豊臣秀次公430回忌 特集展示 豊臣秀次と瑞泉寺
京都国立博物館|京都府
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甲斐庄楠音が描いたあの生々しい『畜生塚』がよみがえる
秀吉の甥、豊臣秀次は、秀吉の後継者として関白まで上り詰めましたが、秀吉に実子・秀頼が誕生するや否や、疎んじられるようになり、ついには謀反の嫌疑をかけられて、関白の職を解かれ、文禄4年(1595)7月には高野山へ下向し、自刃します。
それは秀吉の命によるものとも伝えられていますが、秀次自身が自分の潔白を晴らすために切腹したという説もあるそうです。
秀次とそれに従った家臣たちは、国吉、鎬藤四郎、正宗などの名刀で切腹したと『秀次公縁起』には記されています。
それだけでことは済まず、8月には秀次の妻子30数名が三条河原で公開処刑されました(秀次事件)残忍な事件で、岩佐又兵衛の実父・荒木村重の村重一族と重臣の家族が六条河原で斬首された事件を彷彿させます。処刑跡地には秀次の首を納めた石棺を頂上に置く塚が築かれました。この塚を「畜生塚」と呼びました。
江戸時代になり、慶長16年(1612)、高瀬川を開削していた角倉了以(京都二条にある”がんこ二条苑高瀬川”は了以のお庭の遺構が残ります)は、荒廃していたこの塚を見つけて再整備して、秀次一族の菩提を弔うために、三条大橋のたもとに慈舟山瑞泉寺を建てました。瑞泉寺には秀次一族にかかわる品々が寄進され今に至ります。
1Fの展示室に入った途端に艶やかな表具裂に「あっ!」と息をのむ。
三幅対の『豊臣秀次および眷属像』18世紀に描かれた秀次とその家臣、三条河原で処刑された妻妾やその子たちの集団肖像画です。中幅に描かれる秀次とその家臣、家臣は死に装束で、うち3人はまだ少年の様で涙を誘う。両幅には、秀次の幼い子と妻妾の肖像と彼女たちが詠んだ辞世和歌が認められています。
秀次事件とそれほど経ない17世紀初頭の作と考えられている『秀次公縁起』には、この事件の顛末を記した、豪華な仕様の巻子作品です。
本展示で殊の外目を惹くのは、処刑される妻妾たちが据えられた秀次の首の前で詠んだとされる辞世和歌の懐紙を軸装したその表具裂です。小袖裂を用いたこの表装裂の一群は「瑞泉寺裂」として有名だそうです。艶やかな表装裂は、秀次の妻妾たちの遺品を表装したとも寺伝では伝わっていますが(ありそうなお話です)、江戸時代も瑞泉寺の大壇越であった角倉家からの寄進とも。華麗な表装を纏ったお軸が壁面に並ぶさまは、若くして亡くなることになった女性たちがその小袖を着てそこに立っているようにさえ映りました。(夏場の冷房の効いた空いた展示室で美しさも相まってゾクッともしました)
天皇の意向を側近の蔵人が記し、一度使用した文書を漉き返した「宿紙」を料紙として使用して、蔵人の名前で発給したものを「綸旨」といいます。『霊験天皇綸旨』『東山天皇綸旨』と『女房奉書 三条大納言宛』(香衣の着用を勅許された瑞泉寺四世法空桂屋が、三条大納言へ認めた御礼の手紙で、天皇の意向を近侍する女官が仮名の散らし書きで記すのを「女房奉書」と呼ぶ)の3幅も、「瑞泉寺裂」ですが、桃山時代に流行った繍箔と絞り染のとても豪華な表装に吃驚でした。
京博では、明治古都館(旧館)は免振工事中で(場所が場所だけに工事中に多分いろんなものが発掘されることもあり工事がなかなか先に進まない)春と秋の特別展の合間に展示される通常展や特集展示や名品ギャラリーには、たまたま出かけてみておぉーというものが展示されていることもしばしばです。
2F絵巻展示室は、秋開催の「法然と極楽浄土」のプレ企画として、総本山知恩院秘蔵の国宝「法然上人絵伝」(法然上人行状絵図)のうち特別展では展示されない巻が展示中(7/28まで)、
中世絵画展示室は「関東水墨画Ⅰ」として、祥啓筆の花鳥画、雪村、個人的にお薦めは牧谿風お猿さんがいっぱいの式部輝忠筆《巌樹遊猿図屏風》、近世絵画は狩野山雪特集で《蘭亭曲水図屏風》と嬉しい再会をしました。
武士時代の工芸の粋を結集したのが甲冑と聞きます。金属工芸展示室には、鈍く光る刀剣と背に、【修理完成記念 特別公開】として 重要文化財《縹糸威胴丸》(8/4)が展示中でした。
祇園祭のある夏の京都は、コロナ禍以前とは比べ物にならない程にヒトヒトヒト!ですけれど、特別展の合間の京博は穴場かもしれません。
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- BY morinousagisan