特別展「法然と極楽浄土」@京都国立博物館 法然さんの願いは現在にも通ず
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- by morinousagisan
特別展「法然と極楽浄土」@京都国立博物館が始まり、前期展示へ連休前の金曜日の夕方に行ってきました。始まったばかりでしたので、比較的空いていてじっくり観る事が出来ました。
東京、京都、九州と3つの国立博物館を巡回します。東京でご覧になった方も多く、すでにご存じの通り、2024年は浄土宗の開祖・法然(法然房源空、1133~1212)が開宗して850年という節目にあたるということから、浄土宗開宗850年慶賛委員会の特別協力を得て展覧会が開催されています。法然在世時から江戸時代に至るまでの浄土宗の歴史を法然ゆかりの名宝、名品で通覧する展覧会です。
中将姫が蓮糸で一晩で織ったと伝えられる国宝《當麻曼荼羅》が奈良県外で初めて展示されると注目も集めています。(期間限定11/12-12/1) また、国宝《阿弥陀二十五菩薩来迎図(早来迎)》が修理後初めて展示されます。これらは、どちらも後期展示です。
本展は巡回地ごとにその土地にゆかりのある展示となっています。京都は、総本山の知恩院はじめ、本山級の浄土宗寺院や、法然ゆかりの施設が多くあり、そこに伝わった名宝、名品が展示されています。3会場中最多の出品数となり、国宝6件、重要文化財66件を含む156件、うち42件が京都会場だけの展示となっています。※京都会場出品リスト⇒◆ 今回は、音声ガイドが幸四郎さんと染五郎さんということで、ガイドにも導かれながら回りました。
展覧会は4章構成です。
各章において、私が特に気になった作品のほんの一部を取り上げました。他にも国宝、重文、京都会場だけ展示など必見作品は多くあります。
第1章 法然とその時代 法然の肖像や絵伝、在世時の遺品で法然の事績や思想をたどります。
本展は 重要文化財《往生要集》平安時代 承安元年(1171) 京都 青蓮院 [展示期間:巻上・巻中10/8-11/4、巻中・巻下11/6-12/1] から始まります。
『往生要集』写本のうち、書写年代を明記した最古の完存写本です。法然の伝記には、『往生要集』をきっかけに浄土教に入門したと記述されています。
重要文化財《方丈記》1巻 鎌倉時代 13世紀 京都 大福光寺(京都会場だけの展示)[全期間展示:場面替]
現存する最古の写本です。鴨長明(1155-1216)は、法然と同時代に京都に生きて、災害の記録や世相を随筆『方丈記』で書き残し、人と栖の「無常」を伝えています。
平安時代末期は、繰り返される内乱や頻発する天災や疫病、逃れられない貧困などで世は乱れ、人々は疲弊し苦悩する「末法」の世を生きていました。そして今も、終わらない戦乱、死にゆく人々、巻き込まれる子どもたち、コロナの世界蔓延、頻発する大きな地震や水害ととても遠い昔の出来事とは思えない。
国宝《法然上人絵伝》48巻のうち6巻 巻替 鎌倉時代・14世紀 京都 知恩院 [展示期間:巻第三・巻第六10/8-10/20、巻第七・巻第三十四10/22-11/10、巻第三十七・巻第四十二11/12-12/1]
数ある法然の絵伝類でもっとも代表的なもので、全48巻という内容量も圧倒的で、阿弥陀仏の48誓願にちなみ「四十八巻伝」、後伏見天皇の勅命で制作されたことから「勅修御伝」とも呼ばれる。浄土宗の聖典としても、日本美術史上においても最大規模の高僧伝絵としても重要です。法然の生涯の法然伝と教団史の集大成を目指して制作されました。詞書執筆には天皇や能書家が関わり、画風は中世やまと絵の幅の広さを伝えて多様です。
※48誓願にちなみ、トラりん公式【トラTube】で本展のあれこれについて48の質問のショート動画がアップされていて、お手頃で分かり易いです。
法然は長承2年(1133)4月7日に美作国(現在の岡山県)に生まれたとされています。法然が生まれるときに母が剃刀の夢を見て、やがて仏門にはいると思われたとガイドでは説明されていました。「勢至菩薩」に因んで「勢至丸」と名付けられました。勢至菩薩の化身とされ、勢至菩薩は、知恩院創建時の地である勢至堂の本尊となっています。
9歳の時夜襲を受けて父は、仏の道を究めるようにと遺言して死んでしまいます。父を殺した人を恨んではいけないとの言葉を残したと幸四郎さんがガイドで話していました。今の世の世界の戦火を思い既に私グッときてしまいました。僧侶になって修行を積んでも父を殺した人を憎むことから逃れられない自分を悩むのでした。こうなると法然さんが近く感じられもします。
父の死後菩提寺に入りますが、13歳で比叡山延暦寺で修業することになります。15歳で剃髪して受戒します。浄土教への信仰が貴族にも広まる中、浄土教に親しんだ僧が多く住む比叡山の黒谷青龍寺へ隠遁(18歳にして隠遁!)、叡空を師とし「法然房源空」と称するようになります。各地で修業を重ねますが、僧として最も基本的な三学〈戒・定・慧〉さえ成就できないと嘆いています。
重要文化財《善導大師立像》1躯 鎌倉時代・13世紀 京都 知恩院(京都会場だけの展示)[全期間展示]
中国浄土教を大成した唐時代の高僧・善導の肖像で、口が開いたこの像は、合掌して念仏を称えながら歩行する姿をあらわしています。
重要文化財《像内納入品 五臓》1括 鎌倉時代・13世紀 京都 知恩院(京都会場だけの展示)[全期間展示]
像内に納められた錦製の五臓。善導を生きた仏像として捉えようとする生身思想の表れです。当時の人の信仰心を伝えています。
法然は経蔵に籠って何度も何年も一切経を読み返し、承安5年(1175)中国の浄土僧善導の『観経疏』に「一心専念阿弥陀号・・・」の一節に行き当たります。称名念仏こそが誰もができる阿弥陀仏が本願の行に選んだものであると確信し、ひたすら念仏を称えること(専修念仏)によって極楽浄土へ往生できるという思想に43歳にしてたどり着きました。浄土宗ではこれを立教開宗と位置付けています。
重要文化財《選択本願念仏集(蘆山寺本)》1冊 鎌倉時代・12-13世紀 京都 蘆山寺[前期展示10/8-11/4]
建久9年(1198)、法然66歳の撰述とされる浄土宗の根本聖典。尾題・奥書がなく、本文に加筆訂正があることから、九条兼実へ提出する以前の草稿本と考えられています。複数の僧が執筆に携わったとみられるが、冒頭の21文字は法然の真筆とされ、開宗前後の作品はほとんど現存していない中で、貴重な1冊です。
法然は比叡山を下り、吉水を拠点に教えを弘めていきます。建久9年(1198)九条兼実の要請に応じて、思想を体系化した主著『選択本願念仏集(選択集)』を著しました。「従来の諸行の一つに過ぎず、観想念仏より劣ったとされてきた称名念仏が、最も功徳に優れ、誰でも修業しやすい行であり、仏の選び取った唯一の行であるとする選択本願念仏の理論は、日本の浄土教において画期をなすものであり、後世に多大な影響を与えた革新的な思想である。」(図録上杉智英コラムからの引用)
シンプルな法然の教えは勢力を拡大する一方で、他宗の強い批判や弾圧をうけることになります。(元久の法難)解脱上人貞慶は、『興福寺奏状』を著わして、朝廷に念仏停止を求めました。
重要文化財《二河白道図》1幅 鎌倉時代・13世紀 京都 光明寺[前期展示10/8-11/4]
善導が著した『観無量寿経疏』「散善義」に説かれる「二河白道」の比喩を絵画化したもので、「二河白道図」の現存最古の作例。独立展示ケースの裏面には詳しい解説があります。
誰でもが理解できる思想の絵画化は、さらに信者を増やし、悲しいかな同時に批判を招くことにもなりました。建永元年(1206)門弟の二人が後鳥羽上皇の女房を出家させたことが、上皇の逆鱗に触れ、教団に対して法然門徒が死刑・流罪となり(建永の法難)、75歳の法然は土佐へ流刑となるも九条兼実の配慮で讃岐に止め置かれました。勅免の宣旨で摂津勝尾寺に止住し、建暦元年(1211)入京の勅許が下りて知恩院勢至堂の地である大谷禅房に住み、翌年80歳で入滅しました。極楽往生の姿そのままと伝えられています。
《法然上人涅槃図》1幅 江戸時代・17世紀 京都 百萬遍知恩寺[展示期間10/8-11/10]
《法然上人涅槃図》1幅 江戸時代・17世紀 京都 金戒光明寺[展示期間10/8-11/10]
釈迦の涅槃図の形を借りて宗祖法然の入滅を描いたもの。釈迦と同じ80歳で亡くなった法然は墨染の袈裟を掛けられ、敷物に横たわって中心に描かれ、その回りを130人の弟子たちがぎっしり囲み、彼らには名前を記した短冊が付されています。他に7人の俗人も描かれています。
大谷に葬られ、その墓に人が集まり、「知恩講」と呼ばれる忌日法要が行われたため、嘉禄3年(1227)延暦寺僧によって墓が破壊され、『選択本願念仏集』の版木も焼却されました。(嘉禄の法難)。門弟たちは棺を粟生野に避難させ、遺体を火葬しました。その地に光明寺が建っていると伝わっています。
法然の教えへの信仰は続き、やがて舜昌の編纂による48巻の「法然上人絵伝」に集大成されました。
法然は誰もが行う事が出来る専修念仏を重視し、貴賤による格差が生まれる造寺造仏は必要ないと説いています。しかしそれを必要とするものが用いることは容認していました。「法然上人絵伝」にも阿弥陀如来立像や来迎図がでてきます。前期展示では、地獄と極楽の様子を描いた名品を、後期展示に国宝の来迎図や山越阿弥陀図など阿弥陀像が展示されます。
重要文化財《山越阿弥陀図屏風》3曲1隻 鎌倉時代・13世紀 京都 金戒光明寺[前期展示10/8-11/4] 《五色糸および由来書》室町時代 五色糸15-16世紀、由来書:永正3年(1506)京都 金戒光明寺[前期展示10/8-11/4]
後世のものですが、屏風の阿弥陀の手に五色の糸が残っていて、実際に臨終の場面で使われた可能性があり、臨終の枕本尊の伝承が存在しています。屏風に残る糸とは材質が異なるが金戒光明寺にはこの屏風に付随して五色の糸が別保存されています。存海筆の由来書1巻が仕覆に二重に納められて付随しています。枕元に山越阿弥陀図屏風を置き、五色の糸で阿弥陀様と繋がって安らかに臨終を迎え、極楽浄土へ向かうのは理想だったでしょう。
重要文化財《地獄極楽図屏風》2曲1双 鎌倉時代・13-14世紀 京都 金戒光明寺[前期展示10/8-11/4]
鮮やかな色使いで描かれた美しい屏風です。右端に僧侶が上下二人描かれていることにご注目!上の僧は無事来迎が間近に来ているが、下に描かれた阿弥陀仏に法華経を読む僧には天狗がたぶらかそうと隙を狙っていて、念仏を信じきれないことを批判しているのだそうで、このことから浄土宗で制作された屏風だと分かるという。とても興味深くまじまじと見入りました。
重要文化財《厨子入千躰地蔵菩薩像》1基 鎌倉時代・13世紀 京都・報恩寺(京都会場だけの展示)[全期間展示]
千躰の地蔵菩薩を厨子に納める。周囲に彫られた小さな地蔵の像高は約1㎝、総高も14.7㎝です。後ろ側からも是非眺めてください。単眼鏡必須です。報恩寺は、文亀2年(1502)後柏原天皇の勅により天台宗寺院から浄土宗寺院になり、本像も後柏原天皇の寄附と伝えられています。
重要文化財《刺繍阿弥陀名号》1幅 鎌倉~南北朝時代・14世紀 福島 阿弥陀寺[前期展示10/8-11/4]
刺繍阿弥陀名号の代表作で、保存状態も良くとにかく美しくて刺繡なのかと目を見張る。名号部分は毛髪で髪繍、願いが強く込められていると感じます。
浄土教美術は阿弥陀浄土図を除くと自由度が高く、浄土宗の広ひろがりとともに信仰の拠りどころとして多くの阿弥陀の造形が制作されました。
第3章 法然の弟子たちと法脈 鎮西派、西山派にかかわる弟子たちの作品
法然の没後、法然の門弟たちは各々独自の解釈によって信仰活動を行っていきます。
本展では、鎮西派と西山派について取り上げています。
筑前国出身の聖光房弁長(1161-1238)は、上洛して法然に学んで、九州(鎮西)に帰って多くの寺院を建立し、九州を拠点に教えを弘めていきました。やがて聖光の弟子良忠(1199-1287)が鎌倉などを拠点として勢力を伸ばしていきました。
京都を拠点としたのが西山派です。西山派の派祖は、法然門下の高弟であった善恵房証空(1177-1247)は、消息も残っています。証空は、寛喜元年(1229)に當麻寺で「綴織當麻曼荼羅」を見て、善導の著書『観無量寿経疏』を正確に図で表したものと気づき、『観無量寿経疏』に基づく重要な浄土変相図であることを見出しました。仁治3年(1242)の「綴織當麻曼荼羅」の修理の際には源頼朝や九条家など2500余名の結縁を得て原本の巨大な厨子に扉などを新造しました。数年前にこちらも奈良博で展示があり、覚えておいでの方も多いでしょう。それ以降その図様を写し取ったものが数多く制作され、これらを「当麻曼荼羅図(當麻曼荼羅図)」と呼ばれています。「当麻曼荼羅図」の多様な図様、造形は、描かれた浄土の世界が多くの人々の信仰の対象となり、全国へ広まっていったことを物語っています。
奈良県外では初の展示となる當麻寺所蔵の『綴織當麻曼荼羅』は期間限定11/12-12/1の展示となります。前期展示では、
重要文化財《当麻曼荼羅図》鎌倉時代 正安4年(1302) 京都 永観堂禅林院(京都会場だけの展示) [展示期間10/8-11/10]
軸木銘より制作年が分かり、現存最古の基準作で1枚の絹に極彩色で描かれたほぼ原寸大の模本です。この前に立って見上げながらその大きさを実感し「綴織當麻曼荼羅」を思う時、この大きさで1250年も前の綴織の「當麻曼荼羅」と改めて驚いてしまうのです。もちろん後期も本物を見に来る予定です。
浄土宗寺院も中世後期になると京都では将軍家や公卿、天皇家の保護や支援を受けて戦乱から復興していきます。大永3年(1523)知恩院と百萬遍知恩寺の間で本寺争いが起き、翌年知恩院に対して後柏原天皇から今後の法然の忌日法要「御忌」を盛大に執り行うよう詔書「大永の御忌鳳詔」が与えられ、以後今日まで知恩院で行われています。
三条西実隆(1455-1537)が、戦乱からの復興した寺院の縁起絵巻作成に多く携わるなどその活動が注目されます。個人的には、古今伝授のかの三条西実隆~となりました。その子公条筆になるものや土佐光茂筆の縁起絵巻も展示されています。
第4章 江戸時代の浄土宗 浄土宗に帰依した徳川家ゆかりの作品
中世後期には、聖冏(しょうげい)が関東で伝法制度(法門を師から弟子に伝授する制度)を確立し、弟子の聖聡が江戸に増上寺を開きました。松平家が三河大樹寺を菩提寺とし、その信仰が家康に引き継がれました。大河ドラマ「どうする家康」で家康が「厭離穢土欣求浄土」の幡を掲げていたシーンを覚えておられる方も多いでしょう。家康は、江戸における菩提寺を増上寺とし、知恩院を京都の菩提所としました。家康は母の菩提を弔うために、知恩院に広大な伽藍を整備しました。知恩院は宮門跡、増上寺は総録所として東西の二大拠点となり、教団の地位は確固たるものとなりました。二代秀忠も両寺の整備に大きな力を注ぎました。
歴史の証人のような
《浄土宗諸法度 元和元年七月日》1通 江戸時代 元和元年(1615) 京都 知恩院[前期展示10/8-11/4]
大坂の陣終結後、江戸幕府が徳川家康の名で宗派への法令を制定し、浄土宗は知恩院と、増上寺と伝通院に宛てたのが「浄土宗諸法度」で、これは知恩院に伝わったものです。
《浄土宗諸法度 元和四年六月二十八日》1通 江戸時代 元和四年(1618) 京都 知恩院[前期展示10/8-11/4]
こちらは、二代秀忠より出された法令です。
この章でなんといっても魅力的だったのは、
《八天像 帝釈天像、持国天像、金剛力士像、密迹力士像》康如・又兵衛等作 8躯のうちの4躯 江戸時代 元和7年(1621) 京都 知恩院[全期間展示]
二代将軍徳川秀忠によって建立された知恩院経堂内には、秀忠によって施入された宋版一切経を安置するための八角輪蔵が設置されています。輪蔵は水平式回転書架で、輪蔵を一回転させると経典をすべて称える功徳があるとされており、マニ車のようです。輪蔵の下層部に守護神である八天像が配され、本像はそれにあたる。各像ともに動きのある形状なのは、支えている輪蔵を回転方向に向かって手押ししているからで、正面から風を受けて衣も後方へ流れています。彩色も残る。
※虎ブログには知恩院経堂や本展担当の井並研究員が実際に知恩院で輪蔵を押している様子の写真も掲載されています。⇒◆
袋中上人(良定 1552-1639)が新しい経論を求めて渡明しようとしたが、琉球に漂着して、七代国王尚寧王の帰依を受け、ここに桂林寺を開きました。琉球まで浄土宗が伝わった証が展示されていました。
狩野一信の陰影のある怪しげな五百羅漢図は、明兆や大徳寺の五百羅漢図を観てきているので成程と見ました。何分にも3階から3時間近くも観てきていつもの如く最後の展示室は疲れ気味でした。
ゆかりの寺院には紅葉の名所も多く、京都へお出でになったついでに京都会場の展示も楽しみ、ゆかりのお寺を訪ねになってはいかがでしょう。「法然と京都マップ」は、HPからダウンロードもできますが、会場にも用意されています。
教科書の字面で覚えるのと、実際に目にして体感するのとでは大違いです。中学生以下は無料!高校生は700円なので、修学旅行のコースに入れるなど是非是非見てほしいです。
【開催概要】特別展 法然と極楽浄土
- 会期:2024年10月8日(火)~2024年12月1日(日) ※会期中、一部の作品は下記以外にも展示替あり
前期展示:10月8日(火)~11月4日(月・休) / 後期展示:11月6日(水)~12月1日(日)
- 会場:京都国立博物館 平成知新館
- 開館時間 :9:00~17:30 ※毎週金曜日は20:00まで(入館は閉館の30分前まで)
- 休館日:月曜日 ※ただし、10月14日(月・祝)、11月4日(月・休)は開館し、10月15日(火)、11月5日(火)休館
- 観覧料 一般1,800円/大学生1,200円/高校生700円※大学生・高校生の方は学生証を要提示 ※中学生以下は無料 詳しくは⇒◆
- 公式サイト:https://tsumugu.yomiuri.co.jp/honen2024-25/index.html
- 展覧会公式SNS:X(旧Twitter):@honen2024_25 / Instagram:@honen2024_25