5.0
時代の流行に流されなかった人、西欧の伝統の単なる移植を超えた人
これだけ纏めて見る須田国太郎は初めて。
年譜を見ると春陽会への誘いを画風が合わないと断り、独立美術協会の最初期に里見勝蔵らから誘われて所属したことからもわかるとおり、当時日本ではフォービズムが全盛だった。しかし、そうした画壇の流行に流されず、若くして渡欧しヴェネチア派、マニエリズム、バロック絵画を研究したことを基礎として、フォービズムのように彩度の高い不透明の色彩表現ではなく、キアロスクーロを多用した。
ただ、須田の真価は、当時流行していたフォービズムやそれ以前の印象派のようなインパスト(不透明な厚塗り)技法ではなく、油絵具の透明性を活かして陰影を表現したことだ。そしてさらには、水墨画などの東洋的な表現との融合を目指したと位置付けられるのではないか。
西欧の流行をただ日本に持ってくるだけの日本美術の歴史の中で、真に西欧の伝統を研究し、それを日本を懸命に接ぎ木しようとしてある程度成功した数少ない画家と評価したい。(なお、愚老としてあと高く評価するのは前田寛治だが、前田は早世したため彼の目指すリアリズムまで到達しなかった可能性が大きいのに対し、須田はある程度到達したと思う。)