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クレーの魅力はどこにあるのか?と考えながらクレーの人生を彼の生きた時代と共にたどりました

パズルやパッチワークの様な目を惹く色彩、不思議な線描や文字絵、谷川俊太郎さんが詩を添えた一筆書きのチャーミングな天使、パウル・クレーはとても魅力的な芸術家です。一方で、思索的、思探的、理知的とも受けとめていて、その育った環境からも詩や音が聴こえてくるようで、多分難解なのだろうとも常々感じていました。

本展企画者である愛知県美術館学芸員 黒田和士さんのパウル・クレー展講演会 「パウル・クレー 転換するコンステレーション」も聴講しました。

兵庫県立美術館は、2015年『パウル・クレー だれにもないしょ。』展以来のクレーの展覧会で、今回はオーソドックスにパウル・クレー(1879-1940)の生涯をたどっていく展開になっています。(2011年には『カンディンスキーと青騎士』展も開催しています。)

クレーが生きた19世紀末から20世紀前半は、2つの戦争があり、世紀がかわる激動の時代で、美術界においても様々な美術動向が現れた時代でもありました。1919年にクレーと契約を結んだ画廊による販売戦略において出版された『パウル・クレー 生涯、作品、精神』(1920年)に掲載されたクレー自筆の言葉『・・・此岸では、私を理解することなど決してできない。なぜなら私は、死者たちだけでなく、未だ生まれざる者たちとも一緒に住んでいるのだから・・・』は、「彼岸の画家」「孤独に瞑想する画家」としてのクレーのイメージを広げたようです。「20世紀前半のヨーロッパの前衛芸術家たちは・・・グループを結成して、仲間と共有する信条を『宣言』という形で発表し、連携を表明したのです。しかしクレーが、そうした芸術家のグループに主体的に参加して、連帯を表明したことは一度もありませんでした」が、“ぼっち”の芸術家だった訳ではなく、妻や友人へ手紙を書き、友と旅をし、音楽を楽しみ同時代の時代の美術家たちと相互に刺激を与え合いながら各人の芸術を追究して生きていたのでした。

サブタイトルは「創造をめぐる星座」、黒田さんの講演会の名称にある「コンステレーション」は「星座」という意味です。クレーという一つの星座を取り巻く様々な星、つまり「クレーの人間関係」が転換して先に進んでいきます。クレーの人生、その時代背景と同時代の美術動向の3つの流れが展開していく展覧会で、クレーの作品を時系列で追ったことがなかった私には、時代と共に次々創造していくクレーもすんなりと受け入れられたかに思えました。ところが、図録にはこの時代の美術動向についてとても詳しい論考があり、同時代の美術史とクレーの作品との関係からドンドン難解な「クレーの沼」に入っていくような思いを持ったのでした。

本展は、一部の作品を除いて撮影可です。

※本ブログでは、図録から多くを引用しています。「」の後ろの(p・・)は図録の引用ページです。

本展は、クレーの大きな転換期を区切りとして時代を追って6章構成で、各章の中も同時代の美術動向やクレーの作風の変化などで節に分かれ、さらに項に区切られています。

1章   詩と絵画

パウル・クレーは、1879年スイスのベルン郊外で音楽教師の父と声楽家であった母のもとに生まれました。クレーは幼い頃からヴァイオリンを習い、音楽的、文学的、美術的な家庭環境で育ちました。音楽家、詩人、画家と迷いますが、(どの道を選んでいたとしても、それぞれの素養は活かし得たでしょうが)18歳の終わりに画家を目指しミュンヘンへ留学します。しかし、せっかく入った美術アカデミーも辞めてしまいます。イタリアへ旅し古代ローマ美術とルネサンスの巨匠作品に感動するも作品に結びつくことはなく屈辱となりました。イタリアで目にした過去の造形は、今の時代にそぐわないとも感じたのでした。10点のエッチングの連作《インヴェンジョン》を1905年のミュンヘン分離派展に出展します。公に発表した初めての機会であったことから、この連作を「自筆総目録」の「作品番号1番」としました。当時のミュンヘンでは『ユーゲント 芸術と生活のためのミュンヘン週刊雑誌』が風刺的カリカチュアを掲載して人気を集めていました。また、1905年にはロシアで「血の日曜日事件」が起こっていました。

印象派からではなく、ホイッスラーやマネから画面内の明暗の関係(トナリティ)を学びました。


パウル・クレー《座っている少女》1909年, 71 ペン・油彩、キャンバス;厚紙に貼付;水彩とペンによる縁取 パウル・クレー・センター、ベルン

即興的に描いた斑点の中に具体的事物「座っている少女」を見出して、その姿が輪郭線と明暗によって浮かびあがりました。新たな色彩による表現を見出した《座っている少女》は、目録の「特別クラス」に分類され、非売品として手元に残すことにした作品です。ミュンヘンへ戻ったクレーは「青騎士」の芸術家たちと出会います。カンディンスキーとは、造形上の特徴は全く異なっていましたが、クレーは「多くの芸術家を巻き込みながらミュンヘンの最前線で活躍してきたカンディンスキーとの出会いを、孤独な制作環境から脱し、前衛の仲間入りを果たす重要な契機と見なしていました。」(p61)

※クレーの「自筆総目録」とは、1911年より基準を満たした自作を全て記載した自筆の目録こと。1911年以前の作品も遡って記録し、作品ごとに作品名、技法、制作年、制作年ごとの連番(※本ブログの作品キャプションにある「制作年,」の後の数字が「制作年における連番(目録番号)」を表しています)を記載し、この連番は作品にも書き込まれ、生涯にわたって作品管理を行い、総点数は約9000点。

逐次送った妻への手紙や後年3冊は自身が編集・清書した自叙伝的な日記4冊、他展評やバウハウスでの講義録、論考などクレー研究の資料は多い。

 

2章  色彩の発見

1912年第2回青騎士展にクレーは、同展で紹介された芸術家の一人として17点の線描画を出品しました。その頃のクレーはまだ「線の表現力を頼りとして制作を続けて」おり、カンディンスキーは当時のクレーを「ちっぽけな存在」と回想しています。第2回青騎士展にはパリを拠点に1907年頃始まったキュビニズムの芸術家たちの作品も展示されて、クレーは再びパリへ向かい、カンディンスキーの紹介状を手にロベール・ドローネーのアトリエを訪ねました。クレーはドローネーを「自然に由来するモチーフのない、完全に抽象的な形を実現した」「自律的な絵画」の創始者として賞賛しています。時代を席巻したかに思えるキュビニズムは、クレーにとっては「いかにして抽象的な画面を構成するかという問題において重要」でした。(p84)

詩人のフィリッポ・マリネッティが1909年に「未来派宣言」を発表し、この時代の1つの美術動向となります。クレーは「血の気の多い若い連中」と画廊の展評に記しています。(p77)


パウル・クレー《チュニスの赤い家と黄色い家》1914年, 70 水彩・鉛筆、紙;厚紙に貼付 パウル・クレー・センター、ベルン

1914年ルイ・モワイエアウグウト・マッケとフランスの植民地であった北アフリカのチュニジアを旅しました。パリでのドローネーとの出会いや「現地調査」と称した「お互いを刺激し合う」友人とのチュニジアの旅は、クレーに色彩表現をもたらしました。

 

3章 破壊と希望

1914年「サラエヴォ事件」をきっかけとしてヨーロッパで第一次世界大戦が始まりました。「『8月の体験』と呼ばれる開戦直後の陶酔のなかで、この戦争は経済的・社会的な閉塞感を打破し、母国の偉大さを示す崇高な行為として、少なからぬドイツ人たちに熱狂的に迎えられた」(p99)クレーも例外ではなく、ロシア出身のカンディンスキーにとっては深刻な状況であったにもかかわらず、楽観的に捉えていました。戦争の先に希望をみていた友人のマッケが戦死し、マッケと共に志願したマルクも戦死してしまいます。


パウル・クレー《深刻な運命の前兆》1914年, 178 ペン、紙;切断して再構成;厚紙に貼付 パウル・クレー・センター、ベルン

《深刻な運命の前兆》は、もとは1枚の画面を複数に切断し、そのうちの二つを上下の関係を逆転して再構成した作品です。クレーは日記に記しました「・・・この世界が(ちょうど今日のように)恐怖に満ちていればいる程、芸術は抽象的になる。幸せな世界なら、此岸的な芸術を生み出すのだが」(p105) 1916年にクレーも徴兵されます。前線へ送られることはなく、従軍中も制作を続けていました。戦前のクレーは紙を支持体としていましたが、従軍中に行った支持体の探究によって、クレーの作品は多様な物質性を帯びるようになりました。戦争が終結に向かう1918年12月ミュンヘンに戻ったクレーは革命的行動に参加します。1919年バイエルン・レーテ共和国の一員として逮捕される事を恐れて、スイスへ亡命することになりました。


パウル・クレー《破壊された村》1920年, 130 油彩・アスファルト下地、厚紙 東京国立近代美術館

1915年以降、戦争への無関心を決め込んで直接的に言及することを避けていたクレーですが、戦後、戦争に目を向けて戦争の惨禍を具体的に描いたのでした。

1916年スイスのチューリッヒに集まった芸術家グループ「ダダ」「異なる文化圏に出自をもつメンバーは、戦争を否定し、いかなる国家に対するナショナリズムも拒否し・・・規制の価値に挑戦すべく個人が自由に活動を展開しました」(p122)ダダにとってクレーは重要な芸術家でした。フランシス・ピカビアが機械の線描画などを描いていた頃、クレーも機械装置のメカニズムを図式的に表した作品を制作していました。しかし機械的装置のメカニズムについて「クレーは機械文明の未来がきわめて危ういものであることを感じ取っていました。」(p125-127)


4章 シュルレアリスム

クレーは、従軍中から芸術家としての評価が高まり、作品が売れるアーティストとなっていきました。冒頭にも紹介したこの時期に総代理契約を結んだハンス・ゴルツの画廊の「彼岸の画家」とした販売戦略のクレーの芸術家像は、パリにも知られるようになりました。1924年アンドレ・ブルトン『シュルレアリスム宣言』によってシュルレアリスムは始まりました。クレーがシュルレアリスムの運動に主体的に参加したことは一度もなかったのですが、シュルレアリストたちは、デ・キリコとクレーを美術分野の先駆者と見なしました。


パウル・クレー《鳥=島》1921年, 20 油彩転写・水彩、紙;厚紙に貼付;水彩による縁取 パウル・クレー・センター、ベルン

「・・・クレーの表現は、ミロの《夢の絵画》と同様に周到な準備を経て制作された「意図された」ものであった」(p163)《鳥=島》は、転写のための下絵を必要とする油彩転写の技法で制作され、オートマティスムなどではなかったのです。「シュルレアリスムは前衛的な運動ではあるが、文学においても美術においても、抽象的な表現に向かうことはほとんどなかった。」(p166)

 

5章 バウハウス

1919年ヴァイマルに総合的造形教育機関 バウハウスが設立されました。初代学長を務めた建築家ヴァルター・グロピウスは、設立時の『バウハウス宣言』で「あらゆる造形活動の最終目標は建築である」としました。翌年クレーはバウハウスから”マイスター”として招聘を受けバウハウスへ赴任します。

バウハウスでは、手工芸を重視し、中世以来のギルドをモデルとして、マイスター(親方)、ゲゼレ(職人)、レーリング(徒弟)としました。多岐にわたる講義と実習が行われ、クレーも幅広く授業を担当し、膨大な講義ノートが遺されています。教育に熱心なクレーの姿があり、授業の準備としてまとめたノートはクレーの考えを整理することになったのではないでしょうか。

「バウハウス宣言」の表紙を描いたリオネル・ファイニンガー、生徒のひとりひとりの個性を尊重する教育経験が豊富なヨハネス・イッテンは、東洋の思想や美術にも関心がありました。彫刻家のゲルハルト・マルクス、オスカー・シュレンマー、画家のローター・シュライヤーにロシアからカンディンスキーも合流しました。個性が強い教授陣たちに、当然のことながらバウハウスの方向性をめぐる議論は絶えなかったようです。クレーはここでも議論に積極的に参加することはなかったようですが、こうした活発な議論も必要と考えていました。バウハウスを「もっているもの全てを捧げる共同体」とし、自身を共同体の一部としていたことは彼の生涯においてバウハウスだけでした。バウハウスで上演された舞台の総合芸術にクレーは関わることはなく、音楽的な構造を絵画的な構造へ応用する作品を制作しました。

1917年、オランダでテオ・ファン・ドゥースブルフがピエト・モンドリアンらとデ・ステイルを結成します。個性よりも普遍を追及するドゥースブルフのデ・ステイルの思想は、バウハウスに影響を及ぼしました。イッテンがグロピウスと対立しバウハウスを去り、ロシア構成主義の国際的な波及を受けてモホイ=ナジがその後任選ばれました。コンポジションからコンストラクションへの移行は、1920年代の重要なパラダイム・シフトで、クレーを含めたドイツで活動する芸術家にも影響を及ぼしました。グロピウスが突然バウハウスを辞め、建築家のハンス・マイヤーが学長に就任し、バウハウスは、芸術の概念を否定する急進的な機能主義が加速していきました。バウハウスが変化していく中でクレーとカンディンスキーの関係はより深まりました。クレーにとって芸術作品は、コンストラクションとコンポジション、すなわち客観的な規則性と主観的な恣意性のあいだの相互作用のうちに組織されて、初めて完成性を獲得する」と考えていました。(p222)




パウル・クレー《蛾の踊り》1923年, 124 油彩転写・鉛筆・水彩、紙;厚紙に貼付、下部に水彩とペンによる帯;グアッシュとペンによる縁取 愛知県美術館

クレーは講義で色彩を扱うこととなり、色彩の秩序づけをその根本とし、あらゆる色彩の関係を運動という連続性の中で捉えようとしました。画面を分節して段階的に色彩を移行させる色彩の「階層化」を行い、次に画面を緩やかなグリッドに分節して、長方形や正方形を基本的な単位として、そこに様々な色彩を配置する方形画を制作しました。クレーの色彩論はとても興味深く、展示室で作品を前にじっくり考えてみて下さい。

バウハウスにおいてすら「織物工房」は「女の仕事」とみなされ女性の受け皿となっていました。1927年以降クレーは自由絵画教室と織物工房も正式に担当し大きな負担となっていきました。1931年クレーはバウハウスを去り、デュッセルドルフ美術アカデミーへ移ります。


パウル・クレー《大聖堂(東方風の)》1932年, 27 油彩、ガーゼ;厚紙に貼付 アサヒグループ大山崎山荘美術館

1931年から翌年に制作した70点ほどの点描的な水彩や絵画は、「クレーの多岐にわたる造形的な試みのひとつの到達点を示している」(p249)とあります。

 

6章 新たな始まり

ヒトラー政権が樹立すると「非ドイツ的」なモダニズムへの弾圧が強まり、クレーも攻撃の対象となり、スイスへ亡命します。「退廃芸術」として美術館から膨大な数の作品が没収され、クレーの作品も134点含まれていたとされています。外貨獲得のために、ナチ政府公認の画商たちにより国外へ売却されていきました。ナチ政府による作品の廃棄をさけるべく、アメリカへ渡った作品もあり、宮崎県立美術館所蔵の《ゴルゴタへの序幕》もその中の1作品で戦後アメリカから日本へもたらされました。


パウル・クレー《殉教者の頭部》1933年, 28 水彩・石膏下地、ガーゼ;厚紙に貼付;裏面に水彩・石膏下地;オリジナルの額 パウル・クレー・センター、ベルン(リヴィア・クレー寄贈品)

この時期もクレーは描き続けました。粗野で即興的な線描画と自画像的な肖像画を描いています。クレーは、ナチ政府を具体的に批判することはなく「反ファシストの芸術などというものはない、あるのは芸術だけだ」(p263)というこれまでと変わらぬ姿勢でした。1935年の夏の後半から原因不明の体調不良(自己免疫疾患)に襲われ、症状は改善と悪化を繰り返しました。一方で1939年には年間に生涯で最も多くの1253点も制作しました。晩年には、身体的な苦痛を反映した作品や、ギリシア神話や創世記を主題としました。1938年以降は、ニューヨークの画商カール・ニーレンドルフを介して販路をアメリカに拡大しました。現在日本の美術館に所蔵されているクレー晩年の作品の多くは、戦後にアメリカから日本にもたらされたものです。

ベルンへ亡命して以降、新たな記号的な表現にも取り組み、ちょっと不思議で楽しげでリズミカルな記号の世界も描きました。


パウル・クレー《無題(最後の静物画》1940年 油彩・キャンバス パウル・クレー・センター、ベルン(リヴィア・クレー寄贈品)

体調が悪化し、1940年チューリッヒ美術館での個展には閉幕直前になんとか出かけたが、ベルンのアトリエを出てロカルノの療養所に入所しそこで亡くなりました。ベルンのアトリエに残されていた32点の作品の1つが《無題(最後の静物画)》です。息子フェリックスによって「最後の静物画」と名付けられました。没後撮影されたアトリエの写真にはイーゼルに架かったままでした。クレーの作品としては大きなサイズで、その当時クレーの中にあったモチーフが鮮やかな色彩を使って描かれています。

 

本展の英語タイトル”Paul Klee, Solitary and Solidary”、クレーの中の”Solitary”と” Solidary”。展示会場にもある「みんなの鑑賞ガイド」に本展の注目ポイントがあります。公式サイトからも見る事が出来ます(予習にどうぞ)

クレーの人生はもちろんのこと、クレーが生きた時代の美術動向を詳しく知りたい方には人物略歴・索引もある図録がお薦めです。掲載可能な画像数が限られているために、クレーの作品の一部しか掲載していませんが、展覧会では、同時代の画家の作品や資料や写真も展示され、特に同時進行のクレーの作品と他の芸術家作品と見比べ、その関係性を作品から受けとめることができるのも、この展覧会ならではと言えるでしょう。20世紀の大きな二つの戦争で人生を大きく転回しなければならなかったクレー、今の時代だからこそ語られるものもありそうです。

1章ごとでも1つの展覧会が出来る程のクレーの人生、クレーの表現方法、思考、思索、クレーの生きた時代、美術動向やそこに次々と登場する芸術家たちと中身の濃い展覧会です。担当学芸員の解説会も開催されています。








【開催概要】パウル・クレー展 創造をめぐる星座

  • 会期:2025年3月29日(土)~2025年5月25日(日)
  • 会場:兵庫県立美術館 3階企画展示室
  • 時間:10:00~18:00 (入場は閉館30分前まで)
  • 休館日:月曜日 5月7日(水)※ただし5月5日(月・祝)は開館
  • 観覧料:一般 2,000円 (1,600円)/大学生 1,500円(1,200円)/高校生以下 無料 /70歳以上 1,000円(800円)/障害者手帳等をお持ちの方 [一般] 500円(400円)/障害者手帳等をお持ちの方[大学生] 350円(300円)※( )内は20名以上の団体料金です ※コレクション展の観覧には別途観覧料金が必要です(本展とあわせて観覧の場合は割引があります) 
  • TEL:078-262-1011
  • 展覧会公式サイト:https://www.ktv.jp/event/paulklee/



プロフィール

morinousagisan
阪神間在住。京都奈良辺りまで平日に出かけています。美術はまるで素人ですが、美術館へ出かけるのが大好きです。出かけた展覧会を出来るだけレポートしたいと思っております。
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