小出楢重 新しき油絵
大阪中之島美術館|大阪府
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日本近代洋画 四半世紀ぶりの小出楢重展
小出楢重は、阪神間に住む者には比較的馴染みのある洋画家で、作品も度々目にしてきました。大原美術館蔵の《Nの家族》そっくりの《芸術家の家族》を所蔵先の兵庫県美で観ましたし、楢重の「ガラス絵」も県美でこれまで観る機会がありました。芦屋は、楢重が最後の5年を過ごした地で、芦屋市立美術博物館のお庭には、楢重のアトリエが復元され見学できます。
小出楢重の展覧会が25年ぶりという事に驚きました。しかも25年前は、兵庫県美でも芦屋市美でもなく、京都国立近代美術館へ巡回したものでした。その展覧会は、当時関西を離れていたので私は観ていません。
100年前多くの日本人画家は渡欧して、日本人にとっての油彩画、「日本画」と命名された画のあり方をそれぞれに模索していたように思います。
その日本近代洋画への関心が薄れたり、需要がなくなってきたりしているそうです。この点について、林洋子兵庫県立美術館館長も2023年の「金山平三展」のときにお話になっていましたし、今回も菅谷富夫大阪中之島美術館館長もお話になっていました。前の展覧会から四半世紀も経つと、小出楢重の関係者の孫の世代となり、来歴が辿れない作品も出てくるそうです。それ故に「生誕○○年」「没後○○年」などの展覧会を定期的に開催して、作品が失われないように、日本美術史から切り捨てられないように、該当画家に所縁のある地では「全貌をたどる」展覧会が開催されるわけです。大阪へも巡回する話題の髙野野十郎などが話題を呼ぶのは、その写実表現や発掘された感じからでしょうか。日本画においても、大観や栖鳳の大御所よりも尾竹兄弟の方が面白い!と思うのは私だけではないように思います。
小出楢重は、自分の作品、資料等につても取捨選択して納得できないモノについては、処分していたようで、画家の全貌と云っても彼の眼に叶ったモノとも言えるかもしれません。それもあってか、同じ画家の作品とは言え、粒がそろっている、ある種違和感のような感じも持ちました。
小出楢重(1887-1931)は、花柳病に効くとされた膏薬「天水香」を看板商品とする大阪中心部にある裕福な薬屋の三男として生まれました。花街がある宗右衛門町や芝居小屋や見世物小屋が並ぶ心斎橋や千日前に近く、父は、大阪商人の旦那衆らしい趣味人で四条派の画家に日本画を習い、楢重も同じ師の手ほどきを受けています。母も三味線を習うなど、大大阪時代の色濃い中で育ち、それを楢重は「下手もの」と呼んでいますが、良い意味での「アクが強い」といいますか、彼が育った環境は作品に通底するものとなりました。今私たちが吉本などからイメージする大阪ではなく、もっと大らかな古き良き時代、戦前の大阪にあったユーモアがあって粋の中に皮肉もあるあの時代の特有の感覚であったと思われます。
本展はまさに初期から晩年まで、中学時代の課題作品から絶筆と伝わる作品までを時代ごとの代表作や資料、写真などでたどる大回顧展となっています。
東京美術学校(現 東京藝術大学)を受験するも及第点となった日本画科に入学しました。油彩画がしたかったのでしょう、白馬会洋画研究所へも通いデッサンに励み、二年後に西洋画科に転科します。生来からだの弱かった楢重は中学時代に2年休学しており、大学に入学時は20歳でした。日本画科では、小堀鞆音、松岡映丘の指導を受け、それもなかなか捨てがたいように思うのですが、当時描いた日本画も展示されています。後に余技としてサラサラと毛筆で描くこともあり、この時の運筆を手が覚えていたようにも感じました。西洋画科には、黒田清輝、藤島武二、和田栄作など錚々たる指導者が居ましたが、楢重はその影響を強く受ける事はなかったようです。美大時代のデッサンは絵画制作の基盤となりました。大学卒業後は、大阪に帰り、奈良に滞在してルノワール風の風景画などを描き、文展へ出品しますが落選続きで不遇の時代を過ごしました。この時代楢重を支えたのは、中学時代の同窓生たちで、追加出品となった中学の同窓生の《長祥君の肖像》には、空襲で自宅に落ちた焼夷弾のかけらが跳ね返ってカンヴァスを貫いた痕あり、過ぎてきた時代を伝えています。
結婚、長男の誕生もあり、北野恒富の旧居へ転居して制作環境も変化します。
1919年文展でなく二科展に《Nの家族》を出品して、新人賞となる樗牛賞を受賞し、32歳での画壇への本格的デビューとなりました。楢重に残された時間は、画家を志してからと同じほどしか残っていませんでした。
髙野野十郎もそうですが、この時期の洋画家は草土社のメンバー、フォロアーでなくても岸田劉生(1891-1929)の影響を受けています。改めて岸田劉生凄い!ホルバインの影響も受け、北方ルネサンス的でもある訳で、そして時代的にも「デロリ」としています。本展では、重要文化財《Nの家族》と《芸術家の家族》が並べて展示されています。
1921年楢重は実家を売却した資金を元手として渡欧します。神戸から出立した船には、坂本繁二郎や最近展覧会があって知った硲伊之助も一緒だったそうです。往復を差し引けば、5か月の短い滞在で、描いた絵はそれほど残っておらず、それよりも滞在中は買い物を楽しんだようで、買い求めた小物は後のモチーフとして楢重作品に登場します。期待したほどの事はなかったとの感想を残していたようですが、帰国後は油彩画を描くならと、生活のスタイルも洋風に一変し、作風も色彩は明るく、厚塗りから絵具を薄く溶いて塗り重ねるようになりました。
透明なガラス面に絵を描いて、反対面から鑑賞する「ガラス絵」は、江戸時代中期には日本へ伝わっていたようです。大正の初め頃から楢重は、彼の言うところの「ゲテモノ」の1つとして蒐集を始め、やがて自分でも描くようになります。「ガラス絵」は、下絵をガラスの下に敷いて、完成形を逆算して通常の絵画制作とは反対の手順で描いていきます。この魅力に取りつかれ額縁にも拘わり味わい深い作品を残しています。画家としての感性を生かした随筆家として、洒落た挿絵や装幀、楢重の芦屋のアトリエを設計した笹川慎が施主となった住宅のための花の静物画を描いた壁面装飾と多才な人で、楢重が撮影、編集した16ミリ映像も会場で上映されています。生活を楽しむのが上手な人だったように思いました。
1924(大正13)年、楢重は、鍋井克之、国枝金三、黒田重太郎と「信濃橋洋画研究所」を開設しました。公立美術学校のない大阪で洋画を学べる研究所で、多くの洋画家を輩出し、戦前の関西洋画界を牽引しました。本展には、研究所の窓から見下ろした大阪の街を描いた楢重と国枝と研究生だった松井正の風景画3作が並べて展示され、当時の大阪が偲ばれます。
楢重の題材は、圧倒的に裸婦像と静物画が多く、裸婦像や静物画が壁面に並びます。メインヴィジュアルの1つとなっている《卓上静物》の様に、蔬菜などもぐにゃりと曲がっていたりするのですが、一壁面に並んだ花の静物画は、静かで美しくはっとしました。
「裸婦の楢重」「楢重の裸婦」と呼ばれたほどで、理想的な裸婦でなく、胴が長く太い太もも短い脚の日本女性をさらにデフォルメして描きました。最後の部屋は楢重の裸婦の代表作を一堂に集めた展示となっています。
展覧会のたびに我が家で発掘される古い図録。手には取っていなかったけれど、あの辺に確か小出楢重の古い図録があったなぁと思っていたのです。1978年に西宮市立大谷記念美術館で開催された時のもので、巻頭は京大教授であった乾由明先生が寄稿されていました。
他の地の方にとって小出楢重ってどうなのだろうか。若い世代の方にとってどうなのだろうか。本展は、大阪の後12月20日から府中市美術館へ巡回し、HPを確認してみると観覧料がお安い!東京圏の感想も楽しみにしています。撮影可の作品多し。
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- BY morinousagisan