいので考えた。

この映像で最も謎なのは、なぜスパイの語り手と南蛮屏風中の人物が重ね合わされているのか、だろう。
まず、海外に渡航する異国人としてスパイという特殊な人物を据えたのはなぜか、と思ったが、展示室の入り口にあった荒木氏のコメントを参照すると、スパイという存在を一般化することができた。
スパイとは祖国のために異国で活動する人のことである。よって異国の地にメタ的に立つ存在でなければならない。その一方でスパイは目立ってはならず、異国の地に溶け込まなければならない存在でもある。
(そのためには、その地の言語が堪能だったり、その地の人々と似た容姿をしていたり、その地出身の家族を持っていたりする方がスパイとしての適性が高いことになる。すなわちスパイとして優秀なほど、ナショナルアイデンティティの問題を抱えていることになる)
以上のようにスパイは、祖国への愛国心があればあるほど、異国の地に自身を溶解させる必要がある、というダブルバインド状態にあることがわかる。

一方、南蛮屏風と聞いて思い浮かべるのが芥川龍之介「神神の微笑」である。切支丹物に分類される作品で、舞台は安土桃山時代の日本。キリスト教を布教しに来日した宣教師オルガンティノが、日本という地が持つ「造り変える力」を説く神々と邂逅する物語が語られており、その結末部オルガンティノは南蛮屏風の中へ帰っていく。
南蛮寺のパアドレ・オルガンティノは、――いや、オルガンティノに限った事ではない。悠々とアビトの裾を引いた、鼻の高い紅毛人は、黄昏の光の漂った、架空の月桂や薔薇の中から、一双の屏風へ帰って行った。南蛮船入津の図を描いた、三世紀以前の古屏風へ。
さようなら。パアドレ・オルガンティノ! 君は今君の仲間と、日本の海辺を歩きながら、金泥の霞に旗を挙げた、大きい南蛮船を眺めている。泥烏須が勝つか、大日孁貴が勝つか――それはまだ現在でも、容易に断定は出来ないかも知れない。が、やがては我々の事業が、断定を与うべき問題である。君はその過去の海辺から、静かに我々を見てい給え。
映像では南蛮屏風の中の人物がクローズアップされた後、「I am watching you」と語り手が語り、それは上記引用の末尾と呼応しているように見えるため、関係がないことはないと思われる。
このように芥川「神神の微笑」を補助線に用いるならば、語り手が南蛮屏風中の人物と重ね合わされるのは、キリスト教を布教し、貿易を行うというポルトガル人としての目的意識を持った自己と、日本の「造り変える力」の影響を受けて異国の地で作り変えられる自己を、諜報活動という目的意識を持った自己と異国に溶解していく自己という、引き裂かれた2つの自己と重ね合わせることによって、異国において自己が陥る事態を表現するためだったのではないか。

と自分なりに結論づけてみたが、まだわからないことの方が多い。
〇今回の展示に1ミリも登場していない芥川龍之介が関係あるのか?(この人は生涯をほぼ東京で暮らしたし、海外に行ったのも4カ月の中国旅行だけだ)
〇なぜ映像の冒頭で、語りと映像は無関係であるというアナウンスをわざわざしているのか?(語りと映像の関連性に逆に注目させるため? 語りと映像を切り離し、今回強調されていた2のモチーフ(祖国/異国、見る/見られる)に組み入れるため? 『美術手帖』の池上裕子氏は、語り手が信頼できないことを印象づけるためとしていた)
〇映像とそれ以外の作品の関連性を理解するには私の知識が足りなかった。(それでも今回写真の展示が多くて、写真は撮影者が「見る」だけでなく、被写体から「見返される」のが、絵画と違うところだなと思った)
疑問は残ったがコレクション展は前回から展示替えまでしてあってよかった。
