今年の秋は奈良へ遠足
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- by morinousagisan
かねてより出かけたいと願っていた吉野の金峯山寺へ行ってきました。世界遺産・国宝の「金峯山寺本堂・蔵王堂」の秘仏ご本尊金剛蔵王大権現3体の特別ご開帳に合わせて。
吉野といえば春の一目千本の桜の地です。
しかしながら、地理的位置関係がによく分からず、吉野の観光地図を見ても吉野の地がどうなっているのか”?”が頭の中を巡ります。天王寺まで出て、阿部野橋から近鉄で、橿原神宮前までは急行で停車駅は3つ、橿原神宮前で吉野行きの鈍行に乗り換えて吉野まで。この各駅停車が、途中から単線になって行けども行けども終着駅に着かず、いつになったら着くのだろうと、ゴトゴト走っては停まる電車の車窓を眺めていました。
やっとこさ吉野駅についてみれば、それは大きな駅で驚き、春は物凄く賑わい人でごった返すのだろうと思いました。観光地の駅のおトイレもとってもきれいでした。ありがたい。
駅前の観光案内所でガイドマップを頂き、ロープウェイ乗り場まではすぐです。歩いて登っていく方もありました。かなり年季の入ったロープウェイは、大丈夫なのと不安になるほどに次から次へぎゅーぎゅーに団体のお客さんも詰め込んで山頂へ。ロープウェイの車体の模様は桜と紅葉です。
ロープウェイ吉野山駅から金峯山寺を目指して両側にあるお店や旅館をふらふらと見ながら上っていきます。まずは黒門を通ります。
黒門は、金峯山寺の総門で、吉野一山の総門です。高麗門という様式で、昔は公家大名でもこの門からは槍を伏せ馬を下りて通行しました。現在の門は、昭和60年に金峯山寺本堂蔵王堂大屋根大修理の際に改築されました。
重要文化財 金峯山寺銅鳥居(きんぷせんじかねのとりい)発心門とも呼ばれ、ここで修業の道へ入ることを決心するのだそうです。俗世間から浄土への入口です。この門を通って、国宝 仁王門へ。
国宝 仁王門は、平成30年(2018)より大規模修理が開始され、現在も修理中です。
仁王さんも、翌年度から2年をかけて保存修理が実施され、現在奈良博のなら仏像館に居られます。仏像館のボランティアガイドによれば「後4年はここに居られます」とのことでした。東大寺南大門像に次ぐ大作です。東大寺と違ってあの山の上にこの巨像が立って守護しています。
修理中の仁王門を回避して通り過ぎるとき、ちょうどお昼を知らせる法螺貝の音が放送で響き渡りました。周りを見渡せば、そこは大峰山系でしょうか、山々の頂が目の高さにありました。
ようやっと本堂蔵王堂入口に到着。
観音堂、愛染堂もお参りして、拝観券1600円(靴を入れる袋付)を買って(阿部野橋からの割引チケットがあったようです)蔵王堂へ。大きい!
これまで写真等で見てきて知ってはいた本尊金剛蔵王大権現を前にして、その予想以上の大迫力に「わぁー」と圧倒されました。修験道の地で、正午から護摩焚きが行われていました。順次グループごとに本尊金剛蔵王大権現のすぐ近くの囲われたスペースで本尊金剛蔵王大権現を間近で見上げました。釈迦如来、千手観音、弥勒菩薩が仮の姿で出現した忿怒の形相の像です。それは柔和な仏の姿では「荒ぶ衆生を済度しがたい」との考えからでした。「天地鳴動し、山上の大盤石が割れ裂けて、雷鳴と共に湧き出るが如く」と形容される三体の本尊は、青黒く照らし出され、装飾や彩色が金色に輝き、ヒョウ柄?虎の腰巻?色彩も美しく、修理されて時間が経ってない程に見えました。順番を待つ人が大勢おいでになるので、一旦その場を離れお厨子の回りにある諸像を見て回りました。食堂の跡地に役行者1300年大遠忌を契機として建立された蔵王権現本地堂も回って、反対側から再度本尊金剛蔵王大権現を間近から見上げ、正面に戻ってお参りしました。
蔵王堂は、白鳳年間に役行者によって創建されたと伝えられ、平安期には御嵩詣と称して精進潔斎しての金峯山寺参詣が貴族たちの間にも流行りました。大河ドラマでも道長が頼道を連れて詣でていました。中世以降は修験道の中心地として栄え、吉野大衆と呼ばれる僧兵も多く抱えていました。後醍醐天皇は京を逃れ、この僧兵に護られて吉野へ入ったのでした。創建以来、何度も焼失と再建を繰り返し、現在の建物は豊臣家の支援により天正20年(1592)ころに完成したものです。南北朝では南朝のあった所とは言え、材はこの地、吉野の良い材が豊富ですが、こんな山の中に7mを超える巨大な像をこしらえたとは。
明治に入ると金峯山寺も例外でなく、修験道が禁止されて廃寺となりました。明治19年に仏寺として復興し、明治22年に金峯山寺という寺号を取り戻します。戦後、蔵王堂を中心に金峯山修験本宗の総本山となり今に至ります。
首から上の守り神である金峯山寺塔頭 脳天大神 龍王院へもお参りしたかったのですが、450段かの石段を下りて上ってくるしか道はないと教えられ、私たちは膝も脚も心許無い。下りられても戻ってこられないかもということで泣く泣く諦めました。これから先の事を考えれば「首から上の守り神」お参りしたかったです。
道沿いに食事処やお土産屋さんはたくさんあります。食事処は一目千本が見える方にあります。名物といえば柿の葉寿司と葛です。季節的にも外国人観光客は少なく、日本人の観光客も上千本まで行く人はほとんどいなさそうでした。
私たちは、道なりのショートコースを辿りました。道から左へ下ってから吉水神社(よしみずじんじゃ)へ。
石段を上がると一目千本が一望できるところへ出ます。
秀吉が吉野の花見の際に本陣を敷いた地です。淡い色が桜でしょうか。ここから見えるのは中千本と上千本です。桜を修験宗の御神木として、山伏たちが長い年月をかけて一本一本献木してきました。
今日の吉水神社は、明治8年神仏分離で神社となりました。役行者が白鳳時代に創建したと伝わり、修験道の本山・金峯山寺の僧坊「吉水院」でした。ご祭神は、後醍醐天皇、楠木正成、吉水院宗信(きっすいいんそうしん)法印です。
鎌倉時代はじめのものとみられる日本建築史上最古の書院が見学できます。
文治元年(1185)12月雪降る中、源義経が兄頼朝に追われて吉水院に逃げ込み、静御前や弁慶と5日間身を潜めた所だそうです。追手が迫り義経は山伏の姿となって、さらに山深い大峰山へ向かいます。大峰山は女人禁制で静御前は入れません。この場で再会を誓って二人が分かれることになったそうで、二人が過ごした「潜居の間」。
「吉野山 峯の白雪踏み分けて 入りにし人の 跡ぞ恋しき」と静御前が詠んだそうで、
「義経千本桜」の舞台で、へぇーそうだったのかぁと物凄く吃驚!
義経潜居から約150年後、後醍醐天皇は、建武の新政を成し遂げますが、足利尊氏の離反で幽閉されていた京の花山院を脱出し吉野へ入り、吉水院宗信法印の助けを受けて延元元年(1336)吉野に朝廷を開きました。この部屋を南朝の行宮としてしばし過ごされたそうです。正面に張られた障壁画は狩野永徳の作品と神社のHPで説明されています。
後醍醐天皇は、延元4年(1339)吉野の地で崩御されました。
「花にねて よしや吉野の吉水の 枕のもとに 石走る音」
書院には、義経ゆかりの鎧や後醍醐天皇の御物、秀吉愛用の屏風など「えっ!」と二度見する様な文化財が展示されていますが、悲しいかなかなり痛んだものもありました。襖や展示の品々が今後大切につけ継がれていく事を願いました。
書院裏庭に「北闕門」(ほっけつもん)があります。ここは修験者たちが大峰山に入山するときに、無事に下山できるようにここから祈った場です。険しい大峰山での修業は命懸け、吉水神社のHP解説によれば「山伏達は吉水院にて入山許可書を戴き、護摩を焚き、崖から落ちたり熊や猪や蝮に襲われることなく「平穏無事」に下山できるように念じました。」後醍醐天皇も楠木正成もここで邪気を払い決意を新たにしました。セーマンドーマンの様なマークを見かけ「あっ!これはもしや」と思いました。邪気祓いの「九字護身法」は陰陽道が如くです。邪気煩悩は祓えたかは甚だ疑問ですが、この遠足でリフレッシュし、出かけられるうちに出かけようと再確認しました。
秋の日暮れは早く、人通りも少なくなり、お土産物屋さんなどを覗きながら、3人だけの帰りのロープウェイで降りてきました。
吉野駅まで下りてくると、なーんと”青の交響曲(ブルーシンフォニー)”が停車しているではありませんか!ヤッターヽ(^o^)丿駅員さんに「あれに乗りたいです!」とお伝えすると、すぐさま自動券売機で座席指定特急券(750円)を買ってくださり、念願の”青の交響曲”に乗車する事が出来ました(拍手)
中には、カフェや売店もあり、車内の仕様もとっても素敵でした。
そんなこんなで、体力と相談しながらの嬉し楽し秋の遠足PART1でした。
・金峯山寺HP:https://www.kinpusen.or.jp/info/2024/post-50.html
・吉水神社HP: https://www.yoshimizu-shrine.com/
・吉野山観光協会:https://yoshinoyama-kankou.com/
※吉水の「吉」は、上が「土」が正しい漢字です。