NEGORO 根来 - 赤と黒のうるし
大阪市立美術館|大阪府
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「根来に根来なし」根来の定義とは?
「根来」「根来塗」と聞いて、思い浮かぶのは朱が剥がれて(実際は剥がれたのではなく、長い間の使用によって一番上に塗られた朱漆が磨滅した状態)下の黒漆が表面に現われ景色をなし、そこに美を感じ愛で魅了される。そうまるで、古染付の虫喰に雅味を見出すような。初めて知ったときは何が趣味人を惹き寄せるのか全く理解できませんでしたが、最近はそんなものなのかと。
「根来」「根来塗」とは、木地を作り、欠けやすい部分に麻布を貼り付けて補強し、漆の下地を繰り返し繰り返し塗り重ねる事で、「堅牢」と形容される下地の木地が出来上がり、そこに黒漆を中塗りして、朱漆を上塗りした朱漆塗漆器(朱漆器)のことです。プラスチックがなかった時代、漆器は軽くて丈夫、修繕も簡単、朱漆を塗布すれば防腐防虫、解毒作用もあり、朱や漆黒の色には様々な意味合いも含んでいたことでしょう。表面の摩耗に美を見出したのは後付けです。
大寺院であった根來寺で朱漆器が作られていたから「根来」と呼ばれるようになったと伝えられていますが・・・実は・・・というのが本展の1つのテーマです。
根來寺は、平安時代末期、高野山の学僧であった覚鑁(かくばん)上人が開創して、「学びの寺」として中世には新義真言宗の聖地として発展しました。その繁栄ぶりはイエズス会のルイス・フロイスの『日本史』の中にも記されています。強大な寺社勢力となり、天正13年(1585)秀吉の焼き討ちにあい、全山が焼失してしまいました。たくさんの塔頭が建ち並び、全国から学僧が集まり、一帯は高野山のような一大宗教都市だったかもしれません。山内で使用する仏具や食器類などなど必需品を山内あるいは根來寺一体で生産、集積、それらを修繕する工房もあったのではないでしょうか。根來寺で学んだ地方僧たちが郷里へ帰る際には、根来寺で書写した聖教だけでなく、根來寺の文物や技術までも持ち帰り、地方へと伝播していったことでしょう。そこに根来の漆芸技術もあったとしても不思議ではありません。秀吉焼き討ち後に、地方へと技術者も移って行ったとも考えられそうです。
しかしながら、「根来に根来なし」と言われるほどに、根來寺に伝わる「根来」はほぼなく、寺内遺跡からも根来の工房跡も発見されていないそうです。本展展示の茨城・水戸大師六蔵寺所蔵の二対四口の《布薩盥》の底裏には朱漆銘があります。その銘にある六蔵寺住持第3世の恵範は、他の史料から四国や畿内を遊学、東大寺でも修学しその前年に根来寺を訪れて聖教の書写や経典などと共に仏具も持ち帰り、その中にこの《布薩盥》もあり「細工根来寺重宗」の銘を記したと思われます。恵範からその制作時期もたどれます。根来の痕跡が根来にないほどに秀吉の焼き討ちが凄まじかったのかとも。
※根來寺については、根來寺さんのHPもご参照ください。
本展では、①寺社に伝わる根来の宝物 ②博物館、美術館、個人の所蔵品のうち銘のあるもの、箱書きがあるもの 根來寺最盛期、中世の朱漆器を中心に時代や伝来が確かなものが展示されています。熊野速玉大社の古神宝の櫃から現代美術家・杉本博司の作品まで、白洲正子や黒沢明旧蔵品など多くの人を魅了した朱漆塗漆器、「根来」の名宝、名品が並びます。その色合い、風合いだけでなく、「用の美」日々使う品々によせた細部までの工人の作り込みも美しいと思いました。本展初出陳作品や新発見史料もありまだまだ根来研究は奥が深そうです。
ちらしも素敵でしょう。メインヴィジュアルとなっている《輪花盆》あぁと思いました。日美で放送された「日本伝統工芸展」の中で日本工芸会奨励賞の伴野崇作《乾漆六弁輪花盛器》、「輪花」は昔からあるとお話になっていたなぁと思いました。現在の輪花も観に行きたいと思っています。
本展に続いてサントリー美術館でも開催されます。各館だけの展示品もあり、本来は二館を回って完結するらしいです。図録がサントリー美術館仕様なのか?とても見辛かったです。大阪市美はほぼ年代順ですが、図録の編集からしてサントリー美術館では、高杯、瓶子、折式、盆・・・などカテゴリーごとに展示されるのではないかと思われます。
内藤栄大阪市美館長の前職は奈良博の工芸部長、その前はサントリー美術館にご在職で、館長によるレクチャーが3回も開催されます。
私自身は、赤と黒の漆器のフォルムと色と景色を愛で楽ませて頂きましたヽ(^o^)丿
※本展の観覧券で特集展示「売茶翁から花月菴―煎茶道はここから始まった!―」も観覧可。カフェでは、根来の器で提供されるオリジナルコラボスイーツも。
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- BY morinousagisan