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酒井抱一の系譜 雨華庵(うげあん)への誘い

抱一の系譜は、その後継者によって150年も受け継がれていた。

知らなかったことを教えてくれる展覧会はいくつになっても楽しいと思いました。

譜代大名姫路藩主酒井家の次男として生まれた酒井抱一(1761-1828)は、400年前の俵屋宗達⇒300年前の尾形光琳を100年後に私淑した江戸琳派の絵師として知られています。(※「琳派」は後の世の呼び名です。)

歴代文雅の道に親しんだ酒井家の江戸の大名屋敷で育った抱一は自然とその風を自身の中に取り込んでいたと思われます。20代の抱一は、歌川豊春から影響を受けた美人画を描き、当時の文化サークルの場でもあった遊郭や料亭で俳諧や狂歌も嗜みました。それもかなりのレベルで。遊興の日々を送るも藩主であった兄・忠以が亡くなった37歳の年に京都の西本願寺から文如上人が江戸に下向した折に江戸の築地本願寺で得度を受けて出家します。それ以降光琳風の絵を描くようになったと伝わります。光琳は、江戸に下った折には、短い間ですが酒井家の先祖に出仕していたという奇縁もあるようです。抱一は、光琳の顕彰事業に励み、自身も琳派絵画の図様や技巧を学び、平面的で装飾性豊かな光琳様式に叙情的な独自の造形世界を生み出していきました。抱一門下と言えば、池田孤邨や酒井家家臣となって仕えた鈴木其一が思い浮かびます。抱一の代表作である重要文化財《夏秋草図屏風》(東京国立博物館蔵)や私が一番好きな抱一作品である細見美術館所蔵《白蓮図》(1/7-2/2展示)と鈴木其一の代表作の1つである重要文化財《夏秋渓流図屏風》(根津美術館蔵)からも明らかなように、其一は、抱一亡き後大胆ともいうべきシャープでモダンな画風へと舵を切りました。

抱一は、50歳を前にした文化6年(1809)師走に吉原の遊女を身請けして下谷根岸の百姓家に移り住みます。この庵は、抱一の終の棲家となり、アトリエであり、寺の機能も持ちながら弟子たちを指導する画塾でもありました。光琳没後100年に当たる文化12年(1815)に、根岸の寺院で光琳百回忌と光琳遺墨展を催し縮小版展覧図録である『光琳百図』を出版しました。転居から8年後の文化14年(1817)には、この庵を『仏説無量寿経』の“天雨妙華”から「雨華」をとって「雨華庵」と名付けて額を揚げ、抱一自身も「雨華庵」と称するようになりました。抱一没後「雨華庵」は、抱一を慕う江戸琳派の絵師たちの拠りどころとなり、養子鶯蒲から5代、150年近くその後継者に受け継がれていきました。

※「雨華庵」扁額の裏面には、抱一の甥である姫路藩酒井家第4代藩主・酒井忠實による「文化十四年丁丑十月十一日乙巳之書」「従四位下行雅楽頭源朝臣忠實」と記されています。

細見家の二代古香庵は、江戸琳派を好み、抱一作品と更にはその弟子たちへもコレクションを広げました。本展は、「雨華庵」ゆかりの絵師たちの作品を中心にした江戸絵画の個人コレクションである「うげやんコレクション」から約60件と細見コレクション約20件の約80件で、「雨華庵」を継承した絵師やその周辺の抱一に憧れ、慕った絵師たちを紹介するこれまでになかった展覧会で、5章構成です。

 


展覧会場入り口前にある雨華庵の門に掲げられていた扁額(江戸東京博物館蔵)の原寸大写真パネルです。

第1章    酒井抱一の画所〈雨華庵〉抱一作品はここから生まれた!

抱一が後半生を過ごした雨華庵で、抱一の代表作が多く制作されました。本章では、この時期の作品を紹介しています。

雨華庵のあった下谷根岸は文人墨客も多く住み、彼ら文化人が集った吉原も近くでした。

展覧会は 、抱一筆《紅梅図》細見美術館蔵から始まります。吉原大文字楼の遊女おちか(後に小鸞)を身請けして、下谷根岸で一緒に迎えた初めての正月に描いた記念碑的作品です。文化人が集いその相手をする遊女や大夫は教養を備えていました。抱一の紅梅に小鸞が漢詩の賛を寄せた作品で、小鸞の思いが伝わる心温まる作品です。仏画も描いた抱一が「雨華庵」の額を掛けた年の作品である《青面金剛図》は繊細な筆遣いで描いた抱一らしい美しい仏画で、描表装も見どころです。《吉原月次風俗図》や文台などこの頃の抱一の暮らしの一端が偲ばれます。


第2章 継承される雨華庵-2世鶯蒲(おうほ)や愛弟子たち ポスト抱一、百花繚乱

2世として雨華庵を継いだのは、11歳で抱一の養子となった鶯蒲(1808-1841)で、抱一夫妻にも可愛がられましたが、34歳という若さで亡くなりました。生没年不詳の山本素堂やその長男・山本光一(1843?-1905?)などその名はあまり知られていない絵師の作品が紹介されています。展示室正面の山本素堂筆《朱楓図屏風》銀地の屏風は、大胆な構成とたらしこみを駆使した琳派らしい屏風で、その力量が伝わります。山本光一は、明治期に起立工商会社で図案を作成し、高岡工芸学校で教師となり、ナント!今年京都文化博物館で展覧会があった日本画家・石崎光瑤の最初の師でした。光瑶は12歳の時、金沢に滞在していた江戸琳派の絵師・山本光一に師事し、江戸琳派の画風と写生の基本を学んでいました。光瑶の「光」は師の「光一」からとったものでした。石崎光瑤展の鑑賞レポートで師の山本光一の作品も観たいと書いたのが、実現しました。光瑶は彼の下でみっちり基礎を学んだのではないでしょうか。


第3章 雨華庵再興-4世道一(どういつ)の活躍

2世鶯蒲の甥で養子となり3世となった鶯一(おういつ1827-1862)も早世しています。慶応元年(1865)には雨華庵は不審火で焼失してしまいます。2世鶯一の娘と結婚して4世となって雨華庵を再興したのが、山本素堂の次男・道一(1845-1913)です。世は明治維新を迎え、新しい時代に江戸琳派の旗手として活躍し、明治政府が近代促進化のために開催、参加した博覧会へも出品しました。草花図は美しく、道一筆《藤に牡丹図》は沈南蘋や渡辺省亭にも通ずるところがあるように思いました。《花鳥図寄合書》には、川端玉章、跡見玉枝、渡辺省亭、野口小蘋など当時を代表する日本画家が名を連ね、彼らに並ぶ日本画家でした。。


第4章 江戸琳派の末裔-5世抱祝(ほうしゅく)による顕彰-昭和まで抱一画風をキープ

雨華庵5世となったのは道一の子、酒井唯一(ゆいいつ)こと抱祝(1878-1956)で、大正期から戦後まで、雨華庵最後の後継者としてその終焉を担いました。

《十二ヶ月花鳥図屏風》は、抱一が60歳代に数多く描き、後の江戸琳派の絵師たちにも描かれた画題です。展示中の抱祝の作品は現在知られる最も新しい《十二ヶ月花鳥図屏風》です。抱祝筆《燕子花図》の款記には「五世抱祝筆」とあり、雨華庵後継者としての自負がありました。

見比べてみよう「蓬莱図」:第2展示室正面に展示される「蓬莱図」、琳派だけでなく古来、吉祥画の画題として描かれてきました。道一作《蓬莱図》は、「うげやんコレクション」の第一号だそうです。本来「蓬莱図」に描かれる亀や鶴、海さえも描かれず岩塊だけが宙に浮く、グラフィック・アートの様、うげやん代表は「天空の城ラピュタ」のようと感銘を受けられたそうです。、私には巨大な岩の塊が空に浮くマグリットのあの絵が浮かびましたが・・・


第5章 抱一風を伝える-画帖・画巻の魅力 小画面に込められた思い

最後の展示室は、抱一の弟子たちが観賞用として手元に置いたり、臨模の手本としたりした画帖や画巻が展示されています。それらを手本に画題やモチーフ、構図を学び、江戸琳派の画風が継承されていきました。明治時代の彫刻家の加納鉄哉 画・賛《雨華庵に冬至梅図》は、焼失後に再興された雨華庵を描いた作品です。

 

「雨華庵」を引き継ぎながら抱一後継者が戦後まで150年も続いていたことを初めて知りました。これまであまり意識してこなかった抱一の系譜の絵師たちの多様な作品を観る事が出来た貴重な機会でした。

新年には京都へという方には、吉祥画も多くお薦めの展覧会です。


細見美術館前の琵琶湖疏水、 今年の紅葉は遅くとびきり美しい紅葉に出会いました。

【開催概要】

  • 会期:2024年12月7日(土)~2025年2月2日(日) ※一部展示替えあり
  • 会場:細見美術館
  • 開館時間:10:00~17:00
  • 休館日:月曜日(祝日の場合、翌火曜日)/年末年始 12月26日~1月6日
  • 観覧料:一般 1,800円/学生 1,300円
  • お問い合わせ:075-752-5555
  • URL:https://www.emuseum.or.jp/exhibition/ex087/index.html

 


今年最後の京都となり、京の師走の風物詩



プロフィール

morinousagisan
阪神間在住。京都奈良辺りまで平日に出かけています。美術はまるで素人ですが、美術館へ出かけるのが大好きです。出かけた展覧会を出来るだけレポートしたいと思っております。
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