4.0
もの派を学ぶ
なぜ、アーティストが手を加えず、あるがままの〈もの〉を作品として展示するのか、批判的意味合いから名付けられた〈もの〉派は、印象派の命名エピソードを思い出しますが、それだけ時代を先行く革新的な思想がそこにあったからだと感じました。しかし、何も知らずに作品だけ見ても、本当にガラスの上に石が置いてあるだけで、だから...となってしまうところを今回は学芸員の方のお話を聞く機会に恵まれ、少しでも作品の意味合いを知ることが出来、作品を楽しむ事ができました。
『自己は有限でも外部との関係で無限があらわれる。表現は無限の次元の開示である。』李禹煥の言葉を噛み締めながら、作品を見て回ると、少しでも李さんの心に触れた気がしました。
李禹煥の若い頃の作品《風景Ⅰ,Ⅱ,Ⅲ》は、ライティング効果も込みの作品で、蛍光ピンクに包まれ、作品との境目が曖昧になり、色の濃淡によるグラデーションが動いているような目の錯覚を覚え、ゲルハルトリヒターの《ストリップ》を思い出し、若き日の李禹煥は『視覚の不確かさ』という問いをテーマにしていたと伺い、ゲルハルトリヒターの《8枚のガラス板》と重なる面白さを知りました。
李禹煥美術館(直島)にある《関係項ー石の影》が紹介され、石の影に景色の映像が流れるの見て、杉本博司の海景シリーズを思い出し、古代人が見ていた景色を無限の象徴である石が見ていた景色を映像で石の影に表現しているのかなと思いました。
また、李禹煥が若い頃からすでに『影』というテーマは、高松次郎が作品を作っており、今回、李禹煥の《関係項 星の影》は、実際の影と線で描いた影が共存する姿を示すことで、影の存在が実体のない、意味のないものでなないことを証明しようとされていると感じました。絵画、アート自体が虚像といば、虚像であるが、見る人の心を動かす力が作品にはあり、存在意義から考えてもアーティストが作品を作る意味はそこから見出される気がしました。
やはり深すぎて難しい部分もありましたが、単純に見て面白いと表面的に楽しむ側面もありかなと、その両面を重要性を考える時間となりました。